第41話 山に棲む者たち


 大学の登山部に所属するYさん。

 この日、中部地方のとある山に登頂を果たした。空は一日、贅沢なほどの快晴で、部員たち十名は山の愉しみを十二分に満喫した。

 いまや麓へと下る最中であった。


「あれ? なんだいありゃ」

 周囲の林にカメラを向けていた男子が、すと指を差す。ミズナラの群生する林の奥、一軒の丸太小屋が垣間見えた。登山道から外れた場所に、ぽつんと佇んでいる。

「あんな小屋、さっきあったっけ?」

 朝に登ったときも、今と同じ道を通っている。Yさんの記憶にはなく、ほかの皆も見覚えがないという。山道には登山者のための休憩所などもあるが、周りには看板のひとつも見当たらず、その類でもないようだ。

「あっ、俺、聞いたことがあるぞ」

 一人の男子が奇妙なことを語り始めた。「この辺の山には、怪談があるんだ。本当は存在しないのに、登山者にその姿を見せて誘い込む幽霊小屋があるらしい。中に入ると霊を見てしまうって」

 まさか、まさかと皆は笑うが、そう言われると恐ろしく映る。既に日は傾きつつあり、小屋は木々の中で薄闇に沈もうとしている。行ってみるか、と誰かが言った。それを皮切りに、面白そうだと話は盛り上がり、Yさんもやむなくついていくことにした。


「ごめんくださーい!」

 部員が呼びかけるも、返事はない。年季の入った外観は、「ログハウス」という洋風な呼び方が不釣り合いで、いかにも「丸太小屋」といった風情だ。窓に雨戸はあるもののガラスはなく、内部の暗闇がくっきりとしている。

「入ってみるか」

 男子メンバー六人がはしゃぎはじめた。やめなよ、と制する女子四人と分かれ、勝手に木戸を開けた。Yさんの位置からは、中の様子はわからない。男たちは入り口の前で、誰が最初に入るかと子供みたいに騒いでいる。

 じゃんけんの結果、一人が選ばれた。「危ないよ」と女子が声を掛けるも、彼は虚勢を張るように親指を立て、戸の奥へと消えてしまった。


 その直後だった。


 彼は大慌てで飛び出してきた。騒いでいたほかの男子も、言葉を失って後ずさる。女子の悲鳴が短く弾ける。

 中から出てきたのは、灰色のつなぎを着た中年の男だった。がっしりとした体格で背も高く、顔の下半分を覆うほどの濃いひげを生やしていた。

「何の用だ……」

 重々しい声だった。顔つきや姿勢からして、怒っているのは明らかだ。

「すいません、僕たち、たまたまここのおうちを見つけて」

「何の用だって聞いてるんだ!」

 その怒号と行動に、一同は絶句した。男は斧を手にしていた。弁解しようとした男子の足下に、ざくりと刃が刺さった。ぬっと見上げた男の目に、誰もが凍り付いた。

 人間とは思えない真っ赤な目。邪悪を絵に描いた悪鬼の双眸。

「人の家に無断で上がって……殺す、殺す、殺す!」

 肩を震わせ、男は斧を地面から抜いた。もう一度振り上げ、今度は男子の脳天めがけて振り下ろした。間一髪、彼は死の一撃をかわしたものの、誰一人まともに口をきける状態ではなかった。

「逃げろ!」

 誰かの叫びで緊張が弾け、十人は一目散に走り出した。


「何なのあいつ!」「知らないよ!」「どこまで逃げればいいのっ?」

 男はなおも奇声を発して追いかけてきた。思いのほかスピードが速い。

 振り向いた瞬間、Yさんは木の根っこにつまづいて転んでしまった。ほかの面々は先に逃げ、こちらを顧みようとしない。

 夢中で立ち上がる。その背中をぐいっと引っ張られる。

 すぐ真後ろに、男はいた。斧を振り下ろした。

 背負うリュックをざくりと切られた。

「いやぁぁぁっ!」

 Yさんはリュックを振り捨て、死にものぐるいで駆け出した。不幸なことに、Yさんは足の速いほうではなかった。そしてさらに不幸なことに、男は彼女を標的に定めたようだった。


 部員たちの行方はもはやわからない。Yさんは山道を必死で駆け下りた。なおも悪魔が彼女を追った。少し気を抜けばたちまち追いつかれそうな距離であった。どれほど走ったか定かでない。数十メートルか、数百メートルか。数十秒か数分か、はたまた数十分なのか。時間と空間の感覚もないままに、Yさんはひとつの建物に入った。

 そこは公衆トイレだった。

 四つある個室の一番奥に、Yさんは身を潜めた。

 多少は距離があったはずだ。ここに入ったのは見られていない。いや、わからない。でも、そう信じるしかない。息を殺し、耳を澄ませる。音はない。それにしても、こんなところにトイレがあっただろうか。道中の記憶を振り返っても思い出せない。記憶も思考も働かない。


 ハァ、ハァと荒い息づかいが外から聞こえた。ザッ、ザッと足音がした。


 そんな、嘘だ。信じたくない声が聞こえた。


「可愛い女だなぁ、ゲヘヘ、キヒヒ、おじさんがぶち込んでやるよ……」


 下卑た言葉が壁のタイルに響く。


「ここかぁ!」


 きいっとドアの開く音がした。一番手前の個室を開いたのだ。ホラードラマで見たことのある光景だ。まさか自分がその立場になるなんて。誰か、誰か助けに来てよ。


「ここだなぁ!」


 二番目が乱暴に開かれる。どうしよう。いちかばちか、隙を突くしかないのか。

 でも、勇気が出ない。足が震えて仕方ない。


「じゃあ、ここだぁ!」


 キャアアッと甲高い音がした。

 どすん、と何かの倒れる音がした。

 今のは悲鳴だ。男のものではない。女性の悲鳴のように聞こえた。


 トイレの中は静まっている。ドアをわずかに開き、恐る恐る個室の外を覗く。

 何があったのか。

 灰色のつなぎ姿の男は斧を放り出し、失神したように横たわっている。

 Yさんはもう少しドアを開け、三番目の個室を見た。

 ぎょっとした。幽霊と思しき風体の女性が倒れていた。




 このトイレもまた、登山者を誘い込む幽霊小屋だったのだ。

 どうやら異形のもの同士がお互いを見つけて驚き、気絶したらしい。


 Yさんはその隙にその場を離れ、部員と合流した。

 別のルートを通り、無事に下山を果たしたのであった。


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