第17話

 真っ暗な林の中をしばらく進んだところで、女は足を止め、巽の方に向き直る。


「着いたわよ、春さん」


 女が案内した先は、やはり、寺の裏庭にある、大きな池の辺りだった。岩で囲われた池の周りには、灯籠が置いてある他、カエデや松などが植えられ、風流に仕立てられている。宗教施設がこれほど華美でいいのだろうかと思いながら、巽は女の一挙一動を見守ることにした。池の水面には、崩れた満月がゆらゆらと揺れながら映っている。


 真っ黒な空の下、女は無言のまま、身じろぎせずに立っている。満月の冷たい光に照らされた青白い横顔は、死に装束のような、真っ白な浴衣…よく見ると薄い色で朝顔の文様が描かれているのだが…と相まって、見る者に不気味な印象を与えた。悲壮な決意と、無気力の両方を感じさせるような不思議な面持ちで、女が言う。


「死の国を、覗き見る覚悟はあるかしら」


 巽は自分の心拍が高まるのを感じた。口の中がべとつき、喉の奥も乾燥しているように感じられる。いよいよまずいことになってきたのかもしれないと、彼は思った。


 女は懐から銀色の小皿を取り出すと、持っていた提灯を畳み、中のろうそくを取り出して、小皿の上に置き換えた。ろうそくの小皿を池のほとりに置くと、つい先日も目にした、方角の書かれた丸い図の紙を広げ、風で飛ばないように、重しとして例の玉串のような棒をその上に載せた。それから、いつのまにか持っていた小さなスコップで、どこかからすくってきたらしい土を丸め、玉串をどけた後、方角の紙の真ん中に盛り付ける。小皿からとった赤ろうそくを土の山に差し込み、周りを手で押し固めながら、女は無表情のまま、ぼそりとつぶやく。


「創ちゃんじゃなくて、あなたがこっちに来たら良かったのに」


 巽はぎょっとして女の顔を見るが、その黒い瞳からは、狂気は微塵も感じられなかった。あるのはただ、静寂ばかり。


「今からちょっと創ちゃんを呼んでみようと思うのだけれど…その前に何か、気づくことはない? 春さん」


 女は先ほどの無表情とは打って変わって、端正な顔立ちを柔らかく崩す。何かをあきらめたような、切なく、儚さを感じさせるような微笑だった。


 巽の回想により、再び場面は過去に飛ぶ。


◇◇◇


「ねえ、春さん。今度はちゃんと生まれるかしら」


 創一の誕生を控えた初夏のある日、妻のマツは落ち着かない様子で、巽の書斎に出入りしては、何度も同じことを尋ねていた。彼女は昨年、第一子となるはずの子どもを流産したばかりだったのだ。


「莫迦、縁起でもない…。余計な心配はお腹の子にも毒だぞ」


 巽は楽天的な調子を装ってそう答えたが、本当は彼も心配でならなかった。特に確固とした理由があるわけではないが、何か、妻がいなくなってしまうような、今回もまた子どもにも会えずに終わってしまうような、不吉な予感がし始めていた。


 2日に及ぶ難産の末に生まれた創一は、仮死状態で、すぐには産声を上げることさえできなかった。妻は分娩後の多量出血と、子どもを思っての心労のため、出産の日から1日と経たないうちに息を引き取った。ちょうど子どもが危篤状態を脱した頃だった。


 妻の葬儀が終わった後、巽は泣くこともできず、ろくに食事もとれないまま、自宅の書斎に何日も、何週間も引きこもっていた。その間、生まれた子どもは実家にいる妹のすずが預かっていた。ひと月以上が経って巽がようやく子どもを引き取りに来たとき、妹は兄にこう告げた。


「兄さん、創ちゃんって随分とおとなしいんですね。泣く声は大きいのだけれど、いつだって手足をぴんと伸ばしたままで、全然動かなくって。顔もずっと同じ方向を向いたままなんですよ」


 巽は妹の話を聞いて、漠然とした不安に襲われた。自分と同じ、「動物」であるはずの赤ん坊が全く動かないというのは明らかに不自然なことのように思われた。


 実際、彼は親せきや友人の家で何度か赤ん坊を抱かせてもらったことがあるのだが、いくら月齢が小さく、体の動きが未成熟な子どもでも、人形のように四六時中おとなしくしている、ということはなかった。

 例えば、初対面の巽が抱き上げようとすると、それを嫌がって体をよじったり、えび反りになってみたり、手足をばたつかせてみたり…。布団の上にあおむけに寝ている時でさえ、自分の足を掴んで体を丸め、船のようにゆらゆら揺れてみたり、気になるものに手を伸ばしてみたりと、常に何らかの動きはあったのだ。


 しかし、目の前の創一は、全くそのようなことはせず、常に全身の筋肉をまっすぐに硬直させ、屍のように横たわっているのだった。医者に診せてもすぐには原因がわからず、初めての受診か1年ほど経ってから、ようやく、この子の手足は一生治りません、下手をすればずっと寝たきりでしょう、と残酷な診断が告げられたのであった。


◇◇◇

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