第19話

 巽は、小刀を抜き、その薄い刃をしげしげと眺めた。短刀というよりも、鉛筆を削る肥後守や、顔の手入れに使う剃刀のような薄さと軽さだった。鞘で軽くたたいただけでよくしなる。本当に、こんな華奢な刃で、人の命を奪ったり、救ったりすることができるのだろうか。


――だけど、少し皮を切るくらいなら…。


 創一に一目でも会えるという可能性に、巽は逡巡する。


――やるとしたら、体の先の方だ。なるべく出血の少ないところがいい。しかし、手をやってしまうと、執筆にも支障が出るかもしれないし、何より傷が人目に付きやすくて困る。とはいえ、あまり上の方だと、切り方によっては、血がたくさん出て危ないかもしれないな…。


 少し迷った末、小刀を鞘にしまい直すと、巽は自分がなぜ生に執着するのかを再考した。…香太郎の世話がある、遺された兄の子どもと妻、老母を養わなくてはならない、盆明けに締め切りの来る小説を、まだ書き上げられていない、このままだと、該当作の担当の刈谷に迷惑がかかる…。どれもそれなりに切実な理由ではあったが、愛する創一の命や、彼との再会と比べれば、大した問題ではないように感じられた。


――創一のいない今の人生に、何の意味があるのだろう。


 巽は自問する。


――行き詰まりがちで、もはや苦しみしか感じない執筆作業を続けてこられたのも、ひとえにあの子の存在があったからなのに。


 巽は少し投げやりな気分になって思う。


――だから、俺の役割は、本当には、もう終わっているのだろう。香太郎には両親があるし、母親も、兄一家も、俺がいなくなったらいなくなったらで、他の依存先を見つけるに違いない。小説だって、俺よりましな作品を書ける作家は、これからいくらでも出てくるだろう。


 彼は一度しまった小刀を抜き、自分の喉に突き立てようとした。




 

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