第10話 首吊り山での出来事
私は一年前まで、タクシーの運転手をしていました。
今は違うのかって? ええ、訳あって辞めました。
とある恐ろしい体験をして、辞めることになったんです。正確に言うと、クビになってしまったんですが、あのまま続けるよりいっそマシだったかもしれないと、最近は思うようになりました。そのときのお話をさせてもらいます。
あれは確か八月頃、ひどく蒸し暑い夜のことでした。
流し営業をしていたとき、手を挙げる一人の女性の姿が目にとまりました。
丈の長い真っ赤なワンピースを着ていました。
車を近づけてみてぎょっとしましたよ。長い髪はばさばさで、顔がまるで見えないんです。後部座席に乗り込む彼女の腕は、血が通っていないように思えるくらい真っ白でした。私は奇妙な感覚にとらわれました。路肩で手を挙げているのを見たときは、その姿を別段不思議には思わなかったはずなのです。正直な話、私は小さな人間でして、客を選ぶようなところもありました。人相の悪い相手や、たちの悪そうな酔っ払い、あるいは何かいわくのありそうな方の場合には、気づかないふりをして通り過ぎたことも何度もあります。
けれどその夜は、吸い寄せられるように近づいてしまったのです。ことによると、彼女は手を挙げてすらいなかったかもしれません。わずか数秒前の記憶さえも、はっきりとしませんでした。
「お客さん、どちらまで?」
私は努めて平静に、行き先を尋ねました。
「………首吊り山に、向かってください」
行き先はもとより、耳に粘り着くようなその声色に、肌が粟立ちました。
「首吊り山って、ははは、そんな山は知りませんよ」
本当は、知っていました。
その地方では有名な、自殺の名所でした。
もちろん、正式な名称ではありません。けれどある意味ではこの上なく似つかわしい呼び名でした。山には鬱蒼とした森が広がっていて、その中から過去に何体も、首吊り死体が発見されているのです。お世辞にも愉快な場所とは言えません。ましてこんな夜更けに、女性が一人で行くべき場所ではないのです。
「………首吊り山に、向かってください」
私の嘘など見透かしている、と言わんばかりに、彼女は繰り返すのでした。依然として、顔は見えません。バックミラーに映る彼女は微動だにせず、じっと出発を待っていました。シートベルトをしてもらえませんかとお願いしても、手を膝の上から動かそうともしないのでした。
「お客さん」
私の頭にあったのは、二つの可能性です。
彼女は自殺を考えていて、山に向かおうとしている。
だとするなら、説得してやめさせるべきだと思いました。
もうひとつの可能性は……まともに考えたくもありませんでした。
「もう十二時を回ってますよ、こんな時間に女性一人で行くのは危険です」
「………首吊り山に、向かってください」
「たいへん失礼ですが、その……自ら命を絶とうなんてお考えならば、どうか」
「………首吊り山に、向かってください」
行きずりのタクシー運転手が、お客さんのことをいちいち考えるべきではないかもしれません。言われたとおりの目的地へ、粛々と運べばいいのかもしれません。
でも、私は運転手である前に一人の人間です。お客さんの選り好みをするような小さな人間ですが、一度乗せた以上は、お客さんの身の安全を守らねばならないと思いました。
「お客さん!」
私は決意して振り向きました。
自殺しようと考えてるなら、連れて行けませんよ!
そう言おうとした口が、動かなくなりました。
ぼさぼさの髪の毛の隙間から、ぎょろりとした片目が覗きました。
全身を凍り付けにするような冷たい目に射貫かれた、その直後です。
タクシーが急に動き出しました。
「うわっ! 何だ! どういうことだ!」
慌てて前に向き直り、ブレーキを踏みますが言うことを聞きません。力いっぱい踏み込んでも、地団駄のように踏みつけてみても、車は止まろうとしません。
むしろぐんぐんとスピードを上げていきます。
かろうじてハンドルの自由は利いたものの、慰めにはなりません。先行車両に追突しないよう必死で左右に車体を裁きました。赤信号で前の車が詰まり、万事休すと思った瞬間、車は脇の歩道に乗り上げ、交差点に突っ込みました。
そのとき、気づいたのです。
このハンドルは、私が動かしているのではない。勝手に動いているのだと。
横から突っ込んでくる交差車両をかわし、赤信号を突っ切ったあとから、ほとんど記憶がありません。
気づけば私の乗るタクシーは、首吊り山の中にたどり着いていました。
林立する木々に遮られ、それ以上進めないというところまで来て、ようやく車は止まりました。
「到着……いたしました」
習い性の決まり文句が、口から漏れ出ます。
反応がないのを不審に思って振り返ると、そこに女性の姿はありませんでした。
私はタクシーを降りて、車の周囲を探しました。
女性はどこにもいませんでした。
最悪だ、と思った直後、恐ろしいことが起きました。
周囲が真っ暗になりました。林を照らすヘッドライトが消え、ランプの明かりもなくなりました。
それだけではありません。
タクシーがまるごと、消えてしまったのです……。
そこからどうやって営業所までたどり着いたのか、覚えていません。我が身に起こったことを上司に伝えても、車体をどこにやったのだアホ、とまるで取り合ってくれませんでした。危険運転の証拠を街の防犯カメラで押さえられており、私は免許剥奪になってしまいました。勝手に動いたのだと警察に訴えても、やはり信じてもらえませんでした。
私は皆さんに、事の真相をお話ししなくてはなりません。
もうお気づきでしょう。
そうです……。
……私の乗っていたタクシーは、幽霊だったのです……!
私自身、いまだに半信半疑ですよ。
ずっと気づかずに、タクシーの幽霊に乗っていたなんて。
でも、本当のことなんです。
…… え? 乗ってきた女性ですか?
さあ、知りませんよ。どうでもいいですよ。
最悪だと思いましたよ。
彼女を乗せたときに考えた可能性の、悪い方を引いちゃいました。
要するに、乗り逃げですよね。
いつの間にか消えちゃって、料金をもらえなかったんですから。
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