第3話

「おい、巽、まだ寝ているのか」


 明け方に入眠した巽が、知人の声で目を覚ましたのは、その日の昼近くになってからだった。日は高く昇り、辺りはセミの声で騒がしくなっている。眠い目をこすりながら布団から起き上がると、開け放した戸口の前に編集者で友人の刈谷かりやつよしが立っていた。なぜ平日のこんな時間に来たのかと尋ねると、刈谷は会社の休み時間に外食に行くついでに立ち寄ったのだと答えた。


「それで、返事がないから勝手に上がらせてもらったんだが…それにしてもこんなに暑いのによく寝てられるな」


 刈谷が呆れ顔で部屋を見回す。畳の上には書きかけの原稿用紙が無造作に散らばり、土間に置かれた木製のたらいには、昨晩の夕餉の茶碗と箸が洗わないまま水に浸けてあった。同じく土間の、置きかまど横の水がめの脇には、昨晩飲んだ焼酎の徳利が1本転がっている。


「散らかり具合はこの前より幾分マシになったか…とりあえず飯買ってきたから食いな」


 刈谷はそう言って、巽の目の前に、紙の箱に入ったウナギの弁当と、唐草模様の風呂敷を差し出した。巽がその場で風呂敷を開けてみると、中身は実のたくさんついたビワの枝だった。


「ビワはうちの庭で採れたもんだから、お代はいらない。食べ終わったらすぐに、小説の仕事にとりかかることだな」


 そう言うと、刈谷は、もう職場の休憩時間があまり残っていないらしく、差し入れの品だけ置いて、足早に立ち去って行った。相変わらず慌ただしい男だと思いながら、巽は寝巻のまま下駄を履き、顔を洗うために土間へ降りた。


――たらいの中の食器は昨晩から水に浸けてある。汚れが緩んでいて、指でこすればすぐにきれいになるだろうから、終わったら水切り籠に置いて乾かしておくとして、顔を洗うのはどうしようか。たらいの水は食器を浸けてもう汚くなっているから、捨てて入れ替えないとだめだろうな…。


 そう思い、水がめのふたを開けると、中は空っぽで、水はほとんど残っておらず、底がわずかに湿っているだけだった。こうなると長屋共有のポンプ式井戸まで水を汲みに行かなくてはならないので、洗顔より先にまずは着替えなくてはと、巽はまた畳の方へと戻っていった。

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