番外編 創一の話

第24話 創一の話(1)

――空が、きれいだな…。


 春の、よく晴れた日のことだった。草の上に敷かれたゴザの上に横たわり、桜の木を見上げていた創一は、落ちてきた花びらを捕まえようと、手を伸ばそうとした。しかし、肺炎による、長い療養生活でこわばった右腕は、思うように上がってくれなかった。時は4月の初め、心浮き立つような春の陽気が、全てを包み込んでいくような、華やかな季節だったが、創一の心は暗く沈んでいた。


――自分はあと何回、この桜を見ることができるのだろうか…。


 満開の花が、風に吹かれて、散っていく。確かにそれは、美しい光景ではあるのだが、こうして散ってゆくのも、明日は我が身だと思うと、穏やかな気持ちで見ていることはできなかった。向こうの方では、父親の小説家・巽春信と、その友人で編集者の刈谷毅が酒を飲み交わして笑っている。創一は彼らの健康と軽薄さを恨めしく思った。自分だって、病気でなければ、今頃あそこに加わって、酒は飲まなくても、一緒に行楽弁当を食べながら、大きな声で笑っていたはずなのに。いや、こんな退屈な集まりには参加せず、別のどこか好きな場所に勝手に出かけていたかもしれない。それともとうに仕事を持って勤めに出ていただろうか。


 できることなら、誰の意志にも振り回されず、体の不具合にも邪魔されず、自分の気の向くまま、自由に生きたい。それなのに、なぜ天は自分に病を与え、なまじっか意識だけは明瞭なまま残しておいたのだろうか。せめて、自分の置かれた状況が理解できないほど、頭が朦朧としていれば、これほど苦しい気持ちにならずに済んだはずだ。ああ、いっそ狂いたい。いや、いっそ死んでしまいたい。そうでなくても、あそこに混ざって酒を飲んで、理性を失うほど酔いつぶれることさえできたなら…。


 父親とその友人は、創一の苦悩など知るはずもなく、土手に寝転がり、くだらない冗談を言い合っては、だらしなく、大きな声で笑っている。全く、何がおかしいんだか。創一は無言で2人をにらみつけた。もちろん、遠くにいる2人には、そのささやかな怒りの表現は届かないようだったが。


「見て、創ちゃん。ヤモリ」


 川から上がってきた、6歳になるいとこの香太郎が、右の手の平に大きなヤモリを乗せたまま、こちらに近づいてくる。


――やめろ、僕はその手のものは苦手なんだ…。


 言葉の出ない創一が、そう言う代わりに、顔を思い切りしかめてみると、香太郎はたちまち不服そうな顔になって、手のひらのヤモリを、肩から掛けていた通学カバンの隙間に、乱暴に押し込んだ。


「創ちゃんの馬鹿、もう遊ばない」


 そんなことがあったので、これ以上先は香太郎も口をきいてくれなくなった。「香太郎も」としたのは、父を除く周囲の大人たちが、病への理解不足のため、発話のたどたどしい創一には何を言ってもわからないだろうと決めつけ、滅多に話しかけることがなかったためである。父の親友の刈谷でさえ、創一には人並みに言葉がわかるのだと父から何度説明されても、今一つ納得できないのか、創一に話しかけることは滅多になく、話しかけることがあっても赤ん坊に話しかけるような、子どもだましの言葉遣いであることが多かった。もう親や他の大人にべたべたと甘える歳ごろではないので、そのような行き過ぎた子ども扱いはただひたすら腹立たしいだけだったし、自分の思いや考えをないものとして扱われ、仲間に入れてもらえないことは、何よりも耐えがたい屈辱だった。


 一方、香太郎は、創一を何も考えていないものと決めつける大人たちと違って、彼のわずかな表情の変化やまばたき、視線や口の小さな動きなどから、その思いをくみ取ることができた。もっとも、「くみ取ることができた」とはいっても、伝えようとしたことの7割から8割は間違って伝わるし、そもそも何かを伝えようとしていること自体に気付いてもらえないことも多かった。しかし、それでも自分の思いを理解しようと努めてくれる者がいることは心強いことであり、だからこそ、この心優しいいとこの機嫌を損ねてしまったのが悔やまれた。あとは不器用で、表情から人の気持ちを想像するのが苦手な父を頼るしかない。



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