第二話
私は川にいた。
いや、どういことだ?
さっきまで川とは無縁な草原にいたはず。
そうだ胸に刺さった傷は!?
私は自分の胸を触ってみる。しかし、想像に絶する痛みどころか何も感じない。服を少し脱いで確認してみると、まるで最初から無かったように傷口すら存在してなかった。
まさか、私は死んだのか。
いや、そうとしか考えられない。小さな石が無数にある河原、永遠と続いてると錯覚してしまうような真っ白い川。
これが俗にいう三途の川というものなのだろう。
ここで余生を過ごせというのは些か厳しいものだ。せめて、誰か話す人がいれば有難いのだが、そんなに都合良く現れるわけないか。
「そこにいる女、川に近づかない方がいいぞ」
うん、現れたな。ここまで都合良く出てくるともはや芝居なんじゃないかと思えてくる。
それより、この声どっかで聞いたことあるな。とても懐かしく、それでいてとても暖かい。
何度も何度ももう一度聞きたいと願った記憶がある。
私はその声の正体が気になりすぎて振り向いて見ることにした。
そこには予想を遥かに超える人、いや竜人がいた。
「父………さん……」
「イシュタル……なのか?」
忘れるわけが無い。仏頂面にたくましい顎髭、そして何より他の追随を許さない巨大な翼。間違いなくわたしの父さんだ。
私は反射的に抱きついていた。死後の世界のためか、冷たさも何も感じない。でも、心はとても暖かった。
「イシュタルよ、何故ここにいるのだ。お前はまだここに来てはいけない」
「ごめんなさい、父さん。私死んじゃったみたいなの。頑張ったの。頑張ったけど殺せなかった」
「……そうか。ゆっくり聞かせてくれ」
王都の牢屋に始まり、花の咲いている村、結婚式が開かれていた街、魔女のいる森まで。私は故郷が襲撃されてからここに至るまでの道筋を余すことなく語った。
その間、父さんは何度も相槌を打って聞いてくれた。
話終わると、目頭がとても熱くなる。
「そうか、カリファちゃんはイシュタルにとってかけがえのない存在だったんだね」
「うん、でもそれに気づくのに私は遅すぎたんだ。だから、連れ去られた」
「イシュタルよ、物事に遅すぎたなんてものはないぞ。俺だって母さんと出会ったのは早くも遅くもない、その瞬間が頃合だと思ってるからな」
「私が死んだのも頃合だったのかな」
「また、カリファちゃんに会いたいか?」
父さんは川に目掛けて石を投げながら突拍子もなく聞いてくる。
会いたいかって?そんなの会いたいに決まっている。まだ、やり残したことだって、話したいことだって無限にある。
この気持ちは尽きることは絶対にない。
「……会いたい」
「ならば会えるさ」
無理だよと諭したいが、父さんの語気の強さと輝きが衰えない目は本当だと私に訴えているように見える。
「魔女が持っていたアーティファクト、あれは効果がキレていたわけじゃない。イシュタルが適応していたんだ」
「適応?」と、私は父さんの興味深い発言を反復する。たしかに初めて森に入った時に感じた感覚が鈍くなるあの独特な雰囲気は集落に入ってから微塵も感じなかった。
「竜人の原動力は想いなんだ」
父さんは胸に握りこぶしを当ててドヤ顔をする。
その張り切った表情に私は思わず笑ってしまった。
想いか。言われてみれば、魔女の集落で戦った時はカリファ助けることで無我夢中だった。
「想いは何よりも強い。もしイシュタルが本当にカリファを助けたいならこの川とは反対方向に行きなさい」
父さんは踵を返して指を指す。川の反対側を霧で満たされていた。その霧はまるで実体があるかのように行く手を阻んでいる。
「お父さん、でも私死んだって」
「本当にそうか?」
「えっ?」
「突然なんだが、イシュタルはこの川を渡りたいと思うか?」
父さんは次に川へ指指す。
反対側とは裏腹に霧は一切なく澄んでいた。川は浅いのか、水の流れる音が心地よく聞こえる。
だが、この川を渡りたいかと言ったら嘘になる。むしろ早く遠ざかりたい。この感覚はアヘンが咲いていた吐き気を催す匂いよりもキツい。
「絶対に渡りたくない」
「やっぱりそうか、父さんは渡りたいんだ。とても魅力的に見えるんだ。きっと父さんは本当に死んでるからそう思ってしまうんだろう」
私の頭の中に大量の疑問符が浮かんでくる。
本当に死んでる?私だって本当に死んだのだ。父さんとなんら変わらないはず。
だが、その疑問の解答を父さんはすんなりと答えた。
「イシュタル、お前は生きてるんだ。けれど、何らかの原因で生死を彷徨っている。だから、ここまで来てしまったのだろう。でも、生きているイシュタルが気がかりで気がかりで俺もここに残ってしまった」
「あ、あのナイフか」
「思い当たる節があるなら行け。時間の流れに乗って進めるのは生きている者の特権だ。悔いの残らない結果は残してこい」
私はそっと瞳を閉じる。
想いだ。私のカリファへの狂乱ともいえる愛。今はただその想いに忠実になろう。
「父さん、行ってきます」
「ああ、またな」
父さんは川へ歩き出す。川を渡るその表情は俗世を忘れて無念無想の境地に達しているようであった。
父さんは母さんに会えたのだろうか。きっと会えたはずだ。
今はカリファを助けることだけを想おう。
私は霧の中にいる。霧は私の隅々にまとわりつく。私が生者か死者かを判断しているようだ。
目の前に光が差し込んでくる。いよいよ、戻るのか。
ナイフの痛みに備えて一度深呼吸してから進む。
白い光が私の視界を包んだ。
私は目を開ける。
太陽は未だに私を照らしていた。いや、何日か経過してしまっているのか。頭がまだよく回らない。
体が動かせるか試してみると問題なく動かせた。五体から五臓六腑まで隅々まで違和感は感じられない。
肝心のナイフの痛みだが、心臓のある胸に傷跡が残っているだけで、例のナイフは金属製とは思えないほどに砂状に分解されている。
マチェーテがない!?腰に手を置くといつも定位置にあるはずのマチェーテがないのだ。
一瞬焦ったが、すぐにホッとする。私のすぐ横に寝そべって置かれていた。まるで、父さんが一度触っていたみたいだ。
「さて……」
カリファを助けにいくとするか。
私は勢いよく翼を広げる。七色に煌めくこの翼なら、父さんとの鬼ごっこに勝てそうだ。いや、必ず勝てる。
私は颯爽と空を翔ける。
辺りの景色が次々と一変した。魔女という名のくだんがいた森はすっかり消化されている。結婚式が開かれていた街は片付けを既に終えていた。アヘンが咲いていた村はまだあのままだ。クレアは元気にしているだろうか。
カリファとの旅が頭の中に蘇り一喜一憂していると、城壁に囲まれた王都が姿を現した。
今の私ならカリファがとこにいるか分かる。
玉座の間か。恐らく、メルカトルと一緒にいるのだろう。しかし、それがどうした。臆する道理は無い。
私は王都の中心にある王宮、それもまた中心にある玉座の前へと、弾丸の如き神速で突き進んだ。
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