第46話 戦慄! 百物語
「…………あのとき、あたしが見た女の子は、果たしてこの世の者だったのか。いまだによくわかりません」
若い女性はそう言って立ち上がり、九十九本目のろうそくをふうっと吹き消した。
十人の男女が今宵、百の怪談を連ねるため、一同に会していた。
彼らがその舞台として選んだのは、とある廃村の民家だった。持ち主を失った一軒の民家に顔を揃え、夜を徹して恐ろしい話をする。怖いもの知らずの営みである。車座をなし、着々と物語を積み重ねていく。一様に青い着物を身につけている。これは古来の作法である。
夜の深まりに合わせ、明かりもまたひとつひとつと消えていく。新月の夜。雲は厚く、朽ちた窓辺に星の光は差さない。完全な闇は、すぐそこまで来ていた。
「あと一本か……いよいよだな」
怪談百物語は、大詰めを迎えていた。
緊張、興奮、疲労、恐怖。さまざまな感覚が互いの体からしみ出して、えもいわれぬ雰囲気が廃屋の一室に漂う。一話につき五分と考えても、一時間で十二話。百物語を完遂させるには実に、八時間半近くを要するのだ。
彼らは現に、その長丁場を経てきた。
前日の午後六時から始め、いまや丑三つ時の午前二時二十分。彼らはわずかな用足し休憩を挟むだけで、ただひたすらに怪談を話し続け、そして聞き続けたのだ。
その間も、説明しがたいいくつもの事象に見舞われた。
彼ら十人が集うのは一階の居間。ほかには誰もいないはずの民家に、足音が聞こえたりもした。階段を上るようなきしみや、二階でどんどんと床を叩くような音もあった。外からきれぎれの経文が響いたこともあるし、柱の陰で居間を覗く霊の姿を、見かけたという者もいた。
火が灯るのは彼らのいる部屋ではなく、隣の一間。これもまた百物語の作法である。隣室に残る火ももはやひとつ。闇に慣れた目とはいえ、誰も皆、互いの顔を満足に見ることすらできない。隣同士の存在を確かめるのがせいぜいだ。
「あと一本を消し終えたら、何が起きると思う?」
百の怪談を終え、ろうそくの火が消えたら何かが起きる。百物語の伝承である。
「さあ、わからんな」
「とてつもない怪異に見舞われるんじゃないか」
集っているのは、怪談に精通した人間ばかりだった。男女の数はともに五人。大学生もいれば会社員もおり、定年を迎えた老人もいる。
「わたしが聞いたのは、闇の中に幽霊が浮かび上がるっていうやつだけど」
「ぼくらの人数が一人増えてるとかね」
「そんななまっちろいもんじゃないだろう。百鬼夜行の群れが見えるらしい」
後に起こりうる怪異について、各々が予想を膨らませる。百話目の始まりを、誰しもがどこかためらう風である。
始まった話はいずれ終わる。終わったあとにいかなる恐怖が襲うのか。
それを受け止める覚悟が、十全でないのかもしれない。
「俺は思うんだ。ありとあらゆる種類の妖怪が、この民家を取り巻くんじゃないか」
「甘いわよ。ここのあらゆる床や壁から、霊が這い出してくるのよ」
「そう単純なものだろうか。それでは我々の話してきた物語にも劣るのではないかね。おそらくはこの民家ごと、霊界に連れ去られると見るね」
「霊界? 行くとしたら地獄じゃないかしら。あたしたちは地獄の門を開き、魑魅魍魎の渦の中に放り込まれるの」
「それはややフィクショナルだな。霊異の恐ろしさをわかってないよ。おれたちはごく静かに、ひとりひとり息の根を止められるかもしれない」
「朝になったら全員ミイラか? ありがちな結末だよ。ぼくは思うんだがね、一人一人が別々の時空間に飛ばされるんだよ。そして、自分だけが存在する世界を彷徨う……」
「並行世界か? わしは時間反復こそ恐ろしく感じるよ。ろうそくを消したら、またわしらは全員、この民家に入ってきたときに戻される。そして永遠にぐるぐると、同じ時間の中で物語を続けるのさ。気づかぬうちにね」
「そう大がかりに考えなくていいんじゃない? 幽霊が惨殺するのよ、一人残らず」
あーでもないこーでもないと議論は続いた。残されたろうそくもそろそろ、その芯を溶かしきろうとしていた。
「だいたいの予想は出尽くしたね。じゃあ、最後は主催の僕が話す。いよいよ百話目だ」
一人の青年が姿勢を正し、皆の神経が今一度研ぎ澄まされた。そのときだった。
隣の部屋にあるろうそくの火が、ふっと消えた。
短い沈黙が生まれた。何の物音もなかった。皆が一斉に静寂を破る。
「どうしたんだ?」「まだ話してないのに!」「これじゃあせっかくの積み重ねが」「もう一回つければいい」「駄目だ。本式の作法どおりにはならないよ!」「冗談じゃないぞ、すべては百話を貫徹させるためにやってきたのに!」「どっちらけじゃん!」
一同は闇の中で騒然となった。何事も起こる気配はなかった。一人が懐中電灯をつけた瞬間、ほかの参加者から罵声が飛んだ。電灯などつけたらいよいよ台無しだと文句が出るが、ライトをつける者は一人、また一人と増えていった。
百物語をすべて終えたとき、怪異が起こるとされる。
ゆえに多くの場合はあえて、九十九話目でやめる措置が執られる。
「まさか誰かが、妙な気を利かせたんじゃないだろうな?」「あたしじゃない」「俺でもないよ」「足音なんかしなかった」「そうだよ。自然に消えたんだ」
気分の盛り下がったまま、せっかくだからと主催の青年はろうそくに火をつけ、百話目を話しきった。しかし、あらためてつけた火を消すのでは、有り体に言ってリセットである。ただ一話を話したというだけ。百個目とはならないのだ。
その証拠に、何一つ怪異は発生しなかった。
彼らはどっと疲労に見舞われ、その場で眠りについた。
……朝、起きてもなお、別段の事件はなかった。誰もが疲れ果て、拍子抜けの感を抱いた。やるせない面持ちで、廃村をあとにしたのだった。
さて、なぜろうそくは消えたのか。
「あいつらクレイジーっすよ」「並行世界とか時間反復とか何だよそれ」「聞いたこともないぞ」「魑魅魍魎ってメンツじゃねえぞ俺たち」「全員を惨殺とか、そんな恐ろしいことしねえよ」「買いかぶりすぎだよまったく。百鬼夜行の大変さを知らないんだ」
実はあの場所に、幽霊は揃っていたのである。
百番目の話が終わり、ろうそくが消えた瞬間に暴れ回ってやろうと民家の天井に張り付いていたのだ。
ところが、参加者たちがとてつもないスケールで期待を膨らませるものだから、出るに出られなくなった。「盛大なパーティを期待されたのに小さなケーキ数個しか用意してない」みたいな状況で、幽霊たちの抱いた気まずさはもはや、恐怖と相似であった。いざ出て行って、「この程度か」みたいな反応をされたら、明日から生きていけない。死んでるけど。
というわけで、幽霊はフライングして、百本目のろうそくを消してしまった。
かくして一同の目論見を失敗に追い込んだわけである。
その場に集った幽霊の一人が、深くため息をついた。
寂しげな顔をして、ぽつりと呟くのであった。
「人間の考えることは、幽霊よりも恐ろしいよ。まったく」
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