第23話 ない!
私の仕事は、世間から一風変わったものとして受け止められている。
全国の島嶼部をめぐり、写真を撮り、その場所での体験を記事にするのだ。
雑誌などでは、「島嶼ライター」の肩書きで紹介されることが多く、ときには自治体のPR記事などを書くこともある。競合する人間が少ないおかげで、この道三十年の物書きとしてどうにかやってきた。
そんな私がまだ駆け出しの頃、とある島を訪れたときのことだ。
後にも先にも、あれほど奇怪な出来事に遭遇したのは、一度きりのことである……。
そこはN県の西部に位置する小さな島だった。
本土から船に乗っておよそ一時間の場所にあり、観光客も少ない。当時の人口は確か、二百人ほどだったと記憶している。めぼしい産業もないところだったが、その島の形に私は興味を引かれた。地図で眺めるその島は、人の形をなしていたのである。
直立する人間のように、胴体の部分から手足が伸びていた。
そして奇妙なことに、頭部に当たる部分は何かに抉られたような形をしていた。
人間でいえば、頭部の右側。耳や目や頬に当たる箇所をごっそりと削られているのである。その形が、島に秘められたとある異変を暗示しているなどとは、当時の私は想像さえもしなかった……。
午前中に島に到着した私は、方々で写真を撮った。
自然の多い島には珍しい昆虫や鳥が数多くいたし、高台から見る海の景色は惚れ惚れするほど美しかった。島の農家さんも快くインタビューに応じてくれたし、ごちそうになった特産物のびわも、本土で食べるのとは比べものにならぬほど瑞々しかったのを覚えている。充実した旅行記が書けそうだと民宿に戻り、うたた寝をしたのが昼下がりのこと。
気づけば四時間ほど眠っていて、目覚めた頃には夕方の六時を迎えていた。
ふと違和感を覚えて、部屋のガラス戸から外を見た。
私は目を疑った。
暮れ落ちる間際の空は毒々しいまでに艶やかな紅色で、およそ見たことのない色をしていた。それだけではない。空の半分が、抉り取られたような暗黒に沈んでいたのである。雲があるわけでも、星が見えるわけでもない。そこに空があることを否定するような、ただの闇が広がっていたのだ。虚無というのは、たとえばあのようなものを指すのではないかと、今にして思い返しても怖気立つほどである。
私は民宿を出て、その異様な空をカメラに収めた。
この地方では珍しいものではないのか、道行く人々は誰も別段気にする風もなかった。
感動と恐怖をないまぜにしたような複雑な気分の私は、空のことについて誰かに尋ねてみたかった。
「すみません。ひとつ伺いたいんですが」
小道を歩く青年に、背後から呼びかけてみた。
振り返った青年の顔を見て、私はぎょっとしてしまった。
口がなかったのである。
マスクをしているわけでもない。口のあるべき場所には唇の形すらもなく、顔の下部がただぺったりとした肌色の皮膚に覆われていた。
「あの空のことについて伺いたいんですが」
私は驚きつつも、話しかけた手前、質問を続けた。
すると青年は、私の指さした方角の空を眺めた。
何も言おうとしなかった。空から私へと目線を戻し、突如かっと目を見開いた。
そして直後、いきなり私に掴みかかってきたのである!
「何をするんだ!」
私は恐ろしくなり、振り払ってその場から逃げ出した。
追いかけてくる青年から隠れようと、一軒の商店に入った。食品やら生活用品やらを売っているこぢんまりとした店だった。奥から、一人の老婆が出てきた。
その顔を見て、私は思わず、小さな悲鳴を上げた。
目がなかったのだ。
病気で眼球を失った人と会ったことがあるが、そうした人とはまるで違う。
口のない青年同様、目玉の埋まる余地のないただの皮膚が広がっていた。
気づけば私は商店を後にしていた。
夢中で走った先に、畑のそばで遊ぶ子どもたちがいた。
数人の子どもたちが、地面の上にしゃがみこみ、土に何かを書いて遊んでいるようだった。横を通り過ぎたとき、彼らが首をもたげた。私は息をのんだ。
全員、顔にあるべき部位が一切なかったのである。
目や鼻や口のない、いわゆるのっぺらぼうの顔が私のほうを向いた。
なんとしたことか、私は気が変になったのか。
もはや太陽の姿は見えず、民宿への帰り道もわからなくなっていた。
なんとか戻らねば、しかしあの青年に出会ったら……。
哀れな異邦人のように、私は島の中を歩き回った。
自転車に乗ってすれ違う男性には、頭部がなかった。
胴体のない男性が、とぼとぼと歩いているのを見た。胴体がないという表現は、想像しづらいことだろう。胸の辺りから下腹部にいたるまでが存在せず、上半身と下半身が分離したような形で歩いているのである。
怯えきった私を見て、一人の女性が笑っていた。
その女性には、左半身がなかった。
右の口角を持ち上げ、私を嘲うような笑みを浮かべていた。
おかしい。こんな場所があるはずがない。
私は異界に迷い込んでしまったのだ……。
夢ならば醒めてくれと願い、私は道ばたにしゃがみこんだ。膝に顔を埋め、すねた子どものように情けない格好をしていた。
「何だね、具合でも悪いのかい」男性の声がした。
ふと顔を上げると、二人の老人がいた。老夫婦のようであった。
見たところ、先ほどまでのような異形の姿はしていない。
すがるような気持ちで事情を話すと、老人は首をかしげた。
そして、直後に恐ろしいものを目にした。
被っていた麦わら帽子を、老人はすっと外して頭を掻いた。
その頭部には、髪が一本もなかったのである……!
「うわぁぁ!」
私はたまらずのけぞった。ほうひはの、と老婆が声を出した。
「なにはおほほひいほほへもあっはほ」
私は腰が抜けてしまった。
その老婆の口には、歯が一本もなかったのである……!
私は耐えきれなくなり、またも駆け出した。
どういうことだ。この島に何が起こっているのだ。
私はいかなる悪夢の中に沈み込んだのか。
口のない青年が再び、私の前に現れた。
追いかけてくる青年の後ろには、顔のない子どもや左半身だけの女性もいた。
頭の中で、恐ろしい想像が膨らんだ。
彼らは、私から、体の一部を奪おうとしているのだ。
この島の形がそうであるように、この島は踏み入った者の体を奪ってしまうのだ。
私はあてどなく走り続けた。
そうして見つけたのは、駐在所であった。
いかな異形の島であれ、日本の法秩序から逸脱した場所であるわけがない。
ここはあくまで日本なのだ。警察の力を借りれば、事態は打開できるはずだ。
「助けてください!」
必死の思いで駆け込むと、一人の若い警察官がいた。机の前に座る彼は、ぼうっとした目で私を見た。目はある。鼻もある。耳も口も、当然ながら胴体も。当たり前の事実に、私はひどく慰められる気分だった。
「今、この島の中で、とんでもないものを見て……」
「はあ、そうですか、それは大変だ」
「とにかく来てください。私と一緒に民宿まで」
「民宿ですか、ふうん、そうですかあ」
「聞いてますかおまわりさん! 私は真剣なんだ!」
「真剣なんですか、そうですかあ、ふうん」
警察官は立ち上がるそぶりも見せなかった。
何か書き物でもしているのかと思いきや、机の上には帳面らしきものもない。
煙草に火を付け、やにわに鼻くそをほじりだした。
あろうことか、助けを請う私を前に、ブウッと放屁をかます始末だった。
「一緒に来てください!」
「やだよ、めんどくさいよ」
彼には目もある、鼻も耳も口も、手足も胴体も。しかし。
「……まさか、そんな……この警官には……」
私は恐怖のあまりに、絶叫していた。
「やる気がない!」
私はその場に昏倒した。
どうやって本土に帰ってきたのか、記憶はない。
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