第5話 峠の悪霊

 あんな体験が、我が身に降りかかるとは思ってもみませんでした。

 ぼくが峠道をドライブしていたときのことです。天気もよかったし、新車のセダンを買って上機嫌で運転してたんです。ところが、どうも途中から、ハンドルの利きが悪くなりました。気のせいかと思いつつカーブに差し掛かったところで、今度は減速が不十分になり、あやうく対向車線に入り込みかけました。

 これは危険だと思い、仕方ないからとろとろと運転してたんです。

 じれったいなとやきもきしてたら、今度は急に速度が上がりました。

「うわっ! 何だよいったい!」

 思わず声に出しました。アクセルを外してもスピードは落ちません。目の前には曲がりくねった道がありました。ぼくは神経を研ぎ澄まし、慎重に運転を続けました。

 最悪なことに、ついにはブレーキが利かなくなりました。

 そこで、はたと気づいたんです。

 僕がいたのは、死亡事故の多いことで有名な峠なのでした。

 幽霊が出るって話を、どこかで耳にしたのを思い出しました。

「止まれ! 止まってくれよ!」

冗談じゃないと思いながら運転を続けていたら、ハンドルの自由もなくなりました。

 カーブに差し掛かりました。目の前にはガードレール。その向こうは崖です。

 このままつっこんだら死んでしまう。やばい!

 ……ってときに、あれは今思っても神業です。

 咄嗟の判断でした。ぼくはシートベルトを外してドアを開け、車から飛び出しました。愛しの新車はガードレールを突き破り、そのまま崖の下まで真っ逆さま。下の森で爆発し、煙を噴き上げました。

唖然として見下ろすぼくの耳に、誰かがそっとささやきました。


「死ねばよかったのに……」


 若い女の声でした。

 全身から血の気が、引きました。





 …………引いた血液はその直後、押し寄せる波のように逆流し、急沸騰しました。

 血管がぶち破れそうなくらいに、ぼくはキレました。

「おい! 誰だてめェコラ!!」

「死ねばよかったのに……」

「出てこい! 姿見せろ一回!」

 虚空に向けて怒鳴りつけると、女の幽霊が出てきました。偉そうに頭から血を流して、服まで真っ赤に染めてやがりました。

 よく見たら頭の半分がなくなっています。

「おまえがやったのか? やっていいことと悪いことがあるんだよ!」

「死ねばよか」

「うるせえよボケ! おれが死んだら幽霊になるぞおまえみたいに。そしたらものすごい迷惑かけてやるよおまえに。どうすんだよあれ! 新車なんだよ!」

「死ねばよ」

「いくらするかわかってんのかよ! 幽霊ならなんでも許されると思ってんのか!」

「……ごめんなさい」

 謝っても遅いんだよマジで。

 とりあえずぼくは、新車の代金の弁償と慰謝料を稼ぐまで、幽霊をただ働きさせることにしました。慰謝料はいくらかと訊いてくるので、ぼくはふっかけてやりました。

 十億円です。






 途中でばっくれたら自分も死んで、おまえを苦しめると脅してやりました。

 死ななきゃよかった、と幽霊は言いました。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る