第10話
巽の苛立ち交じりの困惑を無視して、女が言う。
「とにかく、かまどの火はきちんと見ておくから、
「ろうそくはそのままでな。盆の入りの、夕方になったら、自分で点ける」
くれぐれも余計ななことはしてくれるなと念を押しながら、巽は、この女が自分の名字でない方の名前を知っているのを忌々しく思った。言うまでもないが、好いてもいない相手から、英吉利語でいうところのfirst nameで馴れ馴れしく呼ばれるのはあまり居心地のいいことではなかった。春生まれの春に、祖父から取ったという信の字で春信。浮世絵画家の鈴木春信を意識した筆名ですかとしばしば訊かれるが、筆名ではなく本名であり、また浮世絵画家とは何の関係もない。
そういえば、妻は俺のことを何と呼んでいただろうか? とりとめのない考えに薄れる意識を溶かしながら、巽はまどろみの中をふわふわと漂っていた。眠りに落ちる直前に、何者かの手が巽の額にかかる前髪を払い、頬を優しくなでたような気がしたのは、知らなかったことにする。
目が覚めると、夕方だった。雨はすっかり止んでいて、橙色の夕日が戸口前の水たまりを自らと同じ色に染め上げている。布団から起き上がり、枕元に置かれていた「ご飯は残さずおいしく頂きました」の一筆箋を見て、巽は小さくため息をつく。案の定、米を炊くのに使った羽釜の中身は空っぽになっていた。「お裾分け」をするという条件で頼んだ自分も悪いが、まさかこちらの分を少しも残さず、全部食べてしまうとは…。意地汚い女だとあきれながらも、巽は彼女に同情していた。この辺りに住むのは「貧国強兵」と揶揄されるこの国の中でも、特に暮らし向きの厳しい人々だった。普段は精一杯すましているあの女も、きっとも食べることに苦労しているのだろう。
そして、巽自身も、現在は辛うじて食べていけているが、明日はどうなるか分からない身だった。年頃になってから始まった頭痛や、気苦労による不眠はさておき、このごろは嫌な咳や全身の火照りがあって困る。流行りの肺病など、悪い病気でなければよいのだが、と思いかけて彼は苦笑した。
――俺は、これほどの満身創痍になっても、まだ生きることに執着しているのか。
妻を亡くし、財産の大半を父親の借金によって失い、最愛の息子も、病のために、もう何年も前にこの世を去っている。確かに、生きる気力を失ってもおかしくない、厳しい状況だった。それでも巽は必死に生きてきた。
――馬鹿だよ、俺は、本当に馬鹿だ。小説だって、段々書けなくなっているというのに。
そう自嘲しながらも、巽は文机に向かい、彼のいうところの「駄作」の続きに取り掛かり始めた。父の死後の面倒をすべて自分に押し付けた母と兄嫁のことは、まだ完全に許したわけではなかったが、彼女らを、いやそれ以上に、罪のない、兄の小さな子どもたちを飢え死にさせるわけにはいかないので、巽は不調の続く体に鞭打って仕事を続けるのだった。
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