第22話 感動の再会、ではない再会

 十五年連れ添った最愛の妻が、今日、天に召された。

 享年三十六。薬物投与や手術を果たしてもなお、体内のがん細胞は彼女に取り憑いて離れず、愚かしくも宿主を死なせた。当の宿主は今、マンションへと戻り、安らかな表情で眠りについている。妻は決して他人の悪口を言わず、人付き合いもよく、私とは正反対のような人間だった。神様はおそらく、天使か何かと間違えて、彼女を天上に連れてしまったのだろう。


 生前、妻は私にひとつ、願い事をしていた。

「あたしが死んだら、通夜が始まるまでは実家じゃなくて、マンションに体を運んでほしいの。あの家で、二人きりで過ごしたい、あなたにお別れが言いたいの」

 度重なる投薬と病気の進行によって、当時の彼女は意識が半分朦朧としていた。死を予感させる不吉な願いを聞き入れようとは思わなかった。だが、いざとなれば守らねばならぬ遺言として、私は胸に留めていた。彼女の家族に事情を話し、私はマンションの和室に妻の遺体を安置して、夜通し語り合おうと決めた。

「ビール、冷えてるぞ。もう長いこと飲んでないもんなあ」

 布団に眠る妻の枕元に、グラスを置く。とくとくと液体を注いでいく。

 私はそばであぐらをかいて手酌をし、チンと静かに乾杯をした。

 受け取ってくれてもよさそうなものなのに、彼女は身じろぎ一つしなかった。

 泡だけが静かに溶けていた。

 目を閉じ、白い顔で眠る妻。

 大学の頃に出会い、卒業と同時に結婚した。私は小さな商社に就職し、彼女は保育士の仕事に就いた。共働きで、あいにく子供はできなかった。お互いの両親には少し申し訳ない気持ちもあったが、私たちはさして悩みもしなかった。お互いに、人生の確かな伴侶を見つけたのだ。それ以上、何を望む必要がある? 

 幸いにして二人とも仕事は充実していたし、休日や休暇は共働きの強みを活かして、豪勢な旅行に繰り出すこともできた。数々の出来事が思い出される。良い夫婦生活だった。良い妻だった。こんなに人を愛することは、きっともう一生ないのだ。

「俺は、良い夫だったか?」

 私は涙を流していた。ビールのせいだ。畜生、グラス一杯で酔っぱらうなんて。

 曇る目を拭い、身を乗り出して妻の頬を触る。そっと口づけをする。冷たくて硬い。私の体温を吹き込んで、なんとか生き返せないだろうか。

 もう一度、もう一度だけ話せないだろうか? 

 私はいつしか、妻の頭の横に崩れ落ちていた。何だっていい。だらしない夫への不満でも、実は許せなかった短所でも、どんな醜い隠し事でも。何でもいいから聞かせてくれ。もう一度だけ会わせてくれ。

 神様、妻を天使と間違えてはいないか? もう一度、よく確かめてくれ。

「良い、夫だったよ」

 声が聞こえた。私は顔を上げた。目の前に、妻がいた。遺体と同じ白装束を着た妻は、まるで自分の遺体を見守るようにして、布団のそばに正座していた。

「やっちゃん」

 妻が私の名前を呼ぶ。体を縁取るようにかすかな後光が差して見えた。その体は薄く透けていた。私は思わず立ち上がり、彼女に抱きついた。彼女の体を通り抜けてしまい、畳の上に無様に突っ伏した。

「あははっ、やっちゃん、駄目だよ。さわれない」

 妻は和室の中を歩き回り、私に微笑みかける。

「そんな、本当なのか。俺の幻覚じゃないのか」

「お別れする前にね、全部話しておかなくちゃなって。言い残したこととか、やっちゃんに秘密にしてたことかさ」

 幽霊か、幻覚か、幻聴か。そんなことはどうでもよかった。彼女が今、私に話しかけている。そのことがすべてだった。もう一度だけ、会わせてくれ。神様へのその願いが、通じたのだ。

「やっちゃん、あたしね、生きてる間のこと、いろいろ伝えておきたいんだ」

 彼女は腰を下ろし、真剣な表情を浮かべた。私と妻は妻の遺体を挟んで向かい合った。

「どんなことでも受け入れるよ。聞かせてくれ」

「そう」

 ほのかな輝きを全身に湛えたまま、彼女は話し始めた。



「あたしね、この五年間、浮気してたんだ。保育所の所長の人と」

 思いがけない告白だった。浮気? 一度とて疑ったことがない。

「所長さんが、すっごいドMでね。あたし、実はめちゃくちゃSだから、体を縛ったりペニスに針を刺したり、アナルにいろいろぶちこんだりとかして。ま、ノーマルなセックスもちょくちょくあったけど」

「ちょっと! ちょっと待ってくれ」

「どうしたの?」

「なぜそんな打ち明け話を」

「生きてる間のこと、全部話しておきたいって言ったでしょう?」

 妻は平然としている。迂闊に拒否して喧嘩になり、消えられるのも怖い。

「つ、続けてくれ」

「所長さんと浮気を始めたのは五年前だけど、会ったのはもっと前なのね。彼の知り合いに振り込め詐欺グループの人がいて、女性の演じ手が一人ほしいって言ってたから、あたしもそこに参加して、お年寄りの家に電話して、娘のふりして」

「なんでそんなことを」

「一言で言えば好奇心ね。学生の頃には強盗もやったし、社会人になってからは新興宗教団体の立ち上げに参加して、馬鹿な信者から金をふんだくったりしてたわ。あなたと一緒に豪華な旅行に行けたのも、そのときのお金があったからよ」

 私は絶句したまま彼女の独白を聞き続けた。聞かされ続けた。


 その後も延々と、妻の浮気遍歴と特殊性癖、過去の罪の数々について開陳された。私はだんだんと不快になり、ついに堪忍袋の緒が切れた。

「嘘だ! おまえは偽物だ! 悪魔だ! この悪霊め! 妻になりすますなんて!」

「何言ってるの! あたしは本物よ!」

「話が違う! 死者と語り合うってのは、もっと美しいもののはずだ!」

「映画とかドラマの見過ぎよ! 現実は峻厳かつ酷薄なのよ!」

「こんなんじゃ感動できない! 難病とか死者との再会とかは、感動してなんぼだ!」

「商業主義者! 死者や難病患者を感動の道具にするな!」

 私は途中から何かに取り憑かれたように怒りまくっていた。

 その後の通夜や葬儀についてはあまり語りたくない。

 私は一ヶ月後、別の女性に出会った。天使のような女性だ。

 後に結婚し、今は幸せに新たな伴侶との生活を営んでいる。



 もしかしたら、と時々、思う。

 もしかしたら、死んだ彼女は、私が新たな人生を歩み出せるように、あえてあんな突拍子もないことを言ったのではないか。私を縛り付ける存在になりたくないと思ったのではないか。わからない。今となっては、わからない。

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