第43話 怪異! 絵画の少女

 さる富豪の男は、某県の別荘地に大きな邸宅を構えていた。


 絵画を収集するのが昔からの趣味で、家の中に個人的なギャラリーをつくり、購入した絵を飾っていた。自分で描くことはないが、国内外、有名無名を問わず、気に入った画ならば何でも飾る。百平米のギャラリーは四方の壁に絵画が整然と並び、室内に建てた六本の太い柱もまた、絵を掛けておくためのものだ。既に陳列スペースはなく、頃合いを見ては別の倉庫に絵を移し、また新たな作品を飾る。


 富豪にとって自慢のスペースで、邸宅を訪れた客人を必ず通す。客を喜ばせる意味も兼ねて、有名どころも取りそろえてある。あいにく複製画ではあるが、ピカソ、ゴッホ、ルーベンス、モネ、ゴヤ、黒田清輝などをさまざまに揃え、絵に疎い客でもなんらかの反応を見せる。そんな相手にうんちくを語るのもまた、富豪の楽しみなのである。


 絵を買う際は、自ら方々の画廊やオークションに出向く。芸術との出会いは、表面的な出来不出来によるものではない。大事なのはフィーリングだ。その絵を見た瞬間に、ほしいと思わせるエネルギーを感じるかどうか。それがすべてである。

 その絵に出会ったのもまた、なんらかの運命に引き寄せられた結果なのかもしれない。


 彼はある日、ホテルで開かれるオークションに出掛けた。

 その場で競売に掛けられた一枚の絵こそが、彼の人生を大きく狂わせることとなった。

「こちらの絵は、少々風変わりな作品でありまして……」

 司会を務める男性が、表情を硬くする。二十人ほどの参加者に披露されたのは、ドレスを着た少女の肖像画だった。十代前半と思しき白人の少女が、椅子に座っている様を全身で捉えた構図。写実的で陰影も細かいものの、取り立てて優れた作品とも思えなかった。約十年前に描かれたものらしいが、作者の名前にも聞き覚えがない。


 ところが、司会者はこんな紹介を始めたのだった。


「この絵は、日ごと日ごとにその様相を変えるといわれています」


 会場がざわめいた。何を言い出すのだ、と不審げな雰囲気が広がった。

「今はショートヘアの金髪ですよね。しかし、やがて髪が伸び、髪の色も白く染まっていくというのです。そのほか、色調や表情まで変化するといわれていまして……」

 怪しげな風説をぺらぺらと喋る司会者は、それでもなお真剣な面持ちだ。このオークションには何度も足を運んでいるが、決していい加減な会ではない。

「そんな馬鹿な話があるか、とお思いでしょう。ただ、購入した方の話によりますと、確実に変わっていくというのですよ。いえ、この言い方も不正確ですね。購入した人々は次第に精神に異常を来し、最終的には謎の死を遂げるそうなのです」


 会場のざわめきはいっそう大きくなる。明かされた話はこうだ。

 前に購入した人間が、絵の変化を周囲に伝えた。しかし、ほかの人間が見ても何も変わっていない。それでも所有者は主張を曲げず、最後には死んでしまった。絵の前で、ミイラのように干からびた状態で発見されたというのだ。

 生前の所有者の日記には、刻々と変わっていく絵の様子が記述されていたらしい。

「もっとも、ご心配には当たりません。物理現象として、あり得ませんからね。私どももこの絵を管理する間、二十四時間カメラを向けておりましたが、何の変化も記録されませんでした。あくまで、ご興味のある方があればという一品です」

 

 そしてその絵は今、富豪のギャラリーにある。縦幅が三十三センチ、横幅は二十四センチほどの小さな作品だ。微笑を浮かべた少女が、金色の額縁の中でじっとこちらを見つめている。オークション会場の彼は、その瞳に吸い寄せられるように、いつの間にか購入希望の札を上げていたのだった。

「何が起きるのか、せいぜい楽しみにしよう」

 ごくささやかな出費で手に入れることができ、彼としては満悦であった。

数日の間、毎日確かめてみたものの、なんら変化はない。まさかこけおどしの売り文句だったかと思い始めたある日、富豪は目を疑った。



 白かったはずの背景が、灰色に変じていたのだ。



 指先で触れても、誰かが塗った形跡はない。使用人たちも誰一人知らぬというし、外部の誰かが侵入したとも考えにくい。

 まさか本当に、いや、そんなはずはない。

 もともと灰色だったのだ。自分の記憶違いだ。

 そう自分に言い聞かせた翌日、背景の色はさらに黒ずんでいた。


 変化はその後も続いた。オークションで聞いた言葉どおり、少女の髪は次第に伸び、首から胸元、そして腰の辺りまで伸びた。顔つきは日に日に険しくなった。口元が締まり、無表情になり、やがてはこちらを睨みつけるような目に変わったのだ。

「誰だ! 細工をしたのは!」

 使用人を集めてどやしつけたが、誰も皆困ったように肩をすぼめた。自分は知らないと一様に言いつのるのだった。

「旦那様、たいへん申し上げにくいのですが」

 使用人の一人がおずおずと口を開く。「仰っている意味が、わからないのです。あの絵はこちらの邸宅に来た日から、何一つ変わっていないように思うのですが」

「何だと!」

 富豪は彼らを連れて、ギャラリーへ向かった。そこで、彼は言葉を失った。


 まがまがしく変わっていたはずの絵が、購入した日の状態に戻っていたのだ。


 自分がおかしくなったのか。富豪は唖然として、その場を離れた。だが、あとで一人、絵の前に戻ると、そのときにはまた異常な変化が現前しているのだった。

まるで、自分を前にしたときだけ、絵が変わっているかのようだ。

 富豪は写真を撮り、その絵の前にビデオカメラも設置した。

 これで証拠が掴めるはずだ。


 さらに翌日、絵の前に立つ。もはや当初の優しげな少女はいない。長髪は白く染まり、碧眼は血のような赤に変じ、背景は漆黒だった。昨日よりさらにひどい絵になっている。この変化はしかと映像に収まっただろう。使用人たちも信じるに違いない。そう考え、カメラの液晶画面を巻き戻してみた。

 富豪は画面を覗き込み、愕然とした。

 カメラに映っているのは、美しいままの少女だった。

 そんな、嘘だ、今、私の目の前にあるのは。

 そう思って顔を上げた瞬間、富豪は全身が硬直した。



 絵は穴を開けたように、真っ黒に染まっていた。

 床の上に、白い影があった。

 絵の中にいたはずの少女が、絵の外に出てきたのだ。

 真っ赤な目でこちらを睨みつけていた。


 人形のように小さな少女は、まるで獣のように口を開けた。鋭い牙が見えた。

 富豪は助けを求めることもできなかった。少女は彼に飛びかかり、首筋に噛みついた。 彼はその場に倒れ、首から血を噴き出して絶命した。


「フフフフフ……」

 笑みを湛えた少女は、死んだ富豪の首になおも牙を立てた。彼女はこうして人間の血をすすり、絵の中で生き長らえているのだ。口元を真っ赤に染め、じゅばじゅばと彼の血を飲み続けた。

「旦那様」

 ギャラリーの入り口で声が聞こえた。使用人が来る。少女は瞬時のうちに、あどけない姿に戻った。絵の中に入れば、自分がやったなどと誰も考えない。








 ……そう思って壁に飛び上がるのだが、どうしたことか、もといた絵に戻れない。  

 富豪の脂っこい血を吸いすぎて、腹がたぷたぷだった。

 思うように飛び上がれない。

「旦那様?」「どうなさったのです?」

 声が近づいてくる。複数の声だ。まずい。隠れなければ。

 焦った少女は咄嗟に、隣に飾られていた絵の中に飛び込んだ。

「キャアッ!」「旦那様!」「警察を! 早く!」

 使用人たちが慌てふためく。その手から写真がこぼれ落ち、写真には美しいままの少女の絵が写し出されている。






 少女はほっとしながら、絵の中から笑って外の様子を見つめていた。

 その背後。

 彼女の姿を見下ろすように立つ、白髪の大男がいた。

 我が子を食らうサトゥルヌスの目が、ぎろりと動いた。


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