第17話 女性の異変と、死んだ隣人

フリーターの男性・Tさんは、マッチングアプリをよく利用していた。

ネット上で女性とお喋りしたり、実際に会って食事やカラオケに行ったり、ときにはそのままホテルに行ったりもした。ただ、なかなか交際までこぎつけられないのも悩みだった。次こそは運命の相手に出会いたいと、アプリを使ってせっせと発信していた。


 そんな折り、一人の女性とつながることができた。

 アプリのやりとりでも趣味の話題で盛り上がり、実際に会うまでに手数はかからなかった。いざ会ってみれば、Tさんの好みにぴったりの女性だった。ウェーブのかかったショートヘアが爽やかで、服のセンスも押しつけがましくなく、それでいて野暮ったくもない。二十六歳という年齢は、Tさんと同じだった。カフェで話し、ボーリングに行き、夜は少し奮発して、高めのレストランでのディナーとしゃれこんだ。蓄えに余裕のあるわけではなかったが、今夜限りで終わったとしても惜しくないと思える時間だった。

「会えてよかった」

 アプリで出会った相手にそんなことを言ってもらったのは初めてで、Tさんもまた、彼女に同じ言葉を返した。

「ねえ、Tさんにお願いがあるの」

「どんなお願い?」

「わたしの家に来てくれたら、教える」

 思いがけない申し出に、Tさんは目を丸くした。あわよくばホテルにでも、などと考えていた矢先、彼女のほうから積極的な誘いがあったのだ。とはいえ、Tさんも立派な大人である。欲望に逸るサルではない。何かよからぬ企みに巻き込まれるのはごめんだ。

「家に行ったら怖いお兄さんがいた、なんてことはないよね?」

冗談半分に言うと、彼女は笑いながら首を横に振った。邪気のない笑顔だった。

「しないよ、一人暮らしだもん」

「言っとくけど俺、金持ってないよ。今日のレストランも、実はちょっと無理してて」

「そんなんじゃないって」

追及しても、来たら教えるの一点張りだった。


地下鉄で彼女の家の最寄り駅に向かい、そこから十分ほど歩いたところに、一軒のマンションがあった。八階建てマンションの四階に、彼女の自宅はあった。保険会社の経理をしているという彼女の暮らしぶりは、見たところ華美でも質素でもなく、調度品や小物類も彼女の印象とマッチしていた。八畳の1Kは、等身大の彼女を適切に表現しているという風だった。

 もしかしたら、彼女こそ運命の相手かもしれない。

 Tさんは胸をときめかせた。

 ……そんな時間はしかし、長くは続かなかった。

 相談がある、と彼女は静かに切り出した。

 何気なく続きを促した直後、Tさんは耳を疑った。


「わたしを殺してほしいの」


 彼女は確かに、そう口にした。

 Tさんは返事を見つけあぐねた。ようやく声にできた言葉は、平凡な問いだ。

「それは、どうして?」

「話せば長くなるの。話してもしょうがないことだから、事情は気にしないで。簡単にまとめれば、生きるのが嫌になったってだけ」

 この上なく厄介なお願いのわりに、彼女の口調はさっぱりとしていた。

「勝手に死ねって思うかもしれないけど、勇気が出ないの。ここの屋上から飛び降りようとか、自分の心臓を刺そうとか考えたけど、できなくて、誰かに殺してほしいって思った。でも、変質者に殺されるのはイヤだった。だから、Tさんに会えてよかった」

「ちょっと待ってよ」

 たまらずTさんは口を挟んだ。「そんなこと、いきなり言われたって」

座り込んで説得を試みるも、相手は耳に入っていない様子だ。平板な相づちを打つばかりだった。


「殺してよ!」


 彼女はばっと立ち上がり、唐突に叫んだ。

 何かに取り憑かれたかのように目を見開いた。

「ぐだぐだ言わずに殺せばいいのよ! そのために会ったんだからさっさと殺しなさいよ! 殺さないなら、乱暴されたって警察に言うからね!」

 豹変した彼女に圧倒され、Tさんは立ち上がることさえできなかった。

「わたしは死にたいのよ! 女一人殺すくらい何びびってんのよ!」

「落ち着いてよ、頼むから」

 Tさんに許されているのは、なんとか相手をなだめることだけだ。「夜も遅いんだから。隣の部屋にも迷惑になるし」

 時計を見ると、深夜二時近くになっていた。女性は時計を見遣りもせずに言った。

「隣は両方とも空室なのよ、ふふふっ、何年も前にね、隣の部屋でおじさんが自殺して事故物件になっちゃって、そこから誰も住んでないの」

「いいから落ち着いてって! ほんとにどうしちゃったんだよ」

 Tさんはそこで、ふと奇妙な考えに思い至った。


 何かに取り憑かれているんじゃなかろうか。


 カフェで話したとき、彼女は言っていたのだ。休日には廃墟めぐりをするのが趣味なのだと。もしかしたらそこで霊的なものに取り憑かれ、精神をおかしくしてしまったかもしれない。だとしても、どうすればいい。除霊の知識なんてTさんは持っていない。動揺しきりのTさんを差し置いて、彼女はキッチンに立った。流し台の下から包丁を取り出し、柄の部分をTさんに向けた。

「殺しなさいよ! さあ、ぐさっとやれば終わりなんだから!」

「できないよ!」たまらずTさんも叫んだ。「自分で死んでくれよ!」

「結局そうなんだね! あんたもわたしのことなんかどうでもいいんだ!」

「めちゃくちゃなこと言ってるのがわかんないのか!」

「だったら殺してやる!」

 包丁の切っ先が、Tさんに向いた。「あんたを殺してから自殺してやる!」

「ふざけんな!」

 命の危険にさらされ、冷静ではいられなくなった。Tさんは目に付いたものを手当たり次第に投げつけ、相手の接近を防いだ。女性は包丁を振り回し、意味不明なことを叫び続けた。

 間違いない。悪霊か何かに取り憑かれている。

「殺してやる!」

女性が包丁を振りかざして迫ってきたとき、インターフォンが鳴った。

ドンドンドン、と乱暴にドアを叩く音がした。

クッションで身を守りながら、Tさんは夢中で叫んだ。

「け! 警察が来たんだ! 考え直せ! それを今すぐ捨てろ!」

「……だったら警察も殺してやるよ!」

出会ったときの彼女はそこにいなかった。髪を振り乱し、悪鬼と化した女がそこにいた。女は包丁を手にしたまま、ゆっくりと玄関に向かった。Tさんは祈るような思いで、その後ろ姿を見つめていた。

 彼女は鍵を回し、ドアを開けた。


 その瞬間だった。野太い声が、外から聞こえた。


「てめえか女! さっきからぎゃあぎゃあうるせえんだよ! 死ね!」

「ぎゃっ!」


信じられないことが起きた。女の体が弾き飛ばされた。目の前に飛んできた女の体は、それきり動かなくなった。無理もない。左胸が真っ赤に染まっていたのだ。

 銃か。いや、何の音もなかった。

 極度の緊張を超え、不思議と冷静になったTさんは、ドアの向こうにいる相手をまじまじと見据えた。これほどの力を持っているのは、人間ではない。

「あ、あなたはいったい……」

 相手は男に見えた。中年の男のようだった。

 男は一言だけ叫んで、ドアをバタリと閉めた。









「隣の部屋に住んでる幽霊だ!」



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