06 苦労人同盟

(……うう、どうしてこうなった)


「おい普亮、その書類元の棚に戻しておけ!」

「ひゃぃっ!」


 髭男に目をつけられてしまったのか、芙蓉は何かと雑用を言いつけられるようになった。明日も来い、と言われたので仕方なく、竜藍に与えられた男物の衣を纏って吏部に赴けば……散らばった書類の整理整頓を命じられた。


 ただし片付けたと思えばふたたびその書類を引っ掻き回して再度失せもの探しを続行するのである。なんだか無為な作業をさせられているような気がしてならなかった。


 ほかの臨時要員と一緒になって室内を右往左往しているうちにあっという間に日が暮れる。そんな毎日が数日続いていた。


 日を増すごとに吏部の正規官吏たちの顔は暗くなり、疲れが滲み始めていた。傍から見ていて気の毒なくらいである。臨時お手伝いの芙蓉たちが帰ってからも仕事を続けているようだったから、よほどの繁忙期なのだろう。


「ああ、もうすぐ官吏登用試験がありますからね」


 董良も若干ぐったりしているようすではあったが朗らかな表情で口にした。

 お昼休憩で一緒になったのだが、あのぴりぴりした室内で唯一、董良だけが落ち着いて仕事をこなしているように見える。いつだって苛々している髭男とは真逆であるようだ。


 昼食代わりに持たせてもらった蓮の実の餡をやわらかな生地に包んで蒸しあげた包子を齧っていると、隣良いですか、と董良が声をかけてきたのだった。降り注ぐ陽光で影になり、彼の姿が一瞬濃い灰色に染まって視えた――がすぐに掻き消えた。


(……成程、そうか)


「そういえば――吏部って官吏登用試験の主担当ですものね」

「ええ、偉い学者先生にお願いして問題を作ってもらったり、その問題用紙を人数分用意したりとそういった裏方仕事の方が多いですけれどね」


 言いながら、ぼんやりと遠くを見つめている。吏部の若手の中でも有望株らしく髭男からも「お前が未来の吏部を背負って立つんだ」と期待を掛けられているのを芙蓉も目にしていた。


「あの……董良様、お昼、召し上がらないんですか?」

「ええ――僕は官舎暮らしですし、あまり贅沢は出来ないのです。普亮さんは奥さんがお弁当を持たせてくれるんですか?」

「ええ、まあ……」


 後宮の宮女を奥様(のようなもの)と言っていいのは皇帝だけだが、下手に否定すると墓穴を掘ることになりそうだ。黙っていると、董良が「元気出してください」と見当違いの声を掛けてくれた。


「奥様のことを思い出していたんでしょう? もしや新婚ですか?」

「え、ええまあ……そうですね」


 芙蓉が後宮まで連れて来られてまださほど時間は経っていない。とすれば新婚と言っても悪くはないような気がしてくる――ただ居留地から連れ去られ、後宮妃になったことを新婚としていいものかどうかはさておき。


「羨ましいなあ」

「はは……」


 乾いた笑いしか出てこない芙蓉と、にこやかに笑みを浮かべる董良である。


「そろそろ休憩時間も終わりですね。午後からも頑張りましょう」


 きらっと眩しい笑顔を向けられて芙蓉は若干の心苦しさをおぼえたのだった。



 ✣✣✣✣



 髭男の命令で始めた幾度目かの執務室の片付けもあらかた終わり、元の床がようやく見えるようになってきたときのことだった。


「……これは?」


 ひらり、と既に片付けられた書棚からこぼれ出た用紙を芙蓉は拾った。

 そこには「貴殿が第 回官吏登用試験に合格したことを証す」とある。どうやら官吏登用試験の「合格証明書」のようだ。まだ第何回目の試験であるのかは書かれていないが氏名は既に記されていた。いずれ清書するための見本か何かだろうか。

 そのとき、急に両目がつきりと疼いた。


「それを寄越せ」


 背後から近づいてきた長身の男が芙蓉の手の中からそれをぱっと奪った。


「吏部尚書! お疲れ様です」

「……まだアレは見つかっていないのか」


 揉み手しながら近寄って来た髭男を長身の男が一瞥すると、頬の横にはみ出た髭がしゅん、と垂れてしまった。それが仔犬の尾のように思えてしまい、思わず芙蓉はふき出してしまいそうになった。

 どうやらこの長身の男こそが吏部の長官である吏部尚書であるらしい。ということは現場を指揮していた髭男が次官である吏部侍郎といったところか。

 何やら偉い人の登場に場の空気が凍り付いていると、巨大なその背を生かして男は周囲を睥睨し――芙蓉に目を留めた。


「そこのお前」

「へ?」

「間抜けな声を上げたお前だ。話がある」


 くる、と背を向けて歩き始めた吏部尚書の後を追うようにして、芙蓉はこの冷え切った空気の吏部執務室を出たのだった。



 ✣✣✣✣



 中庭を横切って人気のない殿舎の隅のほうまで連れ出された芙蓉が、何を言われるのやらとびくびくしていると、遥か頭上から重苦しいため息が降って来た。


「どうして貴女が吏部で下働きのようなことをなさっているのです」


 小声でぼそぼそと言われ聴き取りづらかったが、怒られているのは確かのようだ。


「えーっと……」

「芙蓉妃様、お戯れが過ぎます」


 どうやら吏部尚書――高威こういと名乗った――は、一目で芙蓉の身分を見抜いたらしかった。

 他の吏部の官吏たちは誰も気づかなかったのだが……あの大騒ぎだ、他人のことを気にしている余裕などないのだろう。芙蓉の方とて、男物の服を着ているだけで特別、男性らしく振る舞っているわけでもない。よくよく見れば、違和感はおぼえるのだろう。

 有能な官吏として取り立てられるような逸材であるならば、特に。とはいえ、大々的にお披露目されたわけでもないのによく自分が芙蓉だと気づいたな、と感心していると、


「貴女のことは後宮入りの馬鹿騒ぎの際にお見かけして存じておりました。大体何故貴女が後宮から出て――……ああ、考えるまでもない。アレの仕業か……貴女も被害者だということですね」


 訳知り顔で頷いた高威に芙蓉は苦笑を返した。


「被害者とまでいうとさすがに……お察しのとおり陛下のお考えで、此方に連れ出されていたわけ、なのですが」


 高威も宮女らと同様に竜藍のことを蛇蝎のごとく嫌っているようだ。苦虫を嚙み潰したような顔で「貴女もお気の毒に」と憐れみを込めて労ってくれた。


「い、いえ」


 心からの同情の言葉に少しだけ慰められたような気がしたが、そこまで憐れまれる身の上なのだろうか、といまになって怖くなった。


「私からも陛下に上奏します。ですから芙蓉妃様はすぐに後宮へお戻り下さい。不必要な労働をする必要はございません。大体、御身に何かがあってからでは遅いのですよ」

「いえ、あの……よろしければこのまま――わたしに下働きの『普亮』として吏部のお手伝いをさせていただけませんか」


 すると、理解できないとばかりに高威が血走った目を見開いた。


「な、何故……皇妃が面白がるようなものはうちには何も」

「実はわたしにも事情がありまして」


 竜藍の「盗人を探せ」という指示について触れることは控えたのだが――竜藍から何か言いつけられているらしいことは察したらしい。


「この男装姿も、その、陛下の?」

「ええ……そうです」

「……近頃世間では自らの妻に男ものの衣服を着て愛でるという流行があるという――まさかあの蛇もそれにかぶれたのか……いやはや主上の考えることはまったくもって理解不能だ」


 ぶつぶつと何やら唱えていた高威が頭を振って言った。


「芙蓉妃様はうちの事情は或る程度ご存知か?」

「あの……保管されていたモノが執務室からなくなったと」


 高威は自嘲するように唇をゆがめた。


「ウチは陛下にいかにバレないようにするか苦心していたというのに、わざわざ芙蓉妃を使ってまで引っ掻き回そうとするとは」

「わたしは陛下に玉璽のことは言っていませんよ……?」

「言わずとも既に知っていたに決まっています、あの性悪が何も知らず貴女を吏部に派遣するものですかっ! 忌々しい……しかし、芙蓉様様が近くにおられた方が、陛下の行動を先読み――抑制できるやも」


 そうだ、と叫ぶと高威は芙蓉の肩を掴んだ。


「此処はもう乗りかかった船ということで、申し訳ありませんが芙蓉妃様には吏部のお手伝いを続けていただくことにいたします。うちは猫の手も借りたい事態ですので」

「は、はいっ」


 吏部尚書と芙蓉妃の間の同盟が結ばれた瞬間だった。

 ただ物陰での会話を聞いている者がいるとは、このときのふたりは思いもしなかったのであった。


 この流漣国で唯一、白銀の髪を持つ青年は小さな声で「そろそろ頃合いかな」と呟いた。

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