第9話 悲劇の人面瘡
地方都市に暮らす独身男性・Bさんはある日、自分の体の異変に気づいた。
左の手首に、あざができていた。
どこかにぶつけた覚えもなく、痛みもない。何かの病気だろうかと怪訝に思いつつも、医者に掛かるまでもないと放っておいた。
確かにそれは、医者がどうこうできる代物ではなかった。
「ケケケケケ」
耳障りな笑い声が聞こえた。周囲を見回すも、誰もいない。ここだよ、と声がする先は、自分の手首だった。あざは―あざであったはずのものは―ぎょろりとした二つの目を光らせ、突起した鼻を持っていた。喋るたびに動くのは、紛れもなく口だった。手首に裂け目ができたかのように、ぱくぱくと口が開閉していた。
人面瘡だ、とBさんにはわかった。
人面瘡は不気味な声を発した。
「俺はおまえの体に取り憑いた。時間を掛けて、おまえと入れ替わってやる」
「何だと!」
Bさんは右手の拳を握りしめ、左手首にぶつけた。何度やってもいっかな効き目はなく、ケケケケケと下劣な笑いを返してくるだけだった。ぐりぐりと机にこすりつけてみたり、火であぶったりしても、まるで処置無しだ。
「無駄だ。俺に痛みはない。これはおまえの体だからな。だが、どうだ? おまえも痛みを感じないだろう? なぜかわかるか? この手首はもうおまえのものでもないのだ」
誰かに相談してみようと、知り合いに手首を見せるのだが、そのときは決まって顔が消えていた。他の誰にも知られぬよう密やかに、人面瘡は体を蝕もうとしていた。
うまく体が動かない。
そんな日が増えていった。手も、足も、自分の思うように動かせず、無理にと力を入れれば痛みが増す。大きな病気もなくやってきたが、今では歩くだけでも精一杯で、走ることはほぼ不可能だ。
記憶さえも曖昧になってきた。
自分が会ったはずの相手を思い出せない。自分の身に起きたことを覚えていない。医者に行って検査もしてもらうが、残念ながら留める方法はなさそうだった。
そうして、一ヶ月が経った。
「もうすぐだ、もうすぐおまえの体は完全に俺のものだ、ケケケケケ」
人面瘡は愉快そうに笑った。それを眺めながら、Bさんは言った。
「今まで黙っていたが、打ち明けておこう。俺もかつてはおまえと同じだったんだ」
「ケケ、何を言ってる?」
「俺もおまえと同じ人面瘡だった。この体を乗っ取った」
「そ、そうだったのか、ケケ、だからどうした、次は俺の番だ。自分の体でないなら、惜しくもないだろう」
「ああ、あまり惜しくない」
「ケケケ、強がりを言うくらいしか、残された道はないもんなあ」
「同じ人面瘡だった身として、忠告しておく。この体はやめておけ」
「ケケケ、どういうわけだ?」
「この体はもう一一〇歳だ。おまけに、アルツハイマーも始まってるぞ」
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