嵐華、碧空に咲く~蛇蝎皇帝は嵐の乙女を寵愛する~

鳴瀬憂

01 蛇のようなあなた


 どこまでも広く、場違いなほどに碧い空が広がっている。

 蹄の音がすぐ背後まで迫り、芙蓉ふようは懸命に走り続ける。


(逃げなくては、早く、早く)


 額に汗を滲ませ、金砂の髪を頬に張り付かせながら少女は草原を駆けていく。まるで狩りを楽しんでいるかのような笑い声が、背後から聞こえた。


 この草原は芙蓉たち嵐華族らんがぞくの野営地だ――いや、野営地だったという方がふさわしいかもしれない。追いかけられた仲間たちは散り散りに逃げ出し、その結果どうなったのかは知らない、知りようがなかった。隠れていた母子を見つけて快哉を叫ぶ男の声。それに続く絹を裂くような悲鳴。


 芙蓉は助けに向かうことはなかった。

 臆病者だと自分でもわかっている。


 こういう時こそ民の前に立って慈悲にすがるのが嵐華族族長の娘、蔡芙蓉さいふようの成すべきことだと理解していたのにもかかわらず、だ。


(本当に……ごめんなさい)


 自らを恥じながらも、追手から逃げるべく走り続けている。

 生きたかったから、というよりかは死にたくなかった。ただそれだけだった。

 だって死ぬのは怖い。優しかった母だってもういない……一年前、病に罹りあっという間に死んでしまった。


 野山を駆って過ごしてきた芙蓉は体力には自信があったが、人の足と馬ではさすがに差がありすぎる。見つかってしまえば最後だと頭では理解していた。背後に迫る流漣国なまりの声が「逃げろ逃げろ!」と囃し立ててくる。


 これは狩りなのだ。

 獲物は「人間」。ほどよく手綱を引いて追いつけそうで追い付かない距離を保ちながら、芙蓉を小獣のように追い立てる。


 草が燃えるにおいが風に乗って漂ってくる。この方角は――と考え始めた頭を叱咤して走ることに集中させる。

 芙蓉は振り返らなかった。振り返って「視て」しまえばすぐに、戯れに与えられた猶予期間を奪われてしまうと理解っていたからだった。


 心臓が破れそうなほどに激しく鼓動し、喉は火炎を飲み込んだかのように熱く燃えていた。もうどれくらい走り続けているだろう、それすらもあやふやだった。でも足を止めたらおしまいだとわかっていたから、ひたすらに芙蓉は走り続ける。


 嵐華の巫女にふさわしい、と父から褒められた真珠の肌も黄金の髪も砂埃に塗れ、くすみ色あせてしまった。ただ芙蓉にはそんなことを気にする余裕もない。途方もない追いかけっこ、向こうが飽きてしまえばあっさりと捕まり――芙蓉は痛めつけられ、辱められる……殺されるのかもしれない。


(その前に何か手を打たなくては、っ)


 あ。すっかり息が上がっていた芙蓉の口から零れたその音は、砂塵の中に埋もれて消えてしまった。

 頭がじゅうぶんに働かない状態だったせいもあるだろう。足元の小石に躓いてしまったのだ。激しく転倒した芙蓉は、草叢の中に倒れ伏した。

 ざ、とすぐ後ろに追いかけてきた者たちの息遣いが聞こえる。


「なんだこれでおしまいか」

「つまんねえなあ」


 けたけた笑う男の声が耳を塞ぎたいほど不快だった。罰が当たったんだわ、と朦朧とする意識の中で芙蓉は考えていた。民たちを見捨てた芙蓉の罪を、怒りの化身でもある蛇神リャーガルーダは見逃さなかったのだ。


 此処スウィル大陸の北部領域を統べる大国、流漣国りゅうれんこくは、蛇神リャーガルーダのむくろの上に建てられたと言われている。その周辺地域に居住する嵐華族にとっても蛇神は当然のように信仰の対象だった。


(蛇神リャーガルーダよ、鷲神ヴェリアよ。どうか嵐華族のみんなが、より良い世界に再び生まれ落ちることをお許しください!)


 せめて最後だけはと、芙蓉は族長の娘らしく自分のことではなく部族の皆のことを祈る。

 ぎゅっと目を瞑り、まばゆい陽光を浴びてぎらりと光る剣を見ないようにしていたときのことだった。


「何をしているの」


 氷を首元に押し当てられたかのような冷ややかな声音が耳朶を打つ。

 いままでずっと汗が止まらなかったのに、瞬間、真冬の山に放り出されたかのようにこの場が凍てついた。


 砂と草のにおい。

 たったいま声を発したと思われる男の、乾いた汗のにおい。


 逃げなくてはと咄嗟に考える。それほどまでに邪悪なものを内包した男が立っている。そんな気がした。

 ざ、と砂を蹴る音が後ろから聞こえてくる。


「もしかして耳が悪い? 私は聞いているのだけれど。この子は何」


 あ、あ、と声にならない呻きを発し続ける男たちに向かって、この氷の声の持ち主はいっそう冷たく言い放った。


「私の声が聞こえない耳なんて要らないだろう? 切り落としてあげようか」

「ひっ……、申し訳ございませんっ陛下! 遊牧民の集落を見つけたので狩りでもしようとこいつが言うものですから」

「おま――他人のせいにするんじゃねえよ、お前だって乗り気で……」


 おそるおそる顔を上げると、そこには豪奢な碧色の衣を纏った男が立っていた。

 怯えきった表情の武官らしき男らふたりを睥睨し、呆れたとばかりに息を吐く。


 年の頃は二十代半ばごろ。朝露に濡れる蜘蛛の糸を集めたような白銀の髪に、青みがかった黒の眸を有している。


(まさか)


 この特徴を持つ高貴な人物のことを、芙蓉はたったひとりしか知らない。


「へえ。私の許可も得ず、勝手に遊牧民を追い回して『遊んで』いたと……誘ってくれえれば飛んでいったのに、ね?」


 傍らに立つ従者が、捧げ持っていた剣を男に手渡した。


 流漣国、皇帝――哀竜藍あい りゅうらん。残忍で狡猾と市井では評判の男は別名「蛇蝎皇帝だかつこうてい」とよばれていた。


 なんでも彼の命令に異を唱えようとした高官の首をその場で斬り落とした、とか。気に入らない香を纏っていたというだけで、妃を何も持たせずに後宮から追い出したとか。良い噂は聞いたことはないが悪い噂は浜辺の砂粒よりも多く有する、と評判の皇帝だった。


「あは、狩りは私の勝ちかな」


 氷の声音に、ふっと芙蓉の意識が引き戻される。

 ずば、と肉を断つ音が確かに聞こえた。


 咄嗟に芙蓉は自分の首を押さえる。てん、てんてん、と転がった男の首が恨めしそうに芙蓉を睨んでいる。

 同僚の死に恐れを成して逃れようとしていたもうひとりも、まるで舞でもしているような華麗な所作で切り捨てられた。ぴっと生ぬるい血が芙蓉の頬に飛んだ。


 恐怖のあまり喉が鳴ってしまったせいだろうか――檳榔子黒びんろうじぐろの眸が、芙蓉の方に向けられた。


 その瞬間、芙蓉の両の眼球が熱く燃えるように動いた。


 竜藍の姿に重なって、何やら黒い靄のようなものが視える。強大で、色濃く魂に絡みつくようなそのさまを前に芙蓉は思わずつぶやいていた。


「蛇――……」


 従者が「不敬であるぞ」と叫んだが、それすら耳に届かずまっすぐに竜藍を見つめていた。しばらくすると蠢いていたその黒い気配がすうっと消えていくのがわかった。


 なんだったのだろう。

 ぼんやり考えていると、頭上から雪のつぶてが降って来た。


「ふうん。君は、えるのか」


 感心したように竜藍がつぶやいた。そしてしげしげと芙蓉の姿を眺める。

 思わずびくっと肩を揺らしたさまさえも気にせず、頭のてっぺんからつま先までなめるように見まわした。


「ふふ、思わぬところでいい拾い物をした」


 恐怖のあまりはらりと涙をこぼした芙蓉をたくましい腕が抱き上げる。


「へ、陛下」

「これを私のものにするよ」

「ものとは……」

「連れて帰る。とりあえず後宮にでも入れておこうか」


 少しの逡巡の後、なりません、と従者が顔を真っ青にして呟いた。異を唱えることで命を失いかねないのだから仕方がない。


「どうして?」

「こ、この娘は……近隣地域に居住する遊牧民族・嵐華族の娘でしょう。装束からして身分も高いようですが」

「なら花嫁にはぴったりじゃないか」

「どこがですか!」


 気の毒なほど真っ青な顔で、従者は竜藍と芙蓉を見比べる。ぶるぶると首を激しく左右に振って叫んだ。


「先ほど処断した者たちが嵐華族を痛めつけていたようです。このまま許しを得ずに連れ帰っても軋轢を生みかねません。それにこないだ丞相の娘――皇后陛下のことも『気に入らない』と後宮から追い出したばかりでしょう! 臣たちからも反発が……」

「うるさい」


 低い声で竜藍が言うと、従者はぴたりと口を開いたまま固まった。まるで、氷像にでもなったかのように身動きできないでいる。


「嵐華族の族長あてに婚礼の祝いと詫びを兼ねて贈り物でも用意させるとしよう。それでいいよね」


 そう微笑むと、ぎこちなく従者は頷いた。


「ところでお嬢さん、君の名前は?」


 腕に抱えた娘の存在をようやく思い出したとばかりに、竜藍は芙蓉の顔を覗き込んで来た。先ほど視えた「蛇」の影は消えて、氷細工のように端正な男の顔だけがそこにある。


「蔡芙蓉、です」

「芙蓉か。好きだよ」

「……えっ?」

「好きな花だ――じきに君のことも好きになる。そんな気がするよ」


 くすりと笑うと、竜藍は芙蓉を抱えて馬に乗せる。

 ぐんぐん慣れ親しんだ平原が遠ざかっていくというのに、悲鳴を上げる余裕さえなかった。ただ振り落とされないように蛇を思わせる不穏な気配を漂わせる男にしがみつき、ぎゅっと目を瞑る。


 こうして芙蓉は慣れ親しんだ平原から、流漣国の中枢へと足を踏み入れることになったのだった。

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