第8話 ストーカー殺人
「…………我々の調べましたところ、Mはどうやら市外へと移住した模様です」
「そうですか……」
「ですが、くれぐれも気をつけてください。近頃では失踪事件も頻発してますので」
「わかりました……」
警察からの電話を切り、あたしはため息をついた。安心感は覚えた。けれど、その安心を不安でコーティングされているような、いわくいいがたい複雑な気分だった。
「どういう状況だって?」
テーブルから身を乗り出して、同僚のN子が尋ねてくる。あたしは警察の報告をそのまま伝えた。N子はあたしを励ますように、ことさら明るい表情を見せた。
「よかったじゃん! もうこの辺にはいないってことでしょ!」
「だといいんだけどね……」
この半年間のことが、否応なく頭を巡る。
まさか自分が、ストーカー被害に遭うなんて考えてもみなかった。テレビの向こうの不幸としてお気楽に受け止めていた。いざ我が身に降りかかると、今度はそのテレビに苛々するのだから、勝手と言えば勝手な話だけど。
きっかけは、仕事場だ。
地元の信用金庫で受付をするあたしのもとに、Mはやってきた。
それが不幸の始まりだった。
保険商品についてやりとりしていたら、なんだかよくわからない理由で怒り出し、客へのマナーがなってないとか喋り方が気にくわないとか、言いがかりレベルのクレームをつけてきた。それがMだ。四十歳になる会社員で、冴えない天パー。血色の悪いゴボウみたいな外見の男だった。
逆恨みか、ストレスの捌け口か、歪んだ愛情表現か知らないけれど、Mのストーカー行為が始まった。罵詈雑言を書いた紙を郵便受けに入れたかと思えば、お詫びのしるしと言って新品の下着を送りつけてきた。用もないのに信用金庫の待合席に居座り、二時間も三時間もあたしを見つめたりした。思い出すだけで、げんなりする。ゲームでいうなら、ライフが削られていくような気分だ。
あたしは警察に相談した。警察はストーカー被害に冷淡と聞いていたけど、イメージ刷新に努めるためか、結構真摯に接してくれた。その結果、Mの波状攻撃は勢いを弱め、ようやく先ほどの電話につながる。
Mは市外に引っ越した。
被害も近頃は減っていたし、飽きてくれたのかと胸をなで下ろす。
それでも完璧には安心できず、なで下ろす手は途中で止まってしまう。
「心配しすぎは毒だよ。いつまでも縛られてるのも、むかつくじゃん」
同僚にしていちばんの友人、N子が笑う。ショートケーキのいちごを頬張る。
今夜はあたしの家で鍋でもやろうって話になって、今はデザートタイムだ。
「そんなことよりさあ、聞いてよ、すっごいむかつくんだけどさあ」
元来お喋りなたちのN子。今日も今日とて、仕事の愚痴とか恋愛の悩みとか、よくまあそんなに喋れるなってくらい喋りまくる。ストーカー事件について「そんなこと」と済まされるのは不本意だけど、あたしを元気づけようとしてくれるN子の優しさが、今は嬉しかった。
「……ほいでさ、あいつ、そのときなんて言ったと思う?」
上司の悪口をぶちまけ、N子はケーキを完食した。フォークを持つ彼女の手が、ふと止まった。笑顔はにわかに真顔に変わり、何か深刻な出来事に思い当たったように硬直していた。あたしは不思議に思いながら、話の流れで答えを促した。
「さあ、わかんない。なんて言ったの?」
「…………」
「どうしたの? N子」
N子は無言ですくっと立ち上がった。
かと思うと、玄関のほうにすたすたと歩き出した。
「ねえ、もっとケーキ食べたいな」
N子はなぜか声をひそめて言う。「もうひとつ買ってこない?」
「えー、もう満腹だよ」突然の誘いにあたしは戸惑う。
「わたしは食べたいの。そこのコンビニ行こう、ねえ、行こう?」
ただならぬ彼女の様子を不審に思いつつ、一緒に外に出た。
玄関のドアを閉めるなり、N子はあたしの手を引いて駆け出し、マンションのエレベーターに乗り込んだ。悲壮感を塗り込めたような、白い顔で言うのだった。
「気づかなかった?」
「何が?」
N子は口を押さえて、ぶるぶると首を振った。顔はみるみる赤くなり、目から涙が溢れていた。
「ベッドの下に、刃物を持った男が隠れてたの……」
あたしは凍りついた。ベッドの下? まさか。
「きっとMだよあれ! 怖くてよく見なかったけど、店に来てたMだよ!」
N子が叫び立てる。嘘だ。信じられない。信じたくない。一階に着いたエレベーターが扉を開けても、あたしは足が動かなかった。足が震えてしょうがなかった。
ベッドの下に、誰かがいるはずがない。
だって、ベッドの下には。
あたしがストーキングしてた男と、その恋人の死体を、隠してあるんだから。
二人分の死体を真空パックに入れて並べて、ぎゅうぎゅうのはずなんだから。
Mが隠れられるスペースなんて、あるわけない……。
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