第9話 自由を嚥下する

英雄神マルドゥク。そう、これがオレ様の求められる神としての存在意義。オレ様が生まれた時、メソポタミア神界はオレ様達次世代の神々であるアッカド派と、ティアマトを始めとしたシュメール派の神々の戦いが最高潮に達していた。そう、オレ様はこの戦いに終止符を。この戦いでの勝算。重圧は計り知れなかった。

「いいですか、マルドゥク。あなたは私たちの光。輝きは失ってはならないのよ」

「遊びたいだと?馬鹿なことを言うな。この戦いに勝てば、いつ何時でも遊べる。戦争に勝つことだけを思え」

幼い頃からの修練の数々。そして、罵倒ではない期待と使命への激励が日常に飛び交う。

「罵倒ならよかったのに」

そんな日々にうんざりしていた。その鬱憤は愚痴となって、いつしか指南役のアヌに漏らしていた。剣技の授業中の突拍子の愚痴にアヌは困ったような笑顔をする。そして休憩だと言い、剣を下ろす。

「…なに?あんたも親父と御袋みたいなこと言うの?」

アヌの行動の意図を自分なりに解釈してマルドゥクは落胆する。

「言わないというより思っていないと言えば嘘になる。なんてったってお前は希望だからな。期待しているさ」

「じゃっ、オレ様がじいさんたちに負けちゃったら?」

悪戯に皮肉なことを言うマルドゥクは少し期待した。”負ける”という言葉はアッカド派の神々が嫌う言葉。だから、エアやダムキナなどマルドゥクを育てている神々の中では禁句となっているのだ。

「お前が負けようと努力してもお前は勝つ、以上だ」

「そうじゃなくってさ~!」

アヌの態度に不貞腐れ、マルドゥクはまるで幼子のように剣をぞんざいに扱う。意地悪が過ぎたなとアヌが謝る。

「オレ様は誰も期待してないことを成し遂げたいんだよ。なのに、みんなみんなみんな~、そんなことするなって」

「時期の問題だ」

「…むぅ、オレ様は使命とか、そんなのに縛られない戦いがしたいだけなのに」

地面に寝そべって駄々を捏ねるマルドゥクの瞳には雲一つない晴天が映っている。

「自由に、自分が求めたことだけ」


遠い昔のこと。マルドゥクの言葉が鮮明に頭に浮かんでいる彼の指南役のアヌ。その瞳はずっと嬉々として、この戦いに臨んでいるマルドゥクを見守っている。

「これがお前から求めた自由か。ならば、見届けてやろう」

アヌのひとり言に気づいたのか、偶然か、マルドゥクはアッカド派の神々が揃う闘技場の観戦場に微笑みの眼光を送る。

「さて、じいさん!オレ様がじいさんに攻撃を中てられた理由教えてあげる」

余裕そうなマルドゥクが解説に入る。

「まず第一の攻防戦で、じいさんはオレ様の攻撃は”流動性”を使って避けた。なのに、続いたムシュフシュの攻撃は”流動性”を解除して素手で防いだ」

『一体それに何の意味があるのですか?』

マルドゥクの気づきに司会進行役を務めるヒヤルムスリムルが口を挟む。それに対してマルドゥクは指をさして、ナイスゥと相槌を打つ。

「”流動性”は物体を掴めないから、そういう戦法かなって見逃してたけど。確証を持ったのはオレ様がムシュフシュをもう一度召喚しようとしたのを見て、じいさんが邪魔をしたことかな」

「なるほど。そういうことか」

マルドゥクの見解が始まる前にフォーセリアは納得する。

「”流動性”を付与するともう一つ水の特性が付与される。それが”溶解性”さ」

マルドゥクの発言に闘技場がどよめく。


北欧専用観戦室

「”溶解性”…意味合いとしては溶けることが似合っていますが、特に固体・液体・気体が液体に溶けることを指します。水に他のものが溶けるのはそういったことです」

「ムシュフシュの武器である毒。これが体に溶けることを恐れていたのか」

『…(アプスー)』


闘技場は騒然とするが、アプスーと特段動揺している様子はない。

『やっとそこまで辿り着いたのか。遅いな』

「はぁ?」

『神の目よりも人間の目の方が優秀だな』

マルドゥクはこめかみに青筋を立てて、木聯を握る手に力をこめる。

「おい」

八つ当たりに見兼ねてフォーセリアが声を上げる。苛立った口調でマルドゥクはフォーセリアを睨む。

「敵に温情をかけるの?」

『貴様の敵は余の味方だ』

同士割れしそうな雰囲気を察してアプスーが手を広げると、そこから粒子のような半透明水色の破片が舞う。それは荒々しい吹雪となりマルドゥクとフォーセリアを襲う。彼らは前方の攻撃を防ぐために動くが、どうしようもできずに目を閉じる。やがて吹雪は止み、目を開けるとマルドゥクが掴んでいた木聯がいなかった。

「じいさん、この短時間で情が移ったの?」

大声で空中にいるアプスーに向かってマルドゥクが吠える。アプスーの脇には木聯が抱えられている。

『後味が悪いだけだ』

アプスーが空を見上げて息を吹くと、晴天だった空は曇天と化す。そして降り注ぐ大量の雹は大気を凍らせて、まるで氷の蜘蛛の巣のように闘技場を凍らせる。アプスーが木聯に触れると、彼は水晶に閉じ込められる。

『しばらく眠っていろ、小僧』

木聯を一時的に避難させた束の間、空中にいたアプスーめがけて、フォーセリアが氷の蜘蛛の巣諸共もろとも鋭い突きを放ち、アプスーを追撃する。彼が突きを軽く受けると、フォーセリアは地面に落ちる過程で五重の斬撃を繰り出して、氷の巣を破壊する。

『水は万物の根源。水は如何様いかようにも成れる。水はこの宇宙にある物質で最も自由なもの』

アプスーがそう言うと彼の体は水の花びらになり、闘技場を一周すると強風が吹き荒れる。

「!」

「じいさん、まだ隠し玉持ってんの?」

驚くフォーセリアと笑顔のマルドゥク。しかし余裕はない。なぜなら強風は、ただの強風に留まらないからだ。

「…ハリケーン」

ゼウスの言葉と共に観客席も巻き込んだ巨大ハリケーンに強風は発展する。ハリケーンの中は先ほどの比ではない暴風が常に吹いていて、それは観客の服や私物。各専用観戦室の中のティーカップを破壊し、机も壁にぶち当てて混乱に陥れている。しかし、これはあくまでも観客の被害。ハリケーンの中心、いや、アプスーの標的となっているマルドゥクとフォーセリアには立っていることすらままならない暴風が刃となり、体を蝕む。フォーセリアは視界のおぼつく中で一筋の紫の閃光を見逃さなかった。鮮明で、眩い閃光を見惚れていると彼の中で危機察知能力が作動する。離れろ、という脳からの警告に彼の体は素直に従い、2歩下がる。

バチッ!!カァァーーン!!

甲高い落雷の轟音とともに、フォーセリアが数秒前にいた地面は黒く焦げている。それは紫の閃光の、雷の威力を知らしめるにはいい材料となる。「雷!?」「いやぁ!」、観客と神々の怯えた声が一帯を包む。そして察する。この闘技場の中が、ハリケーンの中が恐怖の舞台であるということを。

「観客のことガン無視?嫌な耄碌じじいだ」

マルドゥクは舌打ちして、空を見上げると、氷の粒が浮かんでいた。その周りには7つの閃光が煌いている。

(これ、まずい…)

マルドゥクは死を覚悟する。それだけの防ぎようのない絶望の状況。その覚悟が固まった矢先に氷の粒は高速で、閃光はそれよりももっと高速で落ちる。轟音と痛々しい砕け散る肉片に音にその場にいた者は息をのむ。

「!」

「…」

しかし、その生々しい音に反してマルドゥクは無傷である。その音の正体は彼を庇うように立ち、雷と氷の粒を全身に受けて立っているフォーセリアの体からであると推測できる。両剣である程度の雷と氷の粒を壊し、防いでいるが、それが叶わなかったものは全てフォーセリアが盾となり、マルドゥクから守ったのだ。

「大丈夫か?」

明らかに大丈夫ではないフォーセリアからの安否の声にマルドゥクは一瞬言葉を失う。

「なんで、そこまで…」

「俺は手の内を晒せない。そう言ったのはお前だ。だから、この戦いの終止符はお前じゃないといけない。俺はそのための盾だ」

『盾はいずれ壊れるぞ?』

アプスーが顔を出してフォーセリアの言葉を否定する。しかし、彼はこの戦いで初めて笑顔をみせた。

が壊れる前にマルドゥクが仕留めればいい」



北欧専用観戦室

「雷に雹のような氷の粒子。闘技場全土に及ぶ暴風に雨。挙句の果てにはアプスー殿も…」

「それだけではないな。恐らく不可視の水柱いわば”水圧”が付与されていて、簡易的だが判じる始まメソポタミア・りの審判ユーフラテスが断続的に降り注いでいる。そして問題は地面だ。アプスーは地面に”流動性”を付与させ、不安定な足場を作っている」

トールとオーディンは暴風吹き荒れる観戦室でも落ち着いて、どういう状況なのかを解釈している。

「しかし、この御業は一体…」

『アプスーの本気だ』

ユミルが重たい口を開く。本気という言葉にトールは彼女を見る。

『メソポタミア・ディス・ナイト、それはアプスーがメソポタミア神界を思って生まれた権能。アプスーは後世の神々が自由に、されど、その自由で滅びぬように自神が変化に強い神であろうと。だから水を選んだ』

「つまり、今のアプスーはどんな形にも変化できるのか!?」

少し驚いた口調でオーディンはユミルを問い詰める。

『この権能の神髄はアプスーあいつの思ったメソポタミアの為の自由の姿。そしてマルドゥク小童も自由を求めている。それは巡り巡ってメソポタミアの為の自由の姿。だからこそ、アプスーは本気なのだ。そして、このアプスーの御業を私たち原初神はこう呼んでいる』


ギリシャ専用観戦室

「―エヌマエリシュ」

「…初めて聞きました」

クロノスがアプスーの御業の名を口に出すと、アテナが反応する。

「僕は聞いたことだけ。どんなものなのさ?」

「まだ、どの神界も後世の神々が誕生していない遥か昔。原初神しかいなかった混沌の時代に起こった統治神を決めるための原初神による原初神同士の戦い。ギリシャが誇る原初神であるウラヌスも参戦していた。糞親父曰く、アプスーの御業エヌマエリシュを使い、当時の対戦相手であるガイア殿を跪かせたらしい」

「統治神5柱をですか!?」

ペルセポネが他に代わって驚きの声を上げる。そしてガイアの方を見ると、彼女はつまらないというような態度を示して、いかにも不機嫌そうだ。

「水は定まった姿を持たない。環境に合わせ、かたちを変え、形状を変え、時には雲にさえもなり、自然の頂点としてずっと流れてきた。地に根を生やし頑丈に耐え忍ぶ植物も薙ぎ倒す誰も想像していない下克上の連鎖。それがメソポタミアの原初神アプスーという神の存在意義」


激化する天候の天罰。それは水を権能として選んだアプスーが自由のために奔放しているという証拠。雹も大きく鋭くなっている。そして暴風は刃のように切り傷を与える。

(俺が防ぐにしても限界がある!)

攻撃をマルドゥクに当たらない範囲までに斬り続けるフォーセリアにも限界が見えてきた。だが、彼は止まらない。仲間であるマルドゥクが起こす奇跡を信じて。

「これがじいさんの本気…」

そのマルドゥクは攻撃を避けることだけに集中する中、彼の心は動いている。誰の目から見ても絶望の現実の嵐。しかし、マルドゥクの目にはそれがきらきらと輝く理想に見えていた。


―今オレ様はメソポタミアの原初神が思い描いた自由を受けている。

 暴虐的な現実でも、オレ様には感じる。これが自由を追い求め続ける憧憬。

 

「なんだ、じいさんも熱い神なんだね」

「「「「「!?」」」」」

マルドゥクは何もせず、闘技場の中央に立つ。その愚行に観客のみならず、フォーセリアもアプスーも驚愕する。しかし、たった一柱だけが天を仰ぐ。その神の頬に一滴の穏やかな滴がつたう。

「自由を吞み込もう」

たった一滴、地面に落ちる。そこを中心にどこからか大量の水が出現する。純粋で透き通った水は、手始めに流動する地面を呑み込み茶色く濁る。体積の大きくなった水は濁流のようにハリケーンにも干渉する。

「水が…ハリケーンに入ってる…」

それは雹も、不可視の水柱も飲み込む。激流と濁流、急流と奔流が巨大なハリケーンを飲み込み始めた。アプスーは手を振り下ろして、落雷を起こす。しかし、その閃光は濁流に沈む。

(ハリケーンの威力が弱まっている?雷も、判じる始まメソポタミア・りの審判ユーフラテスも飲み込まれている。そんなことがあっていいのか?そんなことができるのか?それは一体…)

アプスーは本気の御業を覆されている現実にいまいちピンと来ていない。そして、中央にいるマルドゥクに目を向ける。マルドゥクはどこか不気味に笑う。手を大きく開くと、激流と濁流は天に昇り、いや、それらは嵐の壁を突き破るように昇華する。

「嵐がやんだ?…」

ハリケーンで覆われていた天候がまるで嘘のように、晴天が闘技場を照らす。昇華した激流と濁流は天で球体のようにまとまり始め、地上にある水もその球体へと吸い込まれる。水の淀んだ球体は闘技場に影を落とすほどに巨大化している。アプスーは信じられないと思うが、マルドゥクが何をしでかそうとしているのかと思考する。

(何をする気だ?大量の水、それが天にある。水は上から下へと流れる。それが水の自然体。自然は人為と文化、歴史、命を奪う水の摂理…)

『まさか!!!』

「これがオレ様の本気だ!!オレ様に呑み込まれろ!!」

アプスーの悪い予感は的中した。マルドゥクが愉快に笑うと、水の球体は破裂して、闘技場に洪水を引き起こす。それは原初の自然の壮大なる試練。莫大な物量の水は一気に落ちて、衝撃を与える。その衝撃は天界宇宙ゴットバースに響き渡るほどの威力を誇っている。まるで地震を彷彿とさせる振動は約3分間以上に渡り、また、水の流れによる物質による圧力負荷にアプスーは息つく暇がなかった。抗おうと躍起になるアプスーの必死さも、呻き声も、すべて水に吞み込まれてしまった。

『やったのか?…』

洪水として、役目を終えた水は水蒸気と化して消滅した。そして残るのは洪水による残骸と惨劇。意識を失って指一つと動かなくなったアプスー神。それを見て、フォーセリアは地面に膝をつく。度重なる猛攻から解放されて安堵しているようだ。司会者であるヒヤルムスリムルの小声でマルドゥクも、これが現実であると認識して警戒を解いた。

「十徳武器魔法…」

その瞬間聞き慣れない声をマルドゥクは拾った。それは幾度となく己の攻撃を防ぎ、アプスーの完璧なる補助を務めた人間の声。

「玉髄の両剣!!」

その声は洪水を起こしたように、天から降り注いでくる。その人間は両剣を回転させ続けて、蓄積された加速を遺憾なく発揮してマルドゥクの左腕を切り落とした。

「待っとったで、この時を!」



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