03 陛下からの贈り物

 人間、どのような環境であっても慣れるものである。


「……はあ」


 芙蓉は深く息を吐きだしながら、膝の上でのんびりと目を瞑っている皇帝陛下を見下ろした。


 すこし酒を飲んで「酔ってしまった」などと言いながら膝枕をねだった竜藍に芙蓉は成り行きではあったがおとなしく膝を差し出すことになった。渋々、ではあったがそこを気取られてはいない筈だった。


「君の膝はどんな枕よりも気持ちがいい――やはりスパッと斬り落として、部屋に常に置いておくというのはどうだろう」

「どうだろうと言われましても困ります……」


 スパっと、などと不穏な響きを織り込まれると、この皇帝の突飛な行動に慣れつつあるとはいえさすがに肝が冷える。


 眼、脚、膝。これらすべて、竜藍が「好きだから自分のものにしたい」とねだってきたものだ。もっと他にもあった気がするが数が多すぎて忘れた。


 どうして竜藍の発想がいちいち若干猟奇じみているのか未だに芙蓉には不明であった。が、適当に流していれば深掘りをされることもないと気づいてからはさほど緊張することもなくなっていた。


 とはいえ膝の上で猛獣――否、大蛇が寝転んでいるようなものではあるので、可能なことであるのなら一刻も早く飛び退きたいのも事実だった。


 だが「この体勢が私には一番落ち着くんだ」と言われれば妃としてはすなおに膝を貸し出すほかない。

 牙が抜かれたように芙蓉のもとでごろごろしている陛下を前に、宮女たちは怯えることも減って来た。積極的に声を掛けてくるということはないが、息を潜め遠くからこっそりようすを窺っているのがわかる。芙蓉が獰猛な獣を飼い馴らしているようにでも見えるのだろうか。尊敬のまなざしを向けられることも心なしか増えた。


「いつ見てもいい色だね――私は君の紫水晶のがすっかり気に入ってしまったんだ。繰り抜いて瓶にでも入れるとしようか」

「はは……ご冗談を」


 また来た。今日は酒が入っているせいか絡み方がしつこい。

 竜藍はしばしば芙蓉の眼について言及することが多かった。何故だろうか、と考えているうちにぼそりと竜藍がつぶやくようにして言った。


「そういえば、初めて君に会ったとき――私のことを『蛇』と言ったね」


 あれはどうして――?


 ぞくっと背筋が凍るような冷たい声音で流漣国皇帝は芙蓉に問うた。

 急激な温度変化についていけなくて「へ」と気の抜けた声で返してしまったが失敗だったかもしれない。


 この空気――返答の次第によっては命さえ落としかねない、そう芙蓉は直感する。


「もしかして、嵐華族に伝わる不思議な『眼』と関係があったりするのかな」

「へっ、陛下は、【嵐眼】のことをご存知なのですか――?」


 ああ、と膝の上でしなやかに伸びをしながら竜藍が言った。


「君を妃として貰い受けるために、族長には話を通しに行ったからね」


 そのときに聞いた、と何てことはないように応える。

 ただその黒檀の眸はたえず芙蓉の反応を窺っているようではあった。


「君は愛されていたようだね。皆、君のことを心配していたよ――それも当然か、がいきなりやって来て族長の娘を攫って行った、なんていう噂が立っていたぐらいだから」


 竜藍はやれやれと息を吐き、目を伏せた。


「いちおう付け加えておくと、君たち嵐華族に危害を加えようとしていた武官はまとめて処分したよ。それを黙って見ていたもの囃し立てたもの、すべて洩らさずに――安心するといい」


 おそらく件の武官たちは演習中、暇を持て余して「的当て」でもしようと誰かが言い出した。近くに運悪く嵐華族の居留地があり、芙蓉を含む数人の者たちを発見して狩りのごとく追い掛け回した――というのが事の真相のようだった。


 射かけられたとき、矢が頬のすぐ横を掠めたのを思い出し、芙蓉は真っ青になってそうですか、とだけ呟いた。だが処分……処分、とは。考え込んでいるうちに涼やかな声が耳朶を打った。


「族長によれば嵐華族側の被害はないそうだよ……よかったね?」


 ほっと安堵の息をこぼした芙蓉を眺め、竜藍は満ち足りたように微笑んだ。その表情がまるで幼子のようにあどけなくも見えたので、一房、頬に流れた竜藍の髪に何気なく手を伸ばし触れようとした。


「そう。それでね……族長は、君を嵐華族の巫女姫だと言っていたんだ」


 ぴた、と伸ばしかけた手が止まる。

 また空気ががらりと変わった。もしかすると、いままでの話は芙蓉を油断させるためだったのかもしれない。

 故郷の話で油断を誘い、すかさず斬り込んで来た竜藍を前に、震えながら芙蓉はぎこちなく笑みを浮かべて迎え撃った。


「お……大仰な呼び方と思われるでしょう? 族長の娘はそう呼ばれるのです。真実を見通す【嵐眼】を持つとされていて」

「ああ、鷲神ヴェリアの持つ権能だよね」


 スウォル大陸に伝わる創世神話は、広く民衆にも知れ渡っていて、首都瑛杏えいきょうの広場に設置されている碑文にも刻まれているくらいだった。


 蛇神リャーガルーダと鷲神ヴェリアは争い続け、その戦いは長きに及んだ。

 それは蛇神が何もかもを溶かす舌を持ち、鷲神が何もかもを見通す真実の眼を持っていたためだと言われている。


 だが最終的には、蛇神はスウォル大陸の北部にとぐろを巻いて倒れ、その躯の上に流漣国は建てられた、というのがよく知られているところであった。


 嵐華族は鷲神ヴェリアを守護神として崇めているため、【嵐眼】という不可思議な眼の存在を信じているのである。


「ええっと、その……わたしはただ目が少し良いぐらいで、神話で語られるような不思議な力とは程遠いのですが……」

「目がいい、ね。少なくともお父上はそれだけとは思っていないようだけれど」


 竜藍は芙蓉の瞳を食い入るように覗き込んでくる。なんだか気まずくなって瞼を閉じ、静かに息を吐いた。


 芙蓉は幼い頃から目がよかった。と同時に、利口な子供であった。


 遠くのものを視て、「じきに商団が東からやってくる」と推測したことが予言のようにぴたりと当たったため巫女姫だ何だといままで周囲から持ち上げられてきたにすぎない。

 時々、嵐華族にとって実りある情報――たとえばもうじき雨が降る、とか。この商人は嘘を吐いている、とか――を与えることが出来たが、万能というわけではない、というのが芙蓉の感覚だ。


「族長に君を後宮に入れたと事後報告したら、我が一族の巫女姫をよくも奪ったな、と鉄瓶を投げつけられたよ」

「お父様……」


 流漣国の皇帝に向かってなんということを。

 思い出しただけでも笑えて来る、と竜藍は喉を鳴らした。気分を害しているというわけではないらしいのでひとまずほっとする。


「で、だ――君は、俺の中に『リャーガルーダ』を視た。そうだろう?」


 ぎくりとしたのがバレていませんように、と芙蓉は祈ったがその願いは鷲神ヴェリアには届かなかったようだ。


 芙蓉があのとき視たものは竜藍の本性であり、それが――「蛇蝎」と評されるとおりの「蛇」だと感じてしまったのだ。こうしてひとの性質が眼で視えることは稀なのだが――それが【嵐眼】の特性でもあった。


 ひとには誰しも他人には見せない顔がある。嘘を吐いていても笑顔でいる者もいる。踏みにじられていても心の中に虎を飼っている者もいる。


 それが芙蓉の眼には時折「視」えるのだ。


 常に視えるわけではない――芙蓉はその者が強く、魂に絡みついた獣性をあらわにした瞬間、靄のように本人と重なってこの眼で「視」えるときがある。

 それを何でも見通す【嵐眼】だ、と周囲からもてはやされていただけだ。使途つかいみちはさほどなく、ただの占いのようなものでしかない。


 蛇、もとい蛇神リャーガルーダは「知恵」「狡猾」「凶暴」の象徴である。

 大体、竜藍を「蛇」と指さすのは、皇帝陛下に向かってあなた頭は良いけど性格はずるくて手が付けられなくて最悪ですね、と言ったと同義になってしまう。


「私は君の【嵐眼】を信じるよ。芙蓉、君には特別な力がある」

「そんなものありません!」


 混乱する頭で即座に言い返したとき、しまった、と思った。

 皇帝に意見するなどもってのほかである。


(しかも相手はあの、蛇蝎皇帝なんだよね――何人もの妃を処刑し、後宮から追い出し、追い出し……てもらえる?)


「あぁっ、たったいま気分を害されましたよねっ⁉ 申し訳ございません陛下! どうかわたしを陛下の御前から下がらせ、もとい後宮から追放して下さい……!」

「気分はすこぶるいいよ。心配してくれてどうもありがとう。あと何があっても君を後宮から追放する気はない」


 永遠に、と膝の上で囁かれ、芙蓉はがくりと肩を落とした。

 さりげなく他の妃と同様に追放を願い出たのだが呆気なく却下されてしまった。何故これほどまでに自分は気に入られているのだろう……? まったくもって理解不能だ。


 芙蓉がそっとへこんでいると、むくりと竜藍が身体を起こした。ようやく膝枕の刑からは解放してもらえるようだが、なんだかどっと疲れてしまっている。


「ああそうだ、今日は芙蓉に贈り物があるんだよ」

「はあ、贈り物……? う、嬉しいです♪」


 一瞬、素で反応しかけてしまったのだが強引に盛り上げようとした結果、わざとらしくなってしまった。反省、反省。


「あの、これは……?」

「いいだろう? 特別に用意させたんだ――着て見せて」


 包みを解いて出てきたのは意外にも地味な色味、黒の衣だった。しかも女性ものではなく男性もののように見える。

 しかし寵妃への贈り物にしてはいささか見劣りがする。豪奢な絹織物をもらえば喜んだのか、と問われればべつに、というところだから構わないのだけれど。


「近頃は妻に男物の服を着せて楽しむのが流行だそうだよ」

「はあ、そうなのですか……?」


 長年、流漣国の近くで暮らしてきたが領域内に頻繁に立ち寄るわけではない。流行に疎い芙蓉は竜藍の言っていることが本当かどうかは判別がつかなかった。


「では、着替えますが……」


 じっと芙蓉の方を見つめている竜藍に向かって言った。


「少しの間後ろを向いていていただいても?」

「何故?」


 何故、と言われても――芙蓉は(竜藍の)頭を壁に打ち付けたくなった。


「わ、わたしたちは……その、まだ、ふ、夫婦らしいことは何もしていませんし!」


 いくら皇帝陛下とはいえ異性の前で着替えをするのは気恥ずかしい。


 膝枕だのなんだの、じゃれあいのような接触や会話があったとしても夫婦として必須と言える世継ぎに係る行為には取り組んでいなかった。

 たいてい竜藍が後宮を訪ねるのは昼の公務の隙を縫っていきなり、であったので――現時点では、夜のお渡りはいまだない状態なのである。


「ふうん、まあいいよ。では私はあっちを向いているね」


 駄々を捏ねられるかと思ったが予想外にすなおに芙蓉のお願いをきいてくれた。

 着替えのために宮女を呼ぶか迷ったが、元々芙蓉はひとりで着替えぐらいできる。それに複雑なつくりの女性用の衣よりも竜藍が持ってきた男物の衣の方が、嵐華族で着ていた衣と似ていて着替えるのは楽だった。

 あとは帯を締めて、完成だ。

 もういいですよ、と声をかけようとしたところでぱちっとこちらをじっと見つめていた竜藍と目が合った。


「ああ、やっぱりよく似合っているね」

「っ、いつから見て……⁉」

「ん? ああ大丈夫、芙蓉は気にしなくていい」


 気にするわ、と言い返さなかっただけ自分をほめてやりたかった。

 なんとかひとりで着替え終わると、竜藍は遠慮なく――不躾と言っていいほどに芙蓉へ視線を向けてきた。


「――いいね。これならイケそうだ」


 まったくもって竜藍が何を言っているのかわからない。


 困惑する芙蓉の手を引き、竜藍は誰も姿を見せない後宮の廊下をためらいもなく歩いていくと、宮城へと続く門を開け放ったのだった。

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