第8話

 香太郎と散歩に出かけた日の翌日、巽は降りしきる雨の音で目を覚ました。前日に体を動かしても平生と変わらず、あまりよく眠れなかった巽は、低気圧からくる頭痛を押して、無理やり起き上がると、朝餉の支度にとりかかった。火の燃料として使う薪の出し入れや、竹筒を使った息の吹き込みなどによって、米を炊く置きかまどの火加減を調整していると、不意に入り口の木戸をたたく音がして、何者かの来訪を告げた。


 雨の中、蛇の目傘を差して戸口に立っていたのは、同じ長屋の隣室に住む占い師の女だった。長い髪を日本髪に結い、白地に薄紫の、朝顔の柄の浴衣を着ていた。このような朝顔柄の着物は、今は亡き巽の妻も好んでよく着ていたものなので、やはり巽は故人を思い出して複雑な気持ちになった。普段は怪しげな真っ黒な着物しか着ないくせに、よりによってお盆を明後日に控えた今日この日に、なぜこのような思わせぶりな格好でやって来るのだろう。巽は理不尽だと自覚しつつも、自分の心の平穏を乱した女に対して苛立ちを感じざるをえなかった。


 巽のそんな心情を察するはずもなく、女は持っていた傘を閉じ、戸口わきの壁に立てかけると、そのまま土間へと上がりこんでくる。


「こんな早い時間にごめんなさいね。おつゆを作ろうとしたら、味噌が切れてしまって」


 巽は仏頂面のまま、棚の上から味噌の壺を持ってくると、中身を木匙ですくって、女の持っている器に分けてやった。こんな天気の悪い頭痛の日に、のこのこ押しかけてきた理由なんて何でもいい。とにかく頭痛で何をするにもつらいので早く帰ってほしかった。


「ありがとう。お礼に、少しお祓いでも。この家、死人が出たばかりなのか、悪い気が溜まっているのよね」


 そう言って、女は、土間の床に、勝手に方角の丸い図が書かれた紙を広げる。そうして、懐から鈴と紙の飾りのついた怪しげな棒を取り出し、しゃんしゃんと音を鳴らして振ると、祈祷の言葉を2、3言唱えてすぐに立ち上がった。随分早く終わるものだなといぶかしげな表情の巽に、女は2寸ほどある太く赤いろうそくを手渡した。


「これでお祓いはもう大丈夫。あとはこの呪具を仏壇か玄関前にでも飾っておいて。悪いものが来た時に、きっとあなたを守ってくれるわ」


 その道に疎い巽には、一見何の変哲もないこのろうそくがなぜ「呪具」なのか、「悪いもの」からどう守ってくれるのか、そもそも「悪いもの」が何を指しているのか、皆目見当がつかなかった。しかし、ろうそくならあってもそれほど邪魔にはならないだろうし、またお盆の迎え火にも使えるため、素直にもらっておいても問題はないと思った。


 女が去った後、巽は痛む頭を押さえながら、ろうそくを妻子の仏壇に供えようとするが、何しろろうそくが太いので、仏壇備え付けのろうそく立てには収まり切らない。あきらめて、土間の、玄関脇のところに灰皿を置き、その中にもらったろうそくを横倒しにして置いておく。これを灰皿に立てて固定し、点火するのは、お盆初日になってからでも遅くないだろう。今はそれよりも米の火加減だ。巽は、ろうそくを置くためにかがんでいた戸口前から、両手で頭を抱えながらふらふらと立ち上がった。

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