第35話 迷宮からは出られない
「うわ、見て、すっごい複雑なんだけど」
「そうでもねえだろ、確かに広いけど」
わたしは大学の友達といっしょに、関東某県にある廃ホテルを訪れていた。山間部に建てられたそのホテルは山登りや紅葉観光、ウィンタースポーツが満喫できるという触れ込みでバブル期にオープンし、一時期は人気を集めたらしい。
けれど、今はもう賑わしい頃の面影はない。資金繰りの悪化で閉鎖してから十五年以上が経っていて、ここを訪れるのは肝試しを目的にした若者くらいだ。
たとえば、わたしたちみたいな。
「問題の部屋ってのは五階だっけ?」
「七階だよ。七階の一番端っこ」
「まずはあちこち見て回ろうぜ」
女子はわたしと、ユカとリイコ。男子はアッくんとタカシ。みんな同じ学部の同級生。先週の飲み会でこのホテルの話になり、行ってみようという話にまとまるまで、ものの数分だった。
この日、車の運転を任されたのはわたしだ。免許を取り立てで運転に慣れていないと話したら、肝試しへの道中で練習すればいいとタカシが言い出し、この場所につながる。
「ほんとは貸したくねえんだけどな、傷つけんじゃねえぞ」
口をとがらせながら、兄はわたしに快くワンボックスカーを貸してくれた。
たどり着いたのは、十階建ての巨大な廃ホテル。夜の闇の中では、建物の全体像を確かめることができないほど大きかった。
「てゆーか今思ったけど、うちらって不法侵入?」
「一応、権利者はいるみたいだけどな」
「許可取ってないよね」
「いいだろ別に。ほら、落書きとかされまくりだぜ」
心配するユカをよそに、タカシの懐中電灯が階段の壁を照らす。卑猥な落書きや意味不明のマークがスプレーでたくさん描かれている。わっ、とリイコが声を上げた。
壁に描かれていたのはただのスマイルマークだった。おまえの悲鳴のほうが怖いよ、とアッくんが笑う。でも、人の顔らしきものを見て怖くなるのはわかる。
「もうちょっと強めのライト持ってくればよかったね」
わたしは正直な実感を口にした。わたしたちが持ってきたのはどれも、ドン・キホーテで一番安く売っているような普通の懐中電灯だった。いざ建物の中に入ってしまうと、明かりを向けた範囲でしか、ものが見えない。懐中電灯とスマホの両方を駆使して、なんとか明かりを確保した。五人で十個も明かりがあれば、それなりに視界は開けるものだ。
「うわあ、これやべえなあ」アッくんが苦笑気味に言う。
客室のドアが並ぶ長い廊下が、わたしたちの前に伸びていた。懐中電灯の光が奥まで届かない。奥に幽霊がいますよと言われたら、そうなのでしょうねと納得してしまうような、終わりの見えない闇。どこまで続くのかもわからない廊下は、時折ドアが開いていたり、なぜかドアが外されていたりした。
「ねえ、今」
ユカが声を潜める。「上のほうで、音がしなかった?」
聞こえなかった、とアッくんが素朴な返事をする。わたしも聞こえなかった。気のせいでしょとリイコが言い、誰かいたらどうするとタカシが煽る。
「ねえ、本当に七階行くの?」
ユカが不安げな声を漏らす。
七階の七一七号室。
そこには殺された女性の幽霊がいて、姿を見た者は二度とこのホテルから出られないという。
「確かその殺人のせいで、潰れたんだよなここ。評判悪くなって」
「ネットの噂だけどね。顔をハンマーでぐちゃぐちゃにされたって」
「女の呪いで潰れたんじゃねえの?」
男子二人が平気でそんな話をするのが、信じられなかった。帰りたい、とユカが言い出して、まだ二階だぞとアッくんが笑う。暗すぎて探検とか無理だよとリイコが言い、だったらさっさと七階行くかとタカシが前方を照らす。上へ続く階段が見えた。
「何だよ、タカシもびびってきた?」
「は? 全然。強がりとかじゃなくて、普通に余裕」
虚勢なのか何なのか、強気をアピールする男子二人と、口数が少ないユカとリイコ。
「ねえ、歌でも歌わない?」
わたしは言った。「みんなで歌ってれば怖くないでしょ」
それは名案とアッくんが、アンパンマンの歌を歌い出した。そうだ、恐れないでみんなのために、愛と勇気だけが友達さ。軽快なメロディと明るい歌詞は、嘘みたいに不安をかき消してくれた。幼稚園児みたい、とユカが笑ってくれたのが嬉しかった。
わたしだって、怖くないわけじゃない。
でも、恐怖と同じくらいに、好奇心がある。問題の部屋に何があるのか、単純に知りたかった。考えてみたら変な話なのだ。ホテルから出られなくなるというのが本当なら、その話はいったい誰が広めたのだ?
「よっしゃ、七階到着だ」
アッくんのライトが、壁に掛けられた「7」の文字盤を照らす。
「七○一から七二○は……右側の通路だな」
わたしはユカとリイコと肩をくっつけながら、歩を進める。廊下の両側にある部屋番号を確かめる。七○一、七○二、七○三……問題の七一七が近づくにつれ、鼓動が早くなっていく。
「あたし……行きたくない」
ユカが突然、その場にしゃがみこんでしまった。「みんなで行ってきて」
説得しても、頑として動かない。一人で置いていくのも可哀想だと、わたしとリイコがそばに残り、男子二人だけで先を見てくることになった。
「やばいよ、あの二人、もうここから出られなくなる」
「大丈夫だって。警察呼んだらなんとかなる」
リイコの言葉に、わたしはつい笑ってしまった。なんとも単純な解決策だなあと、虚を突かれた思いがした。
「あれ? ねえぞ」
「おかしいな」
闇の奥で、明かりが踊るのが見えた。懐中電灯とスマホの光が気ぜわしく動いていた。
「おかしいんだよ、七一七がない」
「こっちが七一五だろ、それでこっちが七一六……なんで? ここ、七一八になってる」
二人の声が届く。そんなおかしな話があるだろうか。
「ねえ、もしかして……」
リイコが言った。「七一七って、そういう意味?」
そういう意味、の意味するところは、もちろんわかっていた。ネットでも噂を茶化すための定番文句になっていた。
七一七。
語呂合わせをすれば、「ないな」…………。
つまらない。そんなわけがない。
けれど、手元のスマホで画像を検索してみても、見つからないのだ。ホテルの内部写真はたくさん出てくるくせに、七一七号室の写真だけはなぜか誰もアップしていない。
「二人はここにいて」
わたしは、自分の目で確かめたかった。「わたしもあっち行ってくる」
「行かないで、ここにいて!」
「だいじょぶだって、リイコ、お願いね」
「いや! もう帰ろうよ! やだやだ! やだ!」
ユカの怯えがにわかにひどくなった。過呼吸なんかになったらたいへんだ、と離れるのを躊躇していたら、奥から男子二人の悲鳴が聞こえた。
何があったの、と奥に懐中電灯を向けた瞬間、全身がすくんだ。
真っ白な人影があった。
わたしたちと男子二人のちょうど中間辺りに、人影があった。
「いやぁぁぁぁぁぁ!」
ユカが叫んだ。振り向くと、彼女が駆け出すのがわかった。
「ちょっと!」
リイコが彼女を後を追う。「ユカ待ってよ! 一人じゃ危ないって!」
わたしは足が震えて動けなかった。
奥を見ると、白い人影が、ゆらりと動くのがわかった。
顔が見えた。短い髪の女性だった。
女性は、一歩、一歩、わたしのほうへと近づいてきた。
ちょっと、ちょっと待ってよ……。
「なんでこっちに来るの!」
気づいたときには、走り出していた。ユカとリイコのあとを必死で追いかける。
「ユカ! リイコ!」
最悪。なんでわたしを置いていくんだ。「待ってよ! 待ってってば!」
二段飛ばしで階段を駆け下りる。振り向く余裕はない。
最悪。男子二人とも別れてしまった。
彼らはどうなるだろう。人のことを心配してる場合じゃない。
まともに考えることもできないまま、ひたすら階段を降りた。ユカとリイコの姿を探し、二人の名前を連呼した。
階段が、途切れた。一階にたどり着いていた。仕方ない。とりあえず外に出よう。外に出て冷静になってから、どうするか考えよう。
来たときの記憶をたどって、闇の中を進む。
そこで、はたと気づいた。スマホで連絡すればいいのだ。
その直後に気づいた。スマホを、どこかに落としていた。
懐中電灯の助けにするため、手に持っていたのがまずかった。逃げてくる途中で落としたのだ。かといって、到底戻る気にはなれない。
階段からラウンジに出て、受付ロビーのほうへ向かう。
なぜだろう。なぜユカもリイコもいないのだろう。まさかドッキリだろうか。自分を驚かせるために仕組まれたことなのだろうか。いや、ユカの怖がり方は演技には見えなかった。リイコにしても、わたしを怖がらせて笑うような子じゃない。
フロア案内板が見えた。エントランスはすぐそこだ。
ああ、よかった。なんとかなる。
そう思って出口に光を向けた直後、目の前のものが一瞬、認識できなくなった。
エントランスのドアが、なかった。
近づいてみても、まるでコンクリートに塗り込められたように、灰色の壁があるだけだった。外、というものの存在を否定するような壁だった。周囲を照らしてみるけれど、ガラス戸があったはずの場所が、すべて同様の壁に変わっていた。
「そんな、嘘でしょ」
思わず呟いても、返事をしてくれる相手はいない。リイコとユカは、いない。
「嘘! 嘘! 嘘だよね! ドッキリだよね! もういいから! わかったから!」
懐中電灯を四方八方に向けてみる。
どうしよう。動けない。動く必要はない。いずれ朝が来る。光が差してくるはずだ。それまで待てるだろうか。正気でいられるだろうか。これは夢? そうあってほしい。けれど残念ながら夢ではない。
じっと目を閉じる。落ち着いて呼吸を整える。
………。…・…。…………………。駄目だ。闇に飲み込まれそうだ。
わたしは四人を捜すことにした。ユカ! リイコ! アッくん! タカシ! 自分の声が反響して闇に溶け、静寂が深くなる。
そうだ。アンパンマンの歌だ。聞こえていれば、向こうからわたしを呼ぶだろう。
半ばやけくそな気分だった。ドッキリのネタばらしがあったあとで、笑いものにされてもかまわない。ドッキリであってほしい。でも、わたし一人を怖がらせるために、ここまでつくりこむはずもない。外を見通せるガラス戸や窓を探す。建物の縁をなぞるようにして歩く。けれど、どこにも出口はなかった。外とつながる場所はなかった。
二階を進んだ。三階を進んだ。
七一七で女性の霊を見たら、二度と出られない。
嘘だ。嘘に決まってる。だいたい、わたしは七一七に入っていない。おかしいじゃないか。理不尽だ。七階に行こう。タカシとアッくんを見つけて思い切りビンタしてやる。
七階に到着し、二人がいた場所まで来た。
七一七の番号を探す。ない。二人の言ったとおり、存在しない部屋なのだ。
「うぅ……うぅ……うううう……」
誰かの呻き声。泣き声。違う。わたしのものだ。わたしはいよいよ耐えきれなくなった。この呪わしい迷宮の中で、心が壊れそうだった。
「どこにいるんだよ! ふざけんなよ! みんなどこにいったのバカ! おい幽霊! 言いたいことあるなら出てこいっつうんだよ!」
泣き叫び、懐中電灯を振り回しながらわたしは歩いた。
状況はさらにひどくなっていた。一階に戻ったはずが、八階に。八階から一階まで降りたはずが、五階に。五階の階段を上に向かったら、三階に。
迷宮だ。この場所にはもう、いられない。存在するべきじゃない。
怖い。怖くてたまらない。助けて。誰か助けて。
幽霊さん、ごめんなさい。
「ごめんなさい……あなたの居場所に、土足で入り込んで、ごめんなさい、もう許して、お願い、ここから出して……お願いします…うぅ……うぅ、うっ!」
恐怖で体がおかしくなったのだろう。わたしはその場で、吐いた。胃の中にたまっていた未消化の食べ物が、どろどろと床に広がった。すっぱいにおいが立ちこめた。
駄目だ。冷静になれない。このままでは、本当におかしくなる。
本当に、死んでしまう。ここから、一生、出られなくなる。
イヤだ。嫌だ。嫌だ。厭だ。厭だ。厭だ。厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ
だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ。
厭だ。
わたしは、決めた。
よし、いったん帰ろう。
これ以上、この迷宮にいては狂ってしまう。わたしは家に帰ることにした。
四人には悪いけれど、家に帰って冷静さを取り戻してから、もう一度来てみることにしよう。たまたま一階に、一カ所だけ外に通じるドアがあったので、外に出て駐車場に向かった。車に乗り込んだ。大丈夫。車に傷を付けてはいない。お兄ちゃんに怒られるようなことはないはずだ。エンジンキーを回して車道に出る。待って。これが夢だったら困る。うん、夢じゃない。妄想? 違う。大丈夫。現実だ。
まだ夜は明けていなかった。家族を起こさないようにこっそりと中に入る。とりあえず布団に入り、ぐっすりと眠った。
朝起きてから、シャワーを浴びて、ご飯を食べて、身支度を調える。
「お兄ちゃん、ごめん、もっかい車借りる」
「なんでだよ」
「ホテルに友達置いてきちゃったから」
「アホか」
再び車を走らせる。
スマホを落としてしまったので、四人に連絡できないのが辛い。
ホテルに到着して中に入る。一度中に入ると、外への出口が全部閉じられた。
よし、やり直しだ。ふうと息をついて、頭を抱える。
…………ああもう最悪! いったいどうすればいいの!
やばい! 怖い! 死んじゃう! 迷宮から出られない!
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