第9話

――米、米、火…だめだ、全く作業に集中できていない。これでは、米が炊きあがったところで、食べられるか分からない。


 頭痛が酷い時、巽は食事をとることも困難になり、食べたとしても頭の痛みで気持ち悪くなり、吐いてしまうということが多々あった。かといって朦朧とした頭で火の始末をするのも火事が心配で、仮に安全に火を止めることができたとしても、米を生煮えの状態で放置することになって、貴重な食料が腐るのではないかと不安になるのだ。

 仕方なく、隣室を訪れ、先ほど帰ったばかりの占い師の女を呼び戻し、代わりに火の番をしてもらうことにした。かまどの火を調整するのはなかなか骨の折れる仕事だが、炊きあがった飯を分けてやるという条件で、女はあっさり引き受けてくれた。


「いいのよ、気にしなくって。こんな狭いところで、火事なんか起こされた日には、私も一緒に丸焼けだもの。…今日は雨だから、火が出ても簡単には燃え広がらないでしょうけど」


 最後に自分の心配が的外れであると遠回しに指摘され、気に入らなかった巽だが、頭が痛く言い返す元気もなかったので、布団に横たわったまま、おとなしく寝ていた。


「ろうそくも、点けておくわよ」


 女の余計なお節介に、巽は焦る。


「馬鹿、火の番ができないから君を呼んだのに、余計な火を増やしてどうする」


「あら、そう? てっきり私に気があるからかと」


 巽は小さく舌打ちをする。


「君のことは、恋人どころか友だちだとも思ったことはないよ」


 女はからかうように笑う。


「嫌だわ、照れちゃって」


 巽は相手の図々しい誤解に腹が立ってきたが、話すのが面倒くさくなってやめた。


――どこまで本気なのか、どこまでふざけているのかわからないが、こいつが絡むと面倒でかなわん。


 学問と芸術、孤独を愛し、あまり女人に関心がないのにかかわらず、作家という理由だけで勝手に好色だと決めつけられ、身近な女性に妙にかまわれるのが、この頃の巽の悩み事だった。創一の母親に当たる妻のマツでさえ、恩師が決めた見合いだったから結婚しただけで、友人に感じる程度の愛着はあっても、決して色情としての愛ではなかった。自分は、誰に対してもそのような気持ちになったことはないのだ。それを言っても、周りから返って来る言葉は「噓つき」か「甲斐なし」の他に考えられず、到底受け入れてもらえるとは思えなかったので、巽はこの秘密を親友の刈谷にさえ打ち明けたことがなかった。

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