第48話 死の宣告と彼女の余命
和子は病院のベッドの上で、静かに横たわっていた。高齢の和子は、既に自分の死を予期していた。病室には親族や友人たちが詰めかけ、彼女に励ましを送っている。
好意はありがたい。ありがたいけど、自分はもう死ぬのだ。
それは決定したことなのだ。
彼らの顔を眺めながら、和子は長い生涯のうちで出会った、忘れがたい人々のことを思い返していた。
今の夫と出会う前。尋常小学校を出て、町の縫製工場に勤めていたときのこと。
和子には憧れの男性がいた。栗山さんという人で、当時十五の和子よりも二つ年上だった。彼は豆腐屋さんの長男坊で、リアカーを引きながら町中を歩き回っていた。精悍な顔立ちに、隆々とした体つき。性格も磊落で、娘たちにとってのちょっとしたアイドルだった。和子は豆腐を買う気もないのに駆け寄っては、工場の布の余りでつくった巾着なんかを手渡し、笑顔の見返りを受け取っていたものだ。
そんな栗山さんのもとを、和子はその日も訪れた。ちょうど、和子の誕生日であった。何を期待したわけでもない。ただ、彼にその事実を伝え、少しでも自分のことを知ってもらえればそれだけで嬉しいのだ。
しかし、和子が伝える前に、栗山さんは一枚の紙をすと差し出した。
正方形の紙だった。掌に収まるほどの紙きれには「50」と書かれており、言わんとすることがよくわからなかった。
「何ですか、これは」
「いやあ、それが俺にもわからないんだ」
栗山さんは首を掻きながら言った。「今日の昼間、この辺を流してたら、妙な人に出会ったんだよ。まるで昔のお侍みたいな人でね。豆腐を買うのかと思いきや、何も言わずにこれを俺に渡したんだ。訳を聞いても黙ったままで、それきりに歩き去っていった。何だと思う? いろんな人に訊いてるんだけど」
そのときの和子に、何かがわかったはずもない。
だから、悲劇を防ぐこともできなかった。
栗山さんはそれからしばらくして、突然この世を去った。町の銀行に強盗が押し入り、たまたま居合わせた栗山さんは、猟銃で心臓を撃ち抜かれたのだ。
あとになって振り返る。そして、50の意味を知って戦慄する。
和子の誕生日から数えて、栗山さんの命日はちょうど、五十日後だったのだ。
現実的に考えて、死の宣告などあろうはずもない。偶然でしかない。でも、だとするとあの紙は一体何だったのか。謎が解けぬまま時は経ち、和子は今の夫と結婚した。一軒家を構えて子供も三人生まれ、平凡ながらも幸せな生活を営んでいた。
紙の一件も、すっかり忘れて暮らしていた頃のこと。
近所の婦人と立ち話をしていたら、彼女が似たような話を始めた。
「今朝方ね、家の玄関を叩く人があったの。ぎょっとしたわよ。黒い羽織袴を着た男の人がいてね。わたしにこの紙を差し出したの」
彼女の手には、「100」と書かれた正方形の紙があった。
和子は血の気が引いた。栗山さんのときと同じだ。あの事件を話すべきかどうか、大いに迷った。迷った末に、勇気を振り絞って伝えたにもかかわらず、婦人はまともに取り合おうとしなかった。
結果、彼女は亡くなった。
家の二階の階段から転げ落ち、たまたま下にあった木箱に頭を打ち付け、帰らぬ人となったのだ。当時は彼女以外の家族が出払っており、発見が遅れたのも不幸であった。
その日はまさしく、紙を渡されて百日後――。
この世には死神がいる。和子ははっきりと確信した。
その力はどうやっても留めようがないのだ。その後も、人伝いに紙の話を聞くことがあった。和子の奇妙な体験を覚えていた知り合いが、教えてくれた。
ある男性は「17」という紙を受け取り、きっかり十七日後に死んだ。男性は和子の話を知っていたので、予告されたには一日、布団を被って過ごしていたそうだ。家族が布団を剝がしたとき、彼は死んでいた。
健康だったはずの彼が、突然の脳出血で死んだのだ。
三度も続けば、偶然であるとは言えない。
いよいよ和子自身の前にも、死神は訪れた。
黒い羽織袴。髪を後ろでひとつに結び、生白い顔をしていた。
出会ったのは、病室だ。
もとからの病気で伏せっていた和子のもとに、死期を告げるべく彼はやってきた。
話しかけようとしても言葉が出ず、相手はすうっと煙のように消えた。
一週間と一日。
書かれた数字はつまり、そういうことだ。死までの猶予として宣告されたのは、ごくわずかな期間だった。だが、むしろありがたいことかもしれない。いつ自分が死ぬのかわかっていれば、準備ができる。それまでになすべきこと、果たすべきことをすべて済ませられるし、会いたい人にも会っておける。
そしてまさに、今日が予告された日だ。
「今、何時かね」
出づらくなった声を懸命に振り絞り、時計を見せてもらう。ぼやけた目に映じたのは、十一時三十分。既に夜も深い。あと三十分以内に、自分は死ぬのだ。ベッドのそばには、夫がいる。愛する息子や娘がいる。孫もいる。近所の友人もいる。
やがて、時計の針が日をまたいだ。
和子の意識はまだ残っていた。はて、どうしてだろうと和子は思った。
死神の紙は、絶対的な力を持っているのではなかったか。
紙に書かれた数字は、8。
和子はその形を見て、はっとする。もしかしたら、あれは8ではなかったのか。
正方形の紙だから、縦と横がわからない。8を横にすると……。
いやはや、嘘でしょう死神さま。これはまた、気が遠くなるねえ。
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