第7話

 事件があったのは、今から7年ほど前、いよいよ父の事業が危なくなってきた頃だった。もともと父親と不仲だった巽は、大学進学を機に上京して以来、実家には一度も帰っていなかったのだが、親戚が亡くなったということで葬儀に出席するため、創一を連れてしぶしぶ帰省したのだった。十何年かぶりに目の前に現れた息子を見て、父が発した第一声はこれだった。


「それが創一か。足腰も立たず、口も回らず、ろくに働けないごく潰し、客の前に連れてくるなと言っただろう」


 それを聞いた巽は一瞬で頭に血が上り、父親に殴りかかろうとした。そのときすぐ、隣にいた妹の夫が体を張って制止したので、惨事には至らずに済んだが、これで父と子の断絶は決定的なものになった。母親や妹から何度帰省するよう頼まれても、彼は首を縦には振らなかった。息子を思う巽にとって、父の発言を前にして何の反論もしなかった母は、父と同じく恨みの対象だった。


 孫のことを大切に思うなら、どうしてあの時、やめてください、創一はあなたや私の孫でもあるのですよ、と一言発してくれなかったのだろう。人の存在価値を生産性の一点だけで選別しようとする考え方自体間違っているというのに、母は孫がその論理で攻撃されたときさえ、父の反撃を恐れ、かばおうとしなかったのだ。創一の叔母に当たる妹や、血のつながりがない義弟でさえも、問題の言葉には強く抗議してくれたというのに…。実の祖父母に自分の存在を否定されるなんて、創一はどれほど悲しみ、傷ついたことだろう。思い出すだけで、悔しくて、悲しくて、いたたまれなくなる。


 そのため、巽は、香太郎や妹の言葉に触発され、年一度お盆の時くらいは帰省した方がよいだろうと思っても、母とまた顔を合わせなくてはいけないこと、父の墓に線香を供えることを考えると、気が重くなって、帰る気が失せてしまうのだった。せっかく気を遣ってくれた香太郎には申し訳ないと思いつつも、巽は断るために、見え透いた嘘をつく。


「ごめんな、香太郎。今年は仕事が立て込んでてさ。お盆も書かないと締め切りに間に合いそうにないんだよ」


「ふうん、それだったら向こうの家でもできそうな気がするけど…どうしても嫌だっていうならね、仕方がないか」


 やけに大人びた口調で香太郎が言う。


「今年はもういいけどさ、婆ちゃんが生きている間にとにかくあと一回は会ってやりなよ」


「そうだな、あと一回くらいならな」


 巽は苦笑しながら答えた。あと何年、何十年とたっても、自分が甥との約束を守らないであろうことは容易に予想できたからだ。香太郎もそれが分かったのか、この日はもう帰省のことには触れようとせず、自分の学校でのことや、雑誌で読んだ滑稽話など、他愛のない話を一方的に続けては、巽を大笑いさせていた。その笑いがどこまで本当のものだったのかは、香太郎はもちろん、巽自身にもよくわからなかった。


 妹夫婦の営む商店の前まで香太郎を送った後、巽は駄菓子屋近くの八百屋に寄ってキュウリとナスを買った。父の墓参りや実家の法事には行かないにしても、息子と妻の供養を欠かすつもりはなかった。いくら「乗り物用」だとはいえ、夏野菜をこんな暑い時期に買い置きして何日も放っておくのは気が向かなかったが、あまり先延ばしにしていても、お盆の休みで店が閉まってしまう。どうかお盆の明けまで腐らずもってくれと願いながら、巽は野菜の入った風呂敷を抱え、炎天下の中、家路を急いだ。

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