第20話

――巽春信、お前はもう用済みなんだ。


 月光を反射して、きらめく刀身。己の感情の高ぶりと、女の焚く赤ろうそくの甘い香りとが、巽を惑わせ、幻の世界へといざなってゆく。


◇◇◇

 巽が迷い込んだ、夢とも現実ともつかない思い出の空間は、ある蒸し暑い夏の日のものだった。

 うだるような暑さの中、彼は汗まみれになりながら、文机に向かって小説を書いている。汗ばんだ肌着が背中に張り付き、手にへばりついた原稿用紙は、Gペンで書いたインクの文字が汗で溶けてにじみ、真っ黒に汚れている。

 執筆に苦しむ彼の後ろでは、13歳になる息子の創一が、小学校に上がったばかりの香太郎に、そろばんで簡単な計算を教えている。勉強に飽きた香太郎が部屋を走り回り、女中に叱られると、あまりの騒がしさに我慢できなくなった巽が激高し、全員出て行けと怒鳴り声を上げる。それはいつもの光景であるはずなのに、その「日常」がこの日の彼にはひどく奇妙なものに映った。


――妙だな、なぜ俺は小説なんぞ書いているんだ? 自分はとっくの昔に、文学とは訣別していたはずなのに。


 それを言えば、巽が小説執筆のために使っている、書斎兼仕事部屋に皆がいたのもおかしかった。執筆中はもちろん、自分が留守のときでさえ、彼はこの部屋に家の者が入るのを許さないというのに。万が一入った者の不注意によって、大切な資料や原稿が紛失するようなことがあれば困るのだ。


 しかしその手のトラブルが実際には起きていない今、そんなことはまだどうでもよかった。それよりも、彼が一番奇妙だと感じたのは、創一が他の子どもと同じように、話したり、ふざけたり、笑ったり、走ったりしていることだった。彼の知っている創一は、体が不自由なために、感情を声や顔の表情で表すのが難しく、また感情を揺さぶられるような経験をする機会も少なかったため、日常的には無表情であることが多かった。口頭での意思疎通が難しいことに加え、手足が不自由で何をするにも介助が必要で、病気にもかかりやすく、学校にもほとんど行ったことがなかったはずだ。


――いや、待てよ。何を考えているんだ、俺は。どうして学校での教育を受けていない子が、そろばんや読み書きを知っているんだ。何より、創一は最初から普通の子どもだったじゃないか。重い病気なんて、持っていない。


 巽は頭の中に湧いてきた妙な考えを振り払おうとする。だが、おかしなことは他にもあった。それは、セミの鳴き声が聞こえないことだった。毎年、夏になると、巽家周辺ではセミが大量発生し、来る日も来る日もけたたましく鳴く。虫好きの香太郎はいつもセミの抜け殻を大量に集めてきて、虫嫌いの女中を半狂乱にさせるのだが、この日は問題の香太郎が外へ出かけていく気配はなく、セミの鳴き声も全くしない。


 一体どうしたというのだろう、異常気象か何かだろうか、地震など天変地異の前にミミズが大量に地上に這い出してきたという話もどこかで聞いたことがあるし…。そこまで考えてから、巽はこの件についてあれこれ思索を巡らせるのをやめることにした。セミがうんぬんよりもまずは締め切りだ。あるかどうかもわからないような、些細な異変をいちいち気にしていては、肝心の仕事が間に合わなくなってしまう。この物語を書き終わってからにしよう。きっと自分は、連載に追われ、徹夜続きになって疲れているのだ。


 そう思い、線のかすれてきたGペンの先をインクに浸そうしたところで、巽は明らかな異変に気付いてぎょっとした。さっきまで青かったインクが、いつの間にか血のような、赤黒い色に変わっていたのだ。原稿用紙の上の文字も、いつもの見慣れた青ではなく、インク壺の中身同様、赤黒くなっていた。文字はひとりでに滲み、次第に紙全体が赤黒く、血の色に染まっていく。指先にも濡れたような嫌な感覚があったので、ペンを置いて見てみると、彼の両の手の平も、指先も、赤く、粘り気のある液体でべっとりと汚れていた。もしかして、これは血なのか、俺はもしや人を…。

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