第39話 海での出来事
二年前のことである。ある夏の朝、私は散歩がてらに浜辺へと出向いた。
早朝の浜には人気が無く、凪いだ海の潮風に体を清められる気分だった。
だが、私はそこで見つけてしまった。
少し沖の辺りで、誰かが溺れているのである。初めこそ見間違いかと思ったが、それは確かに人だった。目を凝らしてみれば、なんと子供ではないか。気づけば私は駆け出していた。朝の海の穏やかさに油断し、沖まで泳いだのだろう。まったく迂闊な子供だと呆れつつ、助けなければという思いが勝った。私自身、学生時代は水泳部に属し、社会人になってからも毎年海で泳いでいる。泳ぎには自信があった。
ところが、あと二十メートルほどの距離まで来て、少年は海に飲み込まれてしまった。
私は慌てて潜り、彼の姿を探した。日の光はいまだ弱く、海中では相手の姿がまるで見通せない。それでも懸命に体のありかを探っていたら、足に違和感があった。誰かに引きずり込まれるような感覚だった。
私は瞬間的に悟った。
自分が見ていたのは人間の少年ではない。
幽霊だ。
私を海に沈めようとしているのだ。
必死でもがくも、足を掴まれて思うように浮上できない。信じがたい腕力だ。このまま引っ張られてなるものか。私は力の限りにあがき、まとわりつく相手の腕を掴んだ。身を翻して彼を抱え、海面へと上昇した。なんとか呼吸できたところで、またも彼は私を沈めようとする。あどけない顔はその分だけ、説得の通じない直情さで強張っている。
私たち二人はしばらくの間、浮いて沈んでを繰り返した。茫洋として静謐たる海において、その場所だけが魂の戦場だった。いつしか私たちの間には、不思議な連帯感が芽生えていたように思う。相反する思いを抱えつつ、本気で戦った者だけが体験する高揚感を抱いていたのだ。年の違いはあれど、相手は深い情念を持つ魂魄。世代の違いに何の意味があろうか。結果、少年は「あんたほどしぶといやつ、初めて見たぜ」的な目をして、海の中へと消えていった。
さて、翌年のことである。
あれ以来、少年と邂逅の機会は得られずにいた。また会いたいものだと思いながら朝の海に出掛けると、またもや溺れる者があった。今度は若い女性であった。人間かと思って近づけば、案に相違してというか案の定というべきか、幽霊であった。
女性もまた私を引っ張り込もうとした。以前同様に格闘し、相手を掴んで強引に抱き込むと、少年に比べてずいぶんと感触が柔らかかった。性の違いはあれど、相手は深い情念を持つ魂魄。決して尾籠な欲望など私は抱かない。抱かないけれど、私とて一個の男子である。
相手の胸に手が触れたとき、ムニュッとしたから、私は「ヌホッ」と思った。
もしかしたらその感じが、微妙に相手の機嫌を損ねたのかもしれない。
結果、「おっさんマジキモイ」的な目をして、彼女は海の中へと消えていった。
生死を賭けた極限状態の中、私は彼女に恋慕の念を抱いてしまった。再会を願って翌日からも足繁く海に通ったが、出会うことはなかった。いや、一度だけその女性の霊は溺れるそぶりを見せていたのだが、私の姿を見て取るや海に引っ込んでしまった。なんてシャイな人だろうと、私は積極的に海へと飛び込んだものの、彼女は一向に姿を見せてくれなかった。
さて、今年のことである。
今、私の前には海が広がっている。おっさんが溺れているのが見える。
どうしようか。助けようか。悩んでいるうちに沈んでしまった。
私は浜辺を去って家に帰り、屁をこいて二度寝した。
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