02 異例尽くしの後宮入り

「芙蓉様、今日もお綺麗ですわ!」

「嵐華族の女性は芙蓉様のような金砂の御髪なのかしら……羨ましいです!」


 蛇神リャーガルーダの加護を受けた流漣国。その後宮に華やいだ宮女たちの声がこだまする。

 今日から此処が君の家だよ、とばかりに流漣国皇帝によって放り込まれた後宮は、芙蓉が思っていた場所とは少し違っていた。


 芙蓉が好んで読んでいた小説のように、妃たちが権勢を競い合い、他を虐げてのし上がり、皇帝の寵愛を得ようとする女の戦場――。


 そんな印象は迎え入れられた当日に払拭されてしまったのだった。


✣✣✣✣


(えらいことになってしまった……)


 竜藍がさっさと後宮を出て行ってしまったため、その場にはわけもわからず連れて来られた芙蓉といきなり皇妃となった得体の知れない女を前に困惑する宮女たちが残された。


『あ、あの……』

『失礼いたしました。芙蓉妃様』


 ただ、さすがは大国の有能な女官たちである。皇帝の無茶振りにも慣れているようだ。芙蓉を歓迎しようと傅いた宮女たちのすぐ隣――とある宮の中で、既に後宮生活を送っていた妃のひとりが急に騒ぎ始めたのである。


『もう、わたくしこんな場所耐えられませんわっ。実家に帰らせていただきます!』

『かしこまりました、秋玲妃様』

『えっ』

『……陛下より、秋玲妃様が実家に戻ると言い出したら許可をするように、と言われております。その代わり二度と戻っては来るな、と』


 むきー、と猿のように顔を真っ赤にして怒り狂った妃嬪は宮女たちに命じて荷物をさっさとまとめ、翌日には後宮を出て行ってしまった。


『えっ……いまのって』


 後宮とは一度入れば出られない、世間一般で言うところの女の牢獄……という印象を勝手に抱いていたのだが――もしや自分も願い出れば実家に帰れるのかもしれない。芙蓉の胸に小さな希望が兆した瞬間だった。



 そのちょっとした騒動の後に宮女たちのまとめ役である女官長から受けた説明によると、現在この後宮にいる妃は芙蓉のみだそうだった。


『……は? えっ』

『そうなりますよね、お気持ちはよくわかります』


 女官長は沈鬱な表情で語った。


『先ほどご覧になったように、妃のおひとりであった秋玲妃様が明日には出て行かれるそうです。ですので、ついに後宮に残る妃はついにあなた様のみになりました』


 なんてことはなさそうな素振りを装っているが女官長にとっても前代未聞の出来事であるらしい。茫然としている芙蓉に遠い目をしながら言う。


『かつては皇后さまを筆頭に、何名ものお妃様がいらっしゃいました。我ら宮女もたいそう勤め甲斐があったものでございます。ですが二名の妃嬪様が処断されてからは空気ががらりと変わりました』

『処断、というのは……』

『陛下の機嫌を損ねたことにより、死を賜ったのです』


 要するに、死罪である。

 芙蓉は目の前が真っ暗になった。


(なんてところだ、なんて場所なんだ後宮……)


 やはり想像どおりの怖い場所だった。


 竜藍が蛇蝎皇帝、と影で呼ばれるのもさもありなん、である。

 芙蓉は兄と共に馬を駆って流漣国をしばしば訪れていたので、この国の文化や社会情勢にもある程度の理解があるつもりだった。

 ただ所詮は異民族の娘、田舎者同然である。文化の違いから不躾な態度を取ってしまうこともありえるだろう――その結果、皇帝陛下の機嫌を損ねてしまうことなど簡単に想像ができた。


 芙蓉が青ざめていると、その怯えに共感を示すように女官長が頷いてくれた。


『おひとりは、身に纏わせた香の匂いが気に入らないという理由で。またもうひとりは供された茶が不味いという理由です』


(理不尽が過ぎる!)


 その程度で死罪になっていたら後宮にいる女性たちも皆、委縮するに決まっている。

 なんでもその処刑が決まってから、宮女、妃たちは香を焚くの控え、茶を淹れる練習に励んだらしい。


 女官長の悲しげな表情ばかりではなく、後宮全体に流れる澱んだドブ川のような空気の正体はこれだったのか、と芙蓉は妙に納得してしまった。陛下の機嫌を必死に窺うにしても限界がある。今日は雨だから誰かひとり死罪にでもしようかとでも言われかねない、と恐れるのも当然だった。


 そしてこの雰囲気に耐えかねて、妃たちがこぞって実家に帰りたがるのも――しかしそれは容認しているようだけれど。芙蓉は考え込んでしまった。


『本日よりわたくしどもがお仕えするのはあなたひとりばかりになってしまいました。近頃は宮女たちの数も削られていて行き届かないところもあると思いますが……何卒、よろしくお願い申し上げます』


 疲弊しきった女官長を眺めながら、途方に暮れた芙蓉はあいまいに微笑んだのだった。


✣✣✣✣


「芙蓉様、花茶はいかがですか? 器の中で綺麗に花が咲くんですの」

「今日の衣は何にいたしましょう、芙蓉様ときたらどの色も似あってしまうから困ってしまいます!」


 仕えるべき主を失っていた宮女たちは取り急ぎ、新しく迎えられた妃に取り入ろうと日々、必死だった。

 どうやら竜藍が自分で選んで後宮に連れてきたとあって、芙蓉は寵妃であるとみなされたようだ。些細なことで皇帝に言いつけられ、取るに足らないような罪で処罰されたらたまったものじゃないとでも考えているのだろう。


 後宮に来て数日、芙蓉は腫れ物に触るように優しく、親切にされている。


 新参で、さらには異民族の妃など忌み嫌われ、意地悪されるのが当然――時々、流漣国の古書店に立ち寄っては読んでいた後宮モノの小説の定番だった――のはずだが。

 居心地が悪いなどとは嘘でも言い難いような状況に、芙蓉は早くも息苦しさをおぼえていた。


 女官長が日中になって芙蓉の元を訪れたとき、芙蓉も含め、宮女たちのあいだの空気がひりついた。嫌な予感が頭をよぎる。


 本日、陛下が芙蓉妃のもとを訪ねていらっしゃいます、という女官長の声に芙蓉付きの宮女たちの表情が一気に沈んだ。それは咲き誇っていた花が一斉に萎れてしまったようでさえあった。

 悲壮な顔で支度を、と促す宮女たちに従い、陛下を迎える準備を整えていると予告されていた刻より半刻も早く、後宮に流漣国皇帝、竜藍りゅうらんが現れた。


 一斉にひれ伏した宮女たちの姿など目に入らない、とばかりに竜藍が芙蓉のもとにやって来る。皇帝がすぐそばを通ったときの床の軋みさえにも宮女たちは恐怖をおぼえていることだろう――ただしそれは芙蓉もおなじだった。


「やあ、芙蓉。元気そうで何よりだ――芙蓉以外は下がっていいよ」


 その一言に、一気に宮女たちのあいだに流れていた空気が緩む。

 皇帝の命令だから仕方がない、とばかりにそそくさと逃げるようにその場を立ち去っていく彼女たちの背を恨めしく思いながら眺めていると「芙蓉」と甘く蕩けるような声音で呼ばれた。


 郷里近くの平原で聞いた凍てつく声とは真逆の、春の日差しのようにやわらかく温もりを感じる声音である。


「へ、陛下……」

「ああ、前にも言ったように君には名前で呼んでほしいな」


 甘さの中にも微かな苛立ちを孕んだ言葉に芙蓉はぎくりとした。それは明らかに、従わざるを得ない「お願い」である。


「……竜藍、様……あの、お忙しいでしょうに毎日のようにわたしなどの顔を見に来ずとも、その、皆からはよくしてもらっていますので……」

「そう? でも私が来たいから来ているんだ。芙蓉は何も気にしなくていいよ」


 遠回しにそんなに来ないでほしい、と芙蓉は伝えているのだがおそらくわかっていて竜藍はこう返してきている。そういうひとだ、と数日の付き合いだけでもう察することができるようになっていた。


「故郷から離れてさびしいだろう。せめて私が訪ねることで、君の心が穏やかになることを願っているよ」

「ありがとうございます……」


 むしろ陛下が来ることで気が休まらないのだが、そういうところもすべて理解したうえでこの男は話しているに違いなかった。

 端的に言えば、性格があまりよろしくない。

 さすがは蛇蝎皇帝、と呼ばれているだけはある。そんなふうに芙蓉が納得していると、


「何を考えているの」

「ひゃっ」


 間近に整いすぎた感のある顔が迫り、芙蓉は悲鳴を上げた。

 本当ならぎゃ、と叫びたいところだったがなけなしの貞淑さで無様な反応を避けることが出来た。

 ほっと胸を撫で下ろしながら「竜藍様の顔が美しすぎて、驚いてしまいました」と半分ぐらいは本当のことを言えば「そう?」と悪い気はしないとばかりに微笑んだ。柔らかな微笑を湛えているときは、ただの美丈夫に見えなくもない。青みがかった黒の眸が興味深そうに細められた。


「後宮での生活には慣れた?」

「ええ、不自由はございません」


 にこ、とぎこちないながらも芙蓉は笑みを返した。いま纏っているのは質感も豪奢な長裙で上衣の縁取りにはご丁寧に「芙蓉」の文様が刺繍されている。着ているだけで肩が凝りそうだと最初は思ったが、着心地自体は悪くなかった。

 そんな中失礼いたします、とか細い声が聞こえる。がたがたと震えながら女官がお茶の道具を持って来て、置いていった。ところが竜藍は気にしたようすもなく、じっと芙蓉の顔を見つめている。


 「ねえ、芙蓉」


 言いながら、底の知れない深い闇のような眸で覗き込んでくる。心臓を鳥の羽根先で撫でられたかのようにぞわりとした。


「っ」


 さらには、むぎゅ、と顎を掴まれ、仰のかされた。喉を潰されたわけでもないのに声が出せなかった。


「君の瞳」


 甘い蜜のような、ねっとりと肌にまとわりつく声音だった。


「綺麗な色だね」


 綺麗。褒められれば嬉しいはずなのに、何故だか薄ら寒いような心地になる。確かに、芙蓉の濃紫の瞳は嵐華族の中でも「美しい」と称される特別な瞳ではあった。どこまでも深くを見通す瞳として、崇拝されるほどには。


「あ、ありがとうござ」

「……君の目玉を繰り抜きたいな」


(何て?)


 つう、と背中を冷たい汗が流れた。

 落ち着け、と自分で自分に言い聞かせる。


 嵐華族で芙蓉は姫だなんだと持ち上げられて、物騒な言葉とはあまり縁がなかった。それがいまは「目玉を繰り抜いてやりたい」などと面と向かって脅されている。自分は彼の機嫌を損ねるようなことを何かしてしまったのだろうか。


(……どこだ、どこでわたしは間違えた⁉)


 彼が口をわずかに開いて笑うと彼の朱い舌がちらりと見えた――ぞくっと背筋が凍る。

 此処で何か気の利いた詩歌でも引用してさらりとかわすのが流漣国の教養ある女性の手管なのだろうが、芙蓉はその手のことに疎いうえ、恐怖で頭がまったく働かない。


「そうだ、脚も切ろうか」

「っ!」


 穏やかな表情で言うものだから、一瞬、その意味を考えてしまうがそれ以上でも以下でもないだろう。


 目を抉り、足を切断してやる、と言われたのである。


「も、申し訳ありません……」


 なんとか逃れる術はないものかと震える声で必死に謝れば、竜藍は不思議そうに首を傾げた。


「ん? 何か謝られるようなことをされたかな」

「えっ、ですがいま……」


 だらだらと冷や汗をかいているうちに「ああ、そろそろ行かないと」と竜藍はへやを出て――後宮からも出て行ってしまった。


 すっかり呆けてしまった芙蓉のもとに宮女たちが駆け寄って来て、気つけ代わりに茶を飲ませてくれたがしばらくの間、立ち上がることさえもできなかったのである。

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