第22話

 ここで不意に血だらけのまがまがしい光景が消え、場面は桜の咲く屋外へと移り変わる。


 緑の土手を背景に、白地に紺の、竹林柄の浴衣を着た15、6くらいの若者が、こちらを見て微笑みながら言う。


「父さん、生きて」


 明瞭な発音で言葉を発したこの少年は、杖を持っておらず、自分の足だけでまっすぐ地面に立っていた。病気がちでひどくやせていたはずの体も、目の前の姿では、骨と筋肉とで、健康的に太っていて、一見すると誰だかわからなかった。しかし、つややかな黒髪も、涼しげな切れ長の目も、確かに記憶の中の通りで、巽は思わず、感嘆の声を挙げた。


「創一…」


 巽が息子のもとへ駆け寄ろうとした途端、幻は消え、彼は現実の、夜の寺院の裏庭の、池のほとりに引き戻された。


◇◇◇


 青白い月光に顔を当てたまま、女が残念そうに言う。


「この様子だと、誘惑には乗らなかったみたいね」


 女の足元には、焼けて丸焦げになった方角の紙と、半紙で作った人形の切れ端が残っていた。玉串も、巽の手にあったはずの小刀も、半分溶けたような状態で、地面にへばりついていた。


「こんなことをして、許されると思っているのか、あの糞餓鬼!」


 女は、声を荒げ、足元に盛ってあった、創一の墓土を踏みつける。その目からは大粒の涙があふれていた。


「畜生、畜生、お前さえ生まれなければ、春さんは私のものになったのに」


 そう叫ぶと、女は地面にしゃがみ込み、その場で泣き崩れた。

 創一に対する言い草には腹を立てつつも、女を気の毒に思った巽は、静かに女の方へ歩み寄り、相手が立ちあがるのを助けようと、自分の右手を差し出そうとするが、女はその手を乱暴に払いのけた。女は次のように、巽を口汚く罵る。


「触らないで、この下衆男。あなたはいつだって私を軽んじてきた。せっかく結婚して、お話ししようとしても、口を開けば文学、文学って仕事のことばかり。子どもが生まれれば、その子につきっきりで、私のお墓参りには全然来ないで、創一のついでの、仏壇での供養だけで済ませてしまうし…。一体、あなたにとって、私って、何だったのよ!」


 髪を振り乱し、泣きじゃくる女を見て、巽はただひたすら胸を痛めていた。年の割にも精神の幼かった19歳の若妻に必要だったのは、当時27歳だった「仕事中毒」の夫でも、寿命のために果たせなかった母親としての役割でもなく、自分だけに愛場を注ぎ、優しく見守ってくれる親のような存在だったのかもしれない。


 巽は、泣き疲れてその場で崩れ落ちるようにして眠ってしまった女を抱き上げ、自分の背中に背負い直すと、その重さによたよたとしながら、月夜の墓地を後にした。夏らしい、風が生暖かい夜だった。

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