第40話 知らないよ

 生まれ育った我が故郷、I県S市。

 僕は今日、帰省を果たした。昨年のお盆以来、一年と二ヶ月ぶりだ。

 

 今年の正月は妻と娘を連れてハワイ旅行に出掛けたし、ゴールデンウィークも家族サービスに気を取られ、お盆休みは妻の実家に行って過ぎてしまった。

 連休の今日は家族を伴って帰郷の予定だったが、娘が急な高熱でダウン。まだ三歳の娘を放っておくわけにはいかず、妻は東京に残り、僕だけが地元に戻る運びとなった。

 もっとも、それはそれでかまわない。

 孫娘を見せてやれないのは心苦しいが、妻が僕の両親に何かと気を使うから、こっちまで気疲れしてしまう。一人で戻るほうが、正直なところ楽ではあるのだ。


 駅に着いたのが予定より少し遅くなった。申し訳程度に賑わう、夜の駅前繁華街。僕はタクシーに乗って実家へと向かう。およそ十分ほどの距離だ。すっかりと日が落ちているし、墓参りは明日にしよう。そんなことを考えながら、窓の外を見る。特に廃れるわけでも栄えるわけでもない、中途半端な街並み。せわしない東京と比べると、時が止まっているかのような街だとしみじみ思う。


 タクシーが家の前に着く。ささやかな庭のある二階建ての一軒家。

 門のところに柵があり、このままでは入れない。インターフォンを押す。

「はい」

 母の声だ。「どなたでしょうか」

「俺だよ。雅人」

 あー、はいはい、今開けるわね。



 ……と、なるはずだった。考えるまでもなく、当然のことだと思っていた。

 ところが、思いも掛けない答えが返ってきた。

「……どちらさまでしょうか?」

 は? 何を言ってるんだ? 表札を見れば僕の名字。間違うわけもない。今日の帰省は既に伝えてあるし、了解の返事も受け取っている。

「僕でーす、一人息子の雅人でーす」

 いたずらに付き合う気分で、僕は答えた。すると、柵の向こうで玄関が開いた。

 僕が子供の頃から変わらない、ショートカットの母。エプロン姿で立っている。僕が手を振っても、母はなぜか一向に近づいてこない。

「どちらさまでしょうか」

 おいおい、いつまで続けるんだ。少し苛立たしくなり、柵を開けようとすると、母は少し慌てた様子で引っ込んでしまった。鍵が掛かっていて、なおも開かない。用心があるのはいいけれど、今は別だ。いい加減にしてくれ。


 しばらくして、父が顔を見せた。銀行に勤め、もうすぐ定年を迎える父。前よりも白髪が増えているが、禿げる兆候のない整った髪。ありがたい遺伝。そんな場合じゃない。

「どちらさん?」

 父は怪訝な表情を崩さない。再び姿を見せた母は、不安げに身を寄せている。

「だから俺だって」

 何なんだ。この手の振り込め詐欺でも流行ってるのか? 聞いたことがない。

 だいたい、ここまではっきり姿を現して、息子を名乗る詐欺師がいるだろうか。

「雅人だよ」

 二人は揃って顔を曇らせ、互いに目配せする。知り合いか? 銀行の人? などと囁き合うのが聞こえる。僕は苛々して仕方がなかった。

「何のドッキリ? いいよもう。はいっ、驚きました。びっくりだ。だから開けて」

「おうち、間違えてるんじゃないですか」

 父の声が尖る。

 酔っぱらい? 変質者? 警察呼ぶ? 

 ひそひそと聞こえる母の声。

「うちに息子はいませんけど」

「はあ? もうマジでいいから」

 両親の名前を言うと、母は怯えた様子で身を隠した。パジャマ姿の父親が、サンダルを履いて近寄ってくる。顔の強張りは変わらず、距離を保ったまま立ち止まる。

「誰なんですか、警察呼びますよ」

「あー、呼んでもらおうじゃないか」

 僕はやけくそな気分で言った。父は「うんざり」を体現するような苦い顔で、首筋を掻いた。不機嫌なときに見せる父の癖だ。昔から変わらない。

「いい加減にしてください」父は傲然とした態度で言う。

「こっちの台詞だ」

 僕たちは柵を挟んだまま、言い合いを続けた。なんで実家の前でこんな目に遭わなくてはならないのか。玄関のところでは、母親がゴルフクラブを持って構えている。不条理な気持ちで説得を続けるも、ドッキリはいつまでも終わらない。


 僕は半ば馬鹿らしい気持ちになりつつ、スマホから自宅の電話へつないだ。

 家の中から、コール音が聞こえる。奥に引っ込んだ母が、電話に出る。

「ね? お母さん、俺だろ。もう勘弁してくれよ本当に」

「警察、呼びますよ、ほんとに」

 電話口の母の声は震えている。呼べよ、と僕が言うと、電話が切れた。すぐさま母は飛び出してきて、「あなた、一一〇番」と叫ぶ。

「待て。近所の目もある。説得して帰らせるから」

 そう言って僕を振り向いた父の目は、完全に冷ややかだった。僕は続けて、メールを送った。しかし、これも結果は同じ。いやむしろ、事態は悪化した。

「あんた、いったい何が目的だ」

 母からゴルフクラブを受け取った父が、威嚇的にとんとんと地面を叩く。「電話番号もアドレスも知ってるって、どういうつもりだ!」

「だから言ってるだろ。アドレス帳見ろよ。俺からのメール入ってるだろたくさん」

「一件も入ってません! あなたのことなんか知りません!」

 母は涙を浮かべていた。心底、僕を嫌悪しているかのような表情だった。



 僕はいたたまれない気持ちになって、自宅の前を去った。

 仮に警察を呼ばれたとする。その結果、ようやくドッキリが判明したとする。そのときの僕はきっと、安堵よりも激怒の感情に駆られる。馬鹿な遊びを続けるなら続ければいいさ。家の前に唾を吐いて、とぼとぼと歩き出した。


 近所の商店街には、幼なじみの家がある。パン屋を営む友人で、名前は大川。彼は家業を継いだ。今も実家暮らしなのを知っているので、訪ねてみようと思った。

「もしもし、俺だけど」

 道中で掛けた電話がつながる。ところが、彼の反応もまた両親と同じだった。

「どちらさん?」

「野島雅人」

「野島……すいません、どちらの野島さんでしたかね」

「幼稚園から高校まで同じところに通ってた野島雅人」

 彼はうわごとのように、野島、野島と何度か繰り返した。その末に、「結婚して名字が変わったやつか?」と、頓珍漢なことを尋ねてきた。

「いいよもう、おまえんち見えてるから、すぐ行くわ」

「え? ちょっと、ちょっと待ってくださいよ」

 五十メートル先に、彼の実家である大川ベーカリーがあった。

 営業時間は既に終了したらしく、店はシャッターを下ろしている。その上には、電気の付いた部屋。そこのカーテンが開いて、大川が顔を見せた。ラグビー部にいた彼は、三十を迎えた今もかつてのように立派な体格だ。携帯電話を耳に当てた彼は、僕を見下ろしてぽかんとしている。そして、僕の顔をきっちりと捉えたうえで言う。

「すいません。ほんと、どなたかと間違えてると思うんです。失礼ですけど、覚えがないんです。知らないんです」

「俺はおまえのことをよく知ってるぞ。幼稚園のとき、お遊戯会でうんこを漏らした話から始めようか?」

「漏らしてませんよ、そんな。冗談ならやめてください。忙しいんで」

「警察でも呼ぶか?」

「呼びますよマジで」

 剣呑さは深まるばかりだった。メールを送るとちゃんと届いたが、両親と同じリアクション。なぜメアドを知っているのか云々と、いかれた押し問答。僕はここでふと閃いた。論より証拠。実家暮らしなら、卒業アルバムなり何なりがあるはずだ。それを見せてくれと頼むと、なんでそんなことをしなくちゃいけないのかと拒否された。

「いいからさ、小学校でも中学校でもいい。卒アルに俺載ってるから。見てくれ。画像を送ってくれ。それで載ってなければ納得するよ」

 大川は深いため息を電話口に吹きつけ、カーテンの奥に姿を消した。

 結果、僕は「納得」をしなくちゃならなくなった。彼から送られてきた卒アルの画像。 一人一人の顔が載っているページにも、僕の名前はない。顔もない。


 どうしたことか。僕の存在は抹消されているのだ。


「俺はおまえを知ってる」

 ほとんど懇願する気持ちで僕は訴えた。

「なんでおまえは俺を知らないんだよ。じゃあ、小学校の頃のこと話してやるよ。おまえ、俺んち来てさ、ほら、ゲームやってて……」

「帰ってください。これ以上しつこいようなら、本当に警察呼びます」

 ここに至って、僕は明白な恐怖を感じた。両親や大川が大仕掛けのドッキリをするにしても、卒アルの偽造ページまでつくるとは考えがたい。


 僕は大川ベーカリーを離れ、地元の友人に手当たり次第、電話を掛けた。

 どれもこれも同じだった。僕のことを知っている人は誰一人いなかった。

 アドレス帳を眺め、僕はある相手に連絡をした。

 呼び出し音が鳴る。これで大丈夫だ。とりあえず、人心地はつく。

「はい」

 電話に出たのは僕の妻、奈々美だ。家で、娘の千春の面倒を見ているはずだ。

 彼女が僕を忘れるわけはない。僕の存在を認めないわけがない。 

 そう、信じていたのに。

「どちらさまでしょうか」


 妻に対する必死の訴えも、まるで実らなかった。娘の声を聴かせてくれと願うも、「得体の知れない相手にそんなことはできない」と、非情な文句をぶつけられた。彼女や千春との思い出を告げても、まったくいい反応は引き出せない。それどころか。

「誰なんですか、お宅」

 電話口に、聞き覚えのない男の声がした。僕は震える手を押さえ、必死で抗弁した。

「あ、あんたこそ誰なんだ! うちに勝手に上がって! 奈々美に替われ! 千春はそこにいるのか?」

 相手は一切の物怖じなく、噛んで含めるように言うのだった。

「奈々美と千春は、俺の家族です。あんた、頭おかしいんじゃないの?」

 電話を切られ、それ以降はつながらなくなってしまった。 


 僕は今すぐ東京の自宅に戻りたかった。家の玄関を開けて、自分の存在を証明せずにはいられない。駅までの道を急ぐ。その道中、会社の同僚や仕事の知り合い、大学時代の友人などに片っ端から電話を掛けたが、絶望を深める結果にしかならなかった。

「僕、野島雅人です。知ってますよね、部長」

「野島雅人だ。同僚の。同じ会社の同じ部署の……」

「野島雅人だよ、知ってるだろ。大学の時の……・」

 知ってるだろ、知ってるだろ、知ってるだろ。馬鹿らしい質問を繰り返す分だけ、僕の自信は崩壊の一途を辿っていった。知らない、知らない、知らない。馬鹿らしい答えが繰り返されるだけだった。


 最寄り駅に着いても、電車はしばらく来ない。田舎の駅だけあって、夜ともなると一時間に一本のペース。仮に大きな駅に着いても、今日の新幹線には間に合わない。

 だが、妻子に会わねばならない。

 大幅な出費を覚悟でタクシーに乗った。

「運転手さん、聞いてくださいよ」

 もとから知らない相手に話をするほうが、よほど気が楽だった。僕は事の次第を余すところなく伝えた。中年の運転手さんは、「それは不思議だねえ」「たいへんなことだ」と、通り一遍の相づちを繰り返したあとで、まとめのように言うのだった。

「もしかしてお客さん、もう死んじまってるとかじゃないですよね」

「は? 何を言ってるんです。万が一そんなことがあっても、まるっきり覚えてないってのはあり得ないでしょう」

「いや、そういうオチの話なのかなって」

「笑い事じゃないんですよ」

「だとすれば、あれかな。私は時々、SF小説なんかを読むんですけどね、パラレルワールドってのがあるらしいんですよ。同時並行世界。ほとんどすべてが今までの世界と同じなんだけど、ある要素だけが変わっちゃってるっていう」

「その世界からはどう抜け出せばいいんです?」

「さあねえ。小説じゃあ、特別な機械とか魔法みたいなのがあるもんだけど」

 このタクシーがそうであることを全力で願いながらも、結局は駄目だった。電話やメールにまともな返信はない。この世界はパラレルワールドなのか? それとも全部夢で、目覚めればオチがつくのか? 僕自身がおかしいとでもいうのか?

 眠りたいところだけれど、脳が悪い意味で興奮しきっていた。


 高速道路を経由しての長い長いドライブの末に、タクシーは東京へと着いた。深夜三時を回っていた。自宅のマンションの前で数万円を支払い、オートロックの鍵を開ける。 

 ほら、ここは僕の自宅だ。

 そう思って家の前に辿り着き、玄関のドアを開ける。ほら、開くじゃないか。


 中はすっかりと寝静まっているが、何も気を使うことはない。自分の家だ。

 奈々美と千春の眠る寝室を開ける。電気をつける。

 そこには二人のほかに、見知らぬ男がいた。

 男はすぐさまベッドから起き上がり、警戒の視線を僕に向けた。

「誰だおまえ!」

 そう叫んだのは、向こうが先だった。奈々美も目を覚ました。彼女は千春を庇いつつ、怯えたように身構える。

「奈々美、俺だよ」

 僕はすがるような気持ちで訴える。「雅人だよ。おまえの夫だよ。千春の父親だよ。知ってるだろ」

 彼女の表情を見て、力が抜けた。両親や大川から向けられたのと同じ、赤の他人を見る目。いや、それ以上に残酷だった。深夜の不法侵入者を前に、恐怖しきった目だ。

「ママ」

 千春が眠たげな眼で僕を見る。「このひと、だあれ? しらない」

 僕はもう、何も言えなかった。出て行け、出て行け、警察を呼ぶぞ。男が言うそばで、奈々美は耐えかねたようにスマホを取り出し、耳に当てた。

 もう、説得する気力も湧かなくなった。憤怒、憎悪、恐怖。僕が抱くべき感情をさえ、彼らに奪われていた。



 僕はマンションをあとにした。男は追ってこなかった。 

 遠く、パトカーの鳴らす音を聞きながら、近所にあるファミレスに入った。

 いっそ警察に出頭すべきか。何かが明らかになるのか。

 むしろ、自分の存在を否定され続けるだけではないか。

 パラレルワールド? 夢? 僕自身がついている嘘?

 何でもいい。解放してくれ。

 運ばれたコーヒーを飲む気にもならず、僕はテーブルに頬をつけた。

 すると、斜め前の席で僕を見つめる男がいた。知らない顔だ。坊主頭で無精ひげを生やし、眼鏡を掛けている。Tシャツとジーパン姿は貧相で、目鼻立ちも冴えない。彼はノートパソコンを叩く手をふと止め、じいっと僕を見つめている。


 変質者と思われてもいい。誰かにこの事態を話したい。

 僕は彼の前に座った。

「僕の、知り合いじゃないですよね?」

 狂った質問だ。僕自身、彼のことを知らない。

 しかし、彼は僕の予想を裏切った。

「知ってるよ」

 パソコンのキーボードをぱんと叩き、背もたれに体を預けた。

「私は君のすべてを知っている」

「へえ、そりゃたいそうなことだ」

「嘘じゃない」

 僕の鼓動は直後、にわかに早まった。彼は僕の個人情報について、すらすらと話し始めた。名前、家族の名前、学校名、友人の名前、勤め先、血液型、生年月日……。

「君が、この世界から抜け出す方法も知ってる」

「お、教えてください!」

「一個だけ条件がある。私の質問に答えてほしい。答えてくれれば、君は解放される」

「答えます。僕の知ってることなら」

 彼はため息をつき、もう一度パソコンに向き直った。

 再び、かちゃかちゃとキーボードを叩き始めた。

「じゃあ、教えてくれ」

 僕はごくりと唾を飲んだ。









「この話、どうオチをつければいい?」






 僕はしばし硬直した。そして、彼の正体がわかった。すべての事情を察した。

 僕は思わず苦笑いを漏らし、ぽつりと呟くのだった。

「……知らないよ」

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