第26話 創一の話(3)

 父親といとこ、刈谷との3人での花見を終えてから、およそ2か月が過ぎたある初夏の日、13歳の誕生日を終えていた創一は、突然高い熱を出した。その半年ほど前の、年の初めにも、創一は肺炎を起こして寝込んでいたので、父の春信はいたく心配した。半刻に1回は執筆の手を止め、文机からこちらに向き直って、額の濡れ手ぬぐいをたらいの水で冷やしたり、吸い飲みでお茶を飲ませたりと、あれこれ面倒をみるのであった。


「創ちゃん、大丈夫か。これが終わったら、すぐに医者の先生を呼ぶ」


 病人用にすりつぶしたビワの実を木さじですくい、創一に一口ずつ食べさせながら、父が言う。熱で頭が朦朧としているせいか、創一には、その声はだいぶ遠くに聞こえた。父が何を言っているか聞き取れなかったが、とにかく相手を心配させたくない一心で、創一は曖昧な笑みを浮かべるのだった。


 創一の病気以外にも、仕事の、締め切りの近い原稿のこと、祖父が残した借金のことなど、父には大きな心配事がいくつもあった。だから創一はこれ以上、自分のことで、多忙な父の手を煩わせたくなかった。自分は、父に余計な迷惑をかけないために早く元気になるのだと、創一はぼんやりする頭で己に言い聞かせるのだった。


 しかし創一の弱った体は食欲に欠け、父の与える食物を受け付けようとしなかった。飲み込もうとしても、むせるようにして、吐き出してしまう。頭も痛いし、胸も苦しいし、全身に熱がこもっているようでひどく暑い。自分は近いうちに死んでしまうのではないかと、創一はこれまでにない心細さと不甲斐なさを感じた。人一倍繊細で、不安定なところのある父を、このまま一人置き去りにしてはいけないのに。せめて、この人に新しい伴侶が見つかるまでは…。


 一方、当の父親は心配そうにこちらを見下ろしている。創一の食が進まないのを気にしているようだった。


――大丈夫だよ、父さん。僕なら、ただの夏風邪で、すぐに治るんだから。


 創一は父を励まそうと思ったが、熱のせいか、体がだるく、声を出すことや、体を起こして文字盤を探すことさえ億劫だった。仕方なく、父の目を見て、困ったように、また曖昧な笑みを浮かべる。父は笑顔を返すことなく、眉間にしわを寄せ、眉尻も下げて、視線も伏し目がちで、ずっと沈んだ面持ちのままだった。お願いだから笑ってくれと、創一は横になったまま、力を振り絞って、枕元の雑記帳に、鉛筆でくだらないことを書いてみる。


「父さん、空の雲ってさ、山盛りにしたご飯みたいだよね。僕、元気になったら寿司をたらふく食べてみたい」


 父は笑うどころか、こちらに背を向け、右の拳で顔を隠したまま、声を殺して忍び泣きする。創一にいい暮らしをさせてやれなかったことを、悔やんでいるのだろうか。彼は、そのようなつもりで言ったわけではないのに。自らの不用意な発言を反省した創一が、ささやくような声でごめんなさいと謝ると、父親は、そうじゃない、父さんが怠け者だから悪いのだと余計に落ち込んでしまう。こうして、息子の不運に苦しむ父親に、将来の希望を与えられないまま、創一の最後の夏は残酷な早さで過ぎ去ってゆくのだった。

 

 

 

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迎え火 紫野晶子 @shoko531

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