第15話

 巽が次にいた場所は、土手でも、現在住んでいる長屋でもなく、以前暮らしていた、一戸建ての大きな家だった。長い廊下を歩き、居間の奥にある創一の部屋まで夕食の膳を持って行くと、当時9歳だった部屋の主はこの時間にしては珍しく起きていて、壁にもたれ、足を伸ばして座っていた。その膝の上には、発音が不得手である彼が、指さしによって意思を伝える文字盤…カタカナの50音と読点、句点、長音記号などが書かれた、厚紙の板が載っていた。


 創一の指が文字盤の上を動く。


――父さん、どうして僕を生かしておいたの。飯を食うしか能のない、ごく潰しなのに。


 ごく潰し。それを聞いて巽はぎくりとした。やはり、創一は父の生家での、父親と祖父によるあの忌々しい言葉のやり取りを全て聞いて、記憶していたのだ。


 ごく潰し。それは、親戚の通夜で久しぶりに実家へ帰ってきた巽に、父親の銀次郎ぎんじろうが、顔を合わせて一時間と経たないうちに投げつけた言葉だった。


「創一はまだよくならないのか。治っていないなら、連れてくるなと言っただろう。こんな精神薄弱のごく潰し、親戚や客には見せられない」


 そこで危うく巽が父親を殴りそうになったのは以前にも語った通りだが、このとき、まだ9歳になったばかりの創一は、巽と父親が言い争っている様子を、部屋の隅のひじ掛け椅子に座ってぼんやりと眺めていた。普段なら、周囲の気持ちに配慮しながら自分の発する言葉を選ぶ巽だったが、このときはあまりにも腹が立っていたため、創一本人がすぐそばにいることを忘れ、父親に対して次のようなことを大声で怒鳴りつけてしまった。


「ふざけるな、この人でなし。自分の孫を何だと思ってるんだ。思うように体を動かせなくて、思うように言葉も出ず、周りに世話をかけるしかなくて、一番苦しい思いをしているのは、創一自身だろう」


 そう叫んだ後、まだ30代半ばと若かった巽は、創一の体を無理に抱き上げると、父の屋敷を飛び出し、近くの寺の境内へと駆け込んだ。参道脇の人目につかない茂みの裏にしゃがみ込み、皆に隠れて嗚咽していた巽を、腕の中の創一は憐れむような目で見上げていたのだった。


――父さん、むきになっても仕方ないよ。どんなに伝えようと頑張っても、分からない人には、分からないんだから。


 あの時、創一は手の平に指で文字を書き、静かに巽を諭したのだった。子どもとは思えない、冷静で、大人びた対応だった。しかし、冷静だったからと言って、創一が全く傷ついていなかったという保証はない。


――ごめんな、創一。父さんが至らなかったばかりに、また君を傷つけてしまった。せめて、出かける前に君を刈谷のところにでも預けて、実家には父さん一人で帰っていれば、君に嫌な思いをさせずに済んだのに。


 当時の、そして現在の創一の傷心具合を敏感に想像し、すっかり気を落としてしまった巽は、急降下する感情を、懸命に深呼吸で鎮めようとした。それから、息子の命に対する、自分の思いを必死に声にして、なんとか絞り出してゆく。なぜ僕を生かしておいたのかという、創一からの重い問いに対して出てきたのは、かつての一流作家らしからぬ、どこにいても耳にするような、ありふれた、月並みな答えだった。


「創ちゃんが好きだからだよ」


 創一が、巽の呆れたときの悪癖をまねて、わざとらしく鼻で笑う。


――変なの。きっと正気じゃないね。


 自分で尋ねておきながら、ひどく容赦のない返事だった。


 巽は冗談で怒ったふりをして、生意気な息子をくすぐりにいったが、顔の高さまで挙げられた創一の両腕によって、思いのほかあっさりと押し返されてしまう。そのときに、相手の顔が、振り上げた手や腕に隠れたため、巽の側から創一の表情をうかがうことはできなくなった。しかし、巽はそれでも、息子が笑っているのを、確かに気配で感じることができたのだった。


◇◇◇

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