第50話 ドッペルゲンガー

 シマダミノルは冴えない少年だった。

 高校生活も半ばを過ぎるのに、いまだ友だちの一人もできない。

 いや、小中学校の頃もまた、教室の隅っこで見向きもされないような子供だった。  

 センスのないあだ名をつけられたりもした。


 いじめられてはいない。ただ、関心を払われることもないのだ。昼休みの定位置は、校舎の端の空き教室。そして図書室だ。教室で弁当を食べると、ミノル以外の皆が友人同士で机の島をつくる。ミノルの孤独が浮き立つ。それが嫌で、昼食は誰もいない部屋がお定まりだ。


 弁当を閉じたら、図書室に行って本を読む。といって、別に読書が好きというわけでもない。暇をつぶすだけだ。成績も中の下あたりをうろうろするだけだし、これといって打ち込めるものもない。端的に言って、冴えない少年だった。


 そんな彼に異変が起きたのは、十月初めのこと。


「さっき、超面白かったじゃん。あれ、もう一回やってよ」

午後の授業が始まる直前、教室に戻ると声を掛けられた。「イケてる」グループの男子だった。ミノルはきょとんとするほかない。

「あれって?」

「あれはあれだよ。えっ、何? 覚えてない感じ? やべえ。おもしれえ」

 これが始まりだ。

 その日以降も同じように、意味のわからない褒め言葉をいろんな人からもらった。

「シマダって頭いいんだなあ、なんですらすらわかるんだ?」

「シマダくんって、女心わかる系でしょ。なかなかいないよそういう男子」

「シマダ、どうしたんだ最近、見違えるようじゃないか」

 クラスの優等生、可愛い女子、担任。誰も彼もから称賛を受け、そのたびにミノルは唖然とさせられた。訳を聞くと、高偏差値の生徒でも解けない問題を解いてみせたり、女子の恋愛相談に乗ったり、担任と社会問題を論じたりしたというのだ。


 まったく覚えがない。意味がわからない。

 そう告げても誰も取り合わない。

 昼休みは図書館にいたといくら訴えても、誰一人として信じない。「休み時間のミノルは覚醒する」などという、よくわからない評価が定着した。

「昼間、一緒にインスタ撮ったじゃん。超ウケる」

 人気者の男子が見せたスマートフォンには確かに、ミノルが写っている。普段ならばありえないひょうきんなポーズをして、周りの生徒を笑わせている。動画もしかり。


 異常な変化は学校に留まらない。

「近頃のミノル見てたら、お母さん安心するの。すごく明るくなったじゃない?」

 もとの性格と思春期の鬱屈が相まって、家ではぶすっとした態度が標準仕様。両親とまともに話さないのが当たり前。だったはずが、母は息子の「変貌ぶり」を褒め称えてやまない。覚えのない会話の内容が、母の口からぽろぽろと漏れてくる。

「ちょっと待って。おれ、お母さんとそんな話してないよ」

「何言ってるの。夕食のあとで喋ったじゃない。ねえ、お父さん?」

「覚えてないのか。どういうわけだ?」

 こっちが聞きたい。夕食を終えたら二階の自室にこもるのが毎日の習慣。にもかかわらず、彼は一階のリビングで談笑していたというのだ。

 まさか自分は、知らないうちに人格を変えているのか。二重人格者なのか。

 その仮説は、すぐに否定された。


 ミノルが自室にいるとき、階下から笑い声が聞こえた。そしてその中に、両親ではない別の誰かが混じっていたのだ。恐る恐る階下を降りると、両親しかいなかった。

「今、誰かいなかった?」

「誰か? 何のこと? ミノルとお母さんたちだけでしょ」

 ちぐはぐなやりとり。ためしにと自分の声を携帯電話で録音し、再生してみる。聞こえたのは、先ほど両親と話していた声。つまり、ミノル自身の声。

 明らかにおかしい。考えたミノルは、ひとつの可能性に想到した。



 ドッペルゲンガー。



 自分ではない自分。自分と瓜二つの誰かが、自分のように振る舞っているのだ。

 そして、その仮説は立証された。

 問題の昼休み。

 図書室を出たミノルがこっそりと教室を覗くと、そこに自分がいた。

 自分と同じ姿形の誰かが、周りを爆笑の渦に巻き込んでいる。

 意を決して扉を開こうとするが、不思議なことに戸が開けられない。

 と思いきや、さらに信じがたいことが起きた。

 まるでミノルの姿など見えていないかのように、一人の女子が内側から戸を開け、そのまま彼の体をすっと通り抜けてしまったのだ。

 自分の体は確かにある。透明になったわけではない。にもかかわらず、誰にも気づかれないのだ。ミノルは怖くなってその場を逃げ出した。戻ってみれば、またも身に覚えのない大絶賛をもらった。

 

 変化は日に日にひどくなった。

 ドッペルゲンガーは堂々と現れるようになった。ミノルがいるのも構わずに動き回り、その間ミノルは他人から見て、透明な存在になる。ドッペルゲンガーは教室をも飛び出して校舎のあちこちに出張して回り、ミノルの気づかない範囲で評判を上げていく。

 ノイローゼ気味になってミノルが学校を休むと、その日一日だけで、周囲と自分との記憶の齟齬が大きくなった。ドッペルゲンガーはきちんと学校に行き、自分より何もかもうまく振る舞っているのだ。



「そう、おれは君なんだよ」



 ある夜のこと。寝床で横たわるミノルのもとに、とうとうドッペルゲンガーは侵入してきた。ミノルは金縛り状態だった。相手は電気をつけ、自らの姿を見せつける。鏡で見るのと印象が違うのは、鏡像と左右が反転しているか、はたまた人格的な理由か。

 そんなことを冷静に考える余裕もない。

「おれは君に成り代わって生きようと思うんだ。君よりも優秀で人気者で、親孝行のシマダミノルがここにいる。君は要らないんだよ」 

相手は毅然と言い放った。そんなことはない、という念をミノルは必死でぶつける。

「そうかな?」

 ミノルの念が言葉となって通じたかのようだ。だが、相手は鼻で笑った。

「自分のことを決めるのは自分。君はそう思ってるだろう。でもね、自分という存在は他者なくしてはあり得ない。鏡がないと自分の顔が見られないし、録音がなければ自分の声もわからない。他者あってこその自分なんだ。君は一人でいようとした。なぜかわかるかい? 他者の中にいると、自分という存在を感じてしまうからだよ。味気なく、価値のない、無意味な自分をね。だから君は孤独を選ぶ。孤独に引きこもる限り、孤独から遠ざかれる。他者も自分もなくてすむ。ならば、君の存在に何の意味があるんだ?」

 ミノルの思考を、相手は遥かに超越していた。

「そう、あらゆる点において、おれは君よりも上等な個体となれる。初めこそ気を使ってみたが、うろちょろ嗅ぎ回られるのも鬱陶しい。堂々とさせてもらうことにしたよ。嫌なものだね。自分と同じ顔の、くだらない人間が視界に映るのは」

相手の目が鋭さを帯びる。殺すのか。

「殺しはしない。君自身で選んでくれないかな。最善の選択を」

 死ねというのか。

「君の死がもたらすのは、自意識の消失だけだよ。危惧する必要はない。両親は悲しまない。むしろ喜んでくれると思うよ。僕が代わりを務めるからね。そう。君は知らないかもしれないけど、何人かの女子から愛の告白も受けている。今までの人生では考えられないことだ。いや、今後の人生でも」

 うるさい、ドッペルゲンガーめ。

「ふふっ、ドッペルゲンガーか。だったら言わせてもらうけど」

 彼は決定的な一言を言い放った。

「幽霊の分際で、僕を罵るのかい?」



 幽霊。それがミノルの正体。

 というわけではない。



 ただ、それは紛れもない彼の一面だ。小中学校でつけられていたあだ名が、「幽霊」だったのだ。存在感のないミノルにうってつけの呼称だった。

 自分は幽霊ではない。ただ、周りからすれば幽霊同然だったのかもしれない。

 そんな暗い思考を、ドッペルゲンガーは後押しした。彼は夜な夜な枕元に立ち、いかにこれまでのミノルが無価値な存在だったかを懇々と説いていった。具合の悪いことに、ミノルの持つ記憶をも相手は有しているのだ。

 いつしかミノルの思考は、相手の注入する毒素に冒されていった。

 陰鬱な気分が深まり、口数も表情もいっそう乏しくなった。そのくせ、周囲の評判は反比例するようにして高まった。

 自分に生きる意味などないのかもしれない。あのドッペルゲンガーが自分に成り代わるほうが、周囲を幸福にするのかもしれない。


 そんな考えの末に彼は今、立っている。十階建てビルの屋上に。


 フェンスを乗り越え、地上に飛べばそれで終わり。消えるのは自意識だけだ。

 曇天の夜空は暗く、地上の闇もまた深い。痛みもなく飲み込んでくれるかもしれない。

 彼を照らすのは一個の懐中電灯。その持ち主は、ドッペルゲンガーだった。

「さあ、終わりにしよう。君はすべての悩みから解放される。あとのことは心配するな。おれが全部引き受ける」

 闇の中に浮かぶ相手の顔は、邪悪だった。邪悪な者と対峙する勇気さえ、自分にはないのだろうと思った。

「ミノルくん、死んでくれるね」

 ドッペルゲンガーが囁いた。

「ああ」

 ミノルは短く答えて、屋上のフェンスに足をかけた。

 これでいい。誰も困らない。ミノル自身のためにも、ミノルは消えよう。

 そう思ったときだった。





「ちょっと待ったぁ!」




 闇の中に声がした。ドッペルゲンガーは驚いたように懐中電灯を向けた。

 屋上への出口のところに、人影があった。ライトが照らしたのは、二人と同じ顔の誰かだった。たったっと駆けてきたのは間違いなく、自分と同じ顔の少年だった。

「ふざけるんじゃねえぞ! ドッペルゲンガーはおまえ一人だと思うな!」

 そうだそうだと闇から声が飛び、さらに一人が姿を現した。

「もとのミノルが死ぬなら、次のミノルはおれだ!」

 また別の一人が出てくる。

「先を越されたから今まで我慢していたが、おれも立候補するぞ!」

なんとしたことか。ドッペルゲンガーが次から次に現れた。

「おれが次のミノルだ!」「おまえよりおれが優秀だ!」「おれのほうが気立てがいい!」「おれのほうが微妙にハンサム!」「ドッペルゲンガーのくせに!」「自分もそうだろうが!」「オリジナルをいじめるのは反対!」「反対反対!」「ミノル、おれはおまえとうまくやっていく系のドッペルゲンガーだ!」「おれとおまえは生き別れの双子だったことにしよう!」「いいかげんにしろ! ドッペルゲンガーはおれだけだ!」「誰が決めた!」

静寂の屋上は一転、ミノルのドッペルゲンガーに埋め尽くされた。その数は十や二十では収まらない。大きな巣から出る蟻たちのように、屋上の出口からばかばか湧き出す。

 総勢は三百名を優に超えた。

 自分のことを自分はよくわかってると思ってたけど、自分の中には未知の自分がまだまだたくさん埋まってるのでは、みたいなことを考える余裕もなく、屋上は自分で溢れた。

「ミノルの歌をつくろう!」「ミノル会の会長はおれだ!」

「ミノル国大統領選挙を!」「ナイスミドルならぬ、ナイスミノルを選ぼう!」

「オヤジが一人紛れてるぞ!」

 たいへん馬鹿馬鹿しいやりとりが方々で交わされた。





 生きよう、とミノルは思った。

 アホミノルやバカミノルもずいぶんと紛れている。こんな連中がミノルとして生き、真のミノルたる自分だけが死ぬわけにはいかない。

 もはや最初のドッペルゲンガーがどこにいったのかもよくわからない。

 もうどうでもいい。これだけの数がいれば、存在感のない人間だとは思われまい。

 どんな騒がしい事態になるのか。生きて見届けてやろうじゃないか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

珍蔵のショートショート @jin-jin-jin-jin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る