第37話 死神の宣告
都内在住の男性・Lさんはその日、仕事が休みだった。普段より遅めに起きて、クロワッサンとコーヒーを朝食に、ぼんやりとテレビのワイドショーを眺めていた。庶民的でありふれた、平穏な朝であった。
突如、ぞくっと悪寒が走った。
風邪でも引いたろうかとLさんは思った。それにしては、まるで痺れを起こしたような奇妙な感覚だった。寒さが全身を襲い、熱を測ろうと思ったLさんは、部屋の棚に体温計を探った。
ふと、背後に人の気配があった。
振り向いて、思わず短い叫び声を上げた。黒い人影があった。もやのような人影は次第に克明な輪郭を結び、人間らしき立ち姿をそこに現した。
Lさんは微動だにできなかった。眠気の余韻は消え去り、寒ささえも忘れた。
目の前の相手はローブのような黒い衣服をまとい、頭にフードをかぶっていた。俯けた顔がおもむろに上がり、Lさんは呼吸さえも忘れた。
顔の部分にあったのは、どくろそのものだった。
「驚かせてしまって、申し訳ないね」
どくろの口が動いた。鼓膜を介さず、脳に直接届くような、奇妙な声だった。
「君にひとつ、告げねばならないことがあってね」
身の危険を感じたLさんは、後ろ手で棚を探った。はさみを掴み取り、刃の先を相手に向けた。どくろは首をかしげ、小さく横に振った。苦笑するかのような仕草だった。
「君を傷つける気はない。そして、君が私を傷つけることもできない」
はさみがLさんの手を離れた。直後、天井に突き刺さった。
「私はね、死神なんだよ」
しにがみ、と相手の言葉をLさんは口の中で繰り返した。強盗やその種の犯罪者には思えない。人ならぬ何かであることだけが、理解できた。
「な、な、何ですか」
震えながら、対話を試みる。「僕を、殺すつもりですか」
死神を名乗るそれは、どくろのかぶりを重々しく振った。
「殺しはしないよ。君が勝手に死ぬだけだ」
「な、何を言ってるんだ」
「私は死神として、君に死を告げに来たのだ。君は今日の夜、午前零時をもって死ぬ。その定めから逃れることはできない。私は君の死を、見届けに来た」
死神の背後に見えるテレビの中では、女性キャスターがにこやかにグルメ情報を伝えていた。立ちはだかる死神によって、Lさんは日常から放り出されたような感覚に陥った。
この部屋にいてはいけない。
得体の知れぬ、邪悪としか思えぬ存在と、まともに対峙するべきではない。
「おいおい、どこに行くんだい?」
死神の問いに答えるより先に、Lさんは自宅を出た。パジャマにサンダル履きのまま、マンションの階段を降りた。エントランスのところで、管理人のおじいさんに会った。
「おはようございまーす」
おじいさんはいつもと変わらず、快活な挨拶を向けてくれた。ようやく人心地がついた気がして、Lさんがふっと後ろを振り返ると、そこに死神がいた。
「ついてくるな!」
死神は無反応だった。心なしか、こちらを嘲うような気配すら感じられた。
「気分が悪いんだよ! 誰が死ぬってんだ! ふざけるな!」
「どうしたんですか」
おじいさんは困惑した顔でLさんを見つめていた。「誰と話してるんです?」
Lさんは耳を疑った。目を疑った。おじいさんには、死神の姿が見えていないようだった。どう説得しても、彼は眉をひそめるばかりだった。
どこに行っても、死神は後をついてきた。誰に尋ねても、その存在を認めてくれる者はなかった。交番に駆け込み、変質者に追われていると訴えた。すぐそばに佇む死神を指さすのだが、警官が救いを与えてくれることもなかった。
一方、死神が危害を加えることもない。近くに佇んでいるだけだ。皮膚も筋肉もないその顔はしかし、やはり絶えず嫌な笑みを湛えているように見えた。
神社、寺院、霊媒師。インターネットで検索し、実際に出向いてお祓いを願う。一日のうちであちこちを駆け回り、八方手を尽くしてみたものの、死神は消えない。
「死を見届ける」とうそぶき、にやつくだけだった。
方々を訪れる最中に、Lさんははたと気づいた。
死神を追い払おうと焦って動き回れば、交通事故に遭うかもしれない。通り魔に遭うかもしれない。工事中の建物から何かが落ちてきて、死ぬのかもしれない。
こいつはそれを狙っているのだ。
外にいては駄目だ。少なくとも、家にいるほうが安全なのだ。
Lさんは自宅に帰り、普段どおり過ごすことにした。それでも落ち着かないので、布団を被り、じっと午前零時を待つことにした。
「あと十分だよ」
布団の上から襲いかかってくるつもりかもしれない。がばっと飛び起き、相手に包丁を向ける。自分を殺すつもりなら、刺し違えてやるぞと覚悟を決めた。
「悪いが、意味のないことだ。君は心臓発作を起こして死ぬ」
「お、おれは病気なんかしてないぞ」
「これは決まってることなんだ。誰のせいでもない」
「うるさい!」
Lさんはたまらなくなり、死神に向けて包丁を振るった。思い切り相手の腹に突き刺したつもりが、刃の先はそ相手をすり抜け、Lさんは部屋の壁に体を打ち付けてしまった。
「あと七分だ」
「ちくしょう」
Lさんは再び布団をかぶった。すべてが夢であればいい。いや、このまま眠りに就こう。何事もなかったかのように、朝を迎えればいい。
「安心しろ、おまえの魂は霊界に連れて行ってやる。それも私の役目だ」
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!
「あと三分だ。いいのか? 最後の瞬間を、そうやって布団を被りながら過ごすよりも、せっかくなら………ん? 何だ。何だ何だ!」
布団の外で死神の様子が急変するのが、わかった。
「離せ! 離せ! おまえらどうして! くそっ! おまえらなんかに!」
布団から頭を出し、恐る恐る相手のほうを見やった。Lさんは目を丸くした。
数名の何者かが、死神を取り押さえていた。
何者かは皆、白い服に身を包み、背中に白い翼を生やしている。
「大丈夫ですか、お怪我はありませんか」
一人がLさんに気づき、声を掛ける。坊主頭の若い男性だった。状況が掴めずにいるLさんに、男性は話した。
「こいつは悪霊です。死神の名を騙って偽りの宣告を行い、恐怖に震える人を見て楽しむ霊界犯罪者です」
部屋には四人の男性がいた。
悪霊を取り押さえた三人が、何か呪文を唱えた。
悪霊は瞬く間に霧消してしまった。
「安心してください、奴はもう現れません」
時計は午前零時を回っていた。
「助かりました。なんてひどい嘘だ。ぼくは死なずに済んだんですね」
安堵するLさんに、男性は言うのだった。
「ええ、あと十分は平気です」
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