第16話

……できることなら、失いたくなかった。息子との、あたたかな日々を。


 女と暗い夜道を歩いていた巽は、ふと我に返り、両の拳を強く握りしめた。あれから半年もたたないうちに父親である巽の没落に巻き込まれ、狭い長屋に越すことになった創一。彼は、そのさらに四年後に、急な病を経て、巽の熱心な世話と看病もむなしく、この世を去ってしまう。まだ13歳と6か月だった。


――なくしたものを、取り戻したいとは思わないの…?


 女の言葉が、よみがえる。巽はその言葉の意味を完全には理解していなかったが、一方で、もし自分の解釈した通りの意味だったらと、抗いがたい魅力も感じ始めていた。


――創一さえ戻ってきてくれたら、俺はまた健全なところからやり直せるのではないか。


 突然黙り込んでしまった巽を、女が怪訝な表情で見る。


「どうしたの、急に静かになって」


 巽も女を見返す。確かに、その黒髪も、切れ長の目も、この女は、記憶の中の創一に、そしてそれ以上に妻のマツに似ているように思えたが、やはり気のせいなのだろう。知り合いに似ていると思ったら、初対面の時点で気づくはずなのだ。


「いや、何でもない。それにしても、月がきれいな晩だ。今日はどこへ行くのかな? 酒場は勘弁してくれよ。お盆のこんな時間では店も開いていないし、第一俺は下戸なんだ」


 巽の冗談を受け、女が小さく噴き出す。


「何を言っているの。誰かさんのおうちで、部屋の隅に焼酎の瓶が一本転がっているのを見たわよ」


「ああ、たった一本だけだがな」


 巽はおどけた調子で続けると、自分でくすくすと笑ってしまった。なぜだろう、本当は、朝からずっと憂鬱な気分を引きずっているというのに、彼は自分自身の空虚なおどけと、乾いた笑いを止めることができないでいた。女もそれを見抜いたのか、珍しく心配そうな顔をした。


 現在2人は、いつも巽が出かける大通り側に出る道を、通りとは逆の方向、つまり町はずれの方向へ歩いている。巽の長屋から30分ほどで、立派な裏庭のある寺と、街の共同墓地に着くのだが、ここは夜に通るとなかなか不気味な道だった。寺の雑木林を横目に見ながら、巽が女に問いかける。


「おい、まさか君、こんな時間に寺に忍び込むんじゃないだろうな」


 女が悪い顔をして答える。


「その、まさかよ。厳密にいえば、お寺そのものじゃなくて、お寺が持っている、お墓の方だけど」


 女は、寺の敷地を囲う塀の、関係者向けの通用口だと思われる小さな扉を押して、するりと中に入った。真夜中に、しかもこんな泥棒のようなやり方で、人様の、しかも神聖とされる土地に勝手に入ってもいいのだろうかと良心の呵責を覚えつつ、巽もその後に続く。


 生い茂る木々の中、落ち葉と枯れ枝の積もる足元を提灯で照らしながら、女は迷わず墓場があると思われる方向へと進んでいく。歩きながら、女が尋ねる。


「創ちゃんのお墓は、どこだったかしら。確か、このお寺の中の、どこかにあったわよね」


「ああ、色々あって俺はまだ行けていないのだが、代わりに手続きをしてくれた知り合いの話だと、寺の庭の、池のある辺りの隣の、一番奥の区画にあるらしい」


 そこまで答えたところで、巽はとてつもなく嫌な予感がした。女はこれから、自然の摂理にも、人の道にも反した、とんでもないことをしでかそうとしているのかもしれなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る