第28話 口裂け女の恐怖

 昭和五十三年頃のことでしょうか。

「口裂け女」の噂が全国的に大流行しましたよね。今で言う都市伝説のようなもので、当時小学生だったあたしもご多分に漏れず、ひどく恐々としておりました。発生源の知れない噂は次々と尾ひれをつけ、留めようもなく広がったものです。

 いわく、口裂け女に路上で遭遇した場合、相手は必ず大きなマスクをつけている。

 そして、「私、キレイ?」と尋ねてくる。

「キレイですよ」と答えたら、「これでもォ?」と言いながらマスクを外し、裂けた口をあらわに襲いかかってくる。「キレイじゃない」と答えた場合、これまたマスクを取って、「おまえも同じ口にしてやる!」と襲いかかってくる。

 地域によって違いはあろうけれど、私が聞いたのはおおむねそのような話でした。

 撃退法についても、いろいろな噂があったようですね。

 あたしが知ったのは、おまじないを唱える方法です。当時、漫画雑誌か何かに書いてあったと思うのですが、「ポマードポマード」と唱えれば、口裂け女は慌てふためいて逃げ出すというのです。

 ですが当時、意地悪な同級生の男の子がいて、この方法を否定しました。「そんなやりかたじゃまったく通用しない」と言うのです。ポマードの実物を見せなくては駄目だと彼は言い、皆にポマードを見せました。あたしはそのとき初めて、ポマードが男性用整髪料のことであると知りました。

「これを見せながらポマードって三回唱えないと、八つ裂きにされるんだぞ」

 あたしや友人たちは震え上がりました。あとでわかったのですが、彼の家は薬局を経営していて、この噂の広まりによって大もうけしたそうです。彼はおうちの人から、何かビジネスライクなことを吹き込まれたのかもしれません。あこぎな話ですが、その頃のあたしはそんなことを知りません。ポマードがほしいとお母さんに泣いて頼み込み、ひどく叱られました。我が家は父も祖父も毛髪が薄く、整髪料が一切不要なのでした。おこづかいを出して買うにも、小学生には高すぎます。

 できるのはただ、口裂け女に会わないよう願いながら日々を送ることだけでした。



 しかしある日の下校時、実際に出会ってしまったのです。



「ねえ、お嬢ちゃん」

 背後から、大人の女性の声。か細く、かすれたような声が聞こえました。

 恐る恐る振り返ると、長髪に白いマスクの女が立っていました。

 丈の長い黒服に身を包み、感情を欠いた目で私を見つめていました。


「ワタシ、キレイ?」


 口裂け女は尋ねてきました。周りに助けを求めても人影はありません。あたしは怖くて仕方がありませんでした。仕方がないので、「キレイです」と答えました。


「これでもぉ?」


 口裂け女のマスクが外れました。あたしははっきりと目にしました。噂どおり、大きな口が耳まで裂け、奥歯までむきだしになった恐ろしい容貌だったのです。


「きゃあああ!」


 あたしは恐怖で悲鳴を上げました。










 恐怖と驚きで、思わず眼球が飛び出ました。

 あたしは舌を地面まで伸ばして鼻から大量の血を噴き出し、全身の毛穴という毛穴から緑色の粘液を噴射して、長いしっぽを思うさま振り乱してしまったのです。

 それだけではありません。

 決して呼び出してはならぬと父から言い含められていたのに、幼いあたしは無意識に死神を召喚し、煉獄の炎を放っていました。




 あとのことはよく覚えていません。怖くてしょうがなかったのです。

 気づけば家に帰っていました。それ以来、口裂け女の噂は聞かなくなりました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る