第26話 悪魔の召喚、そして罵声
悪魔、というものを、人は憎む。
けれど、少し考えてみれば、それは妙な話だということに気づくだろう。
あたしたち人間がこうしてここにいるのは、悪魔のおかげなのだから。
『旧約聖書』を紐解いてみればいい。
イヴが蛇の誘惑に駆られて、禁断の果実を口にした。
彼女は神の言いつけに背いたかどで、アダムとともにエデンを放逐された。
そして、その子孫たるあたしたち人間が今、この世界を生きている。
蛇は悪魔の化身だ。
であるとするなら、悪魔なくして、あたしたちは存在しなかった。
禁断の果実とは、善悪の知識の木の実。
神はアダムとイヴを永久に、動物同然の存在に留めたかったのだ。善悪の判断も知識もない、無垢で従順で、無知で蒙昧な獣。神のペット。
そのくびきから彼らを解放したのは、他の誰でもなく、悪魔なのだ。
ジョン・ミルトンの『失楽園』はいみじくも、神の傲慢を描いている。
大天使であったルシファーは、神に対する反乱を起こして、堕天使へと変貌した。
己への忠誠を示さないルシファーを神は憎んだ。でも、ルシファーこそが、誰よりも人間的だったとあたしは思う。神のもとで賛美歌を歌い、何も知らぬ幼子のようにご機嫌を伺う天使より、自らの意思をもって地獄に落とされたルシファーのほうが、どれほど尊い存在だろう!
あたしは学生のころから、悪魔を崇拝してきた。
いつか悪魔に会いたいと、『ソロモンの鍵』や『レメゲドン』、『アブラメリンの書』などのグリモワールを読みふけった。周りからは気持ち悪がられ、三十近いこの年になるまで、恋人もできなかった。けれど、もとはといえば、神のせいだ。
神と悪魔の大きな違い。それは、「契約」にある。
人間や天使を支配することしか考えない神なんて、あたしは信じない。もしも神がいるのなら、なぜ戦争をなくそうとしないのだろう? どうしてこの世から、不幸を取り除こうとしないのだろう?
もしも神がいるなら、どうしてあたしを、こんなブスに生んだのだ?
何もしない神になんて用はない。もちろん、神との契約なんて意味はない。
でも、悪魔は違う。魂の契約があたしの願いを叶えてくれる。
呼びやすい悪魔と、そうでない悪魔がいる。
何も高望みはしない。
ささやかな願いを叶えてくれればいい。
その契約を結べたなら、魂を渡してもいいと思っている。
契約を果たすのは、満月の夜だ。
雲のない満月の夜をあたしは待ちわびた。そして、その夜を迎えた。
電気を消し、部屋の空気の濁りを払い、お香を炊く。魔法円と祭壇を床に置く。
キャンドルを円の縁に配置して、冥王星のエネルギーを部屋に呼び込む。左中指にはめた銀の指輪にオイルを塗り、その波動をシジルに送り込む。バラの花びらを床に撒き、十字架を黒い布でくるんだあと、あぐらをかいて両腕を開く。
呪文を唱える。
さまざまなグリモワールを読んだうえで、自分なりに編み出した方法だ。
目を閉じ、無心で呪文を唱え続けた。
二時間ほどすると、部屋の空気が一瞬、凍えるほどに冷え切った。
「余を呼ぶ声は………誰のものだ……」
恐怖と恍惚。相反する二つの感覚が、あたしを包み込んだ。ゆっくりと目を開くと、キャンドルの揺らめきに照らされた、大きな影があった。牛と羊の混ざり合ったような顔をした、筋骨隆々の巨体。湾曲した二本の大きな角はまさしく、あたしが長年焦がれていた、悪魔の象徴だ。
「余を呼んだのは……貴様か…・…」
直接脳に響くような声だった。
脳を押し潰されてしまいそうなほどの、重々しい声だった。
「どうぞ、お許しください」
あたしは全身の勇気を振り絞って言った。
「わたくしめが、お呼び申し上げました」
「なにゆえに……余を求めたのか……」
「どうかわたくしめと、契約をお結び頂きたく存じます。もしも叶えてもらえるなら、死後、この魂を貴方に捧げます。貴方様を崇拝申し上げております」
「契約とは……何のことだ…・…」
「わたくしめには願いがございます。どうか、人の羨むような美貌を授けてくださいませ。もしも授けてくれたなら、この魂は貴方のものです」
長年のコンプレックスだった。
世の中は不公平だと思った。性格の悪い、頭もよくない同級生や同僚が、簡単に彼氏をつくっていくのをさんざん見てきた。あたしが長年想い続けてきた男性を、見た目がいいというだけで奪っていく女たちを、いやというほど見てきた。
見返してやりたいのだ、世間の美女を。あたしに見向きもしなかった男たちを。
「……美容整形とか……あるけど……」
あれ?
「……そういうのでは、駄目なのか……」
「い、いえ、整形などしょせんつくりごと。それに、老いてしまえば美は失われます。わたくしめの願いは、一生の美貌。それを授けてくれれば、この魂は貴方のもの」
「……老いたら美が失われるというのは……浅はかな考えではなかろうか……年を経るにつれ円熟味を増す美というのもまた、人間存在の奥深さではあるまいか……」
どうも様子がおかしい。
「……それも、ひとつのお考えだと思うんですけど、わたくしめは若々しい美を求めているのです。魂と引き換えにしてでも」
あたしは自分の過去の経験について、蕩々と述べた。なんだか思ってたのと違うなと思ったけど、必死で自分の願いを伝えたのだった。
「……じゃあ、腹割って話すけどさあ…・…」
口調の様子までおかしくなった。
「彼氏のできるできないは、単純に人間性の問題だと思うんだよね余は。おまえは別に見た目がそこまで悪いわけじゃねえしさあ。友達ができなかったって話も結局は悪魔うんぬんとかずっと言ってからみんな気持ち悪がってただけで、可愛くないから友達ができないなんて話はないと思うんですよ余は。それと、つくりごとの美が嫌だとか偉そうに言ってっけど、運動とか肌のお手入れとかそういう方面のメンテをきちんと励行してるようにも見えないし」
床に座り込み、一方的に話し続けた。
「あの、でもですね、言わせてもらいたいんですけど」
「俺が話してるよね今?」
一人称が「余」から「俺」に変わった。もういよいよ様子がおかしい。
「だいたいてめえさっきから魂を捧げるだの何だのさんざん言ってたけどてめえの魂にそこまで価値があると思ってんのかコラ、自己評価高えのか低いのかどっちなんだかわかんねえよバカ」
「ああもうめちゃくちゃです。帰ってください」
「一方的に呼びつけて一方的に帰れってどんだけ自分勝手だ、クソリプ飛ばしてるゴミアカウントかてめえは。だいたい契約ってなんだよ、なんで人間ごときと契約とかしなくちゃいけねーんだよふざけんなよマジで。一方的な搾取と陵辱の対象だよ人間なんざ」
「お願いします! 帰ってください! もう嫌です!」
「おいおいマジで頭いかれてんのかよてめえは。崇拝してるとか言ってたあれは何なんだよ、てめえの理想を勝手に押しつけてこっちがそれとマッチしてなかったという理由で拒絶するとかそういうアティテュードがてめえがずっとひとりぼっちでいる原因なんじゃねえのかよ、あーもーむかつく、てめえの魂なんかいるかボケ!」
「うるさいうるさい! この悪魔め!」
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