私の鬱の話

宮野花

第1話 私の鬱と根本の話

 まず初めに、これは自己満足である。

 それだけは前提に、読むとしたら読んでほしい。

 そもそもこれを書き始めたのは、読んでほしいとかでない。正直読まれたら、それなりに批判されることも多いだろうし、感想も評価も何もつけられもせずに伸びない閲覧数の数字をたまに見ては気分が沈むのだと思う。


 ただ、私の鬱。それだけがここにはあるのだ。


 そしてもう一つ。人の痛みも苦しみも鬱も人の数だけある。だからここに書かれていることは教科書なんかじゃあないし、ただ私に詳しくなるだけの文章だ。

 鬱って言葉は世の中にずいぶん知られている。軽く使われることもあれば病気として言われることもある。ちなみに私はその中間。病院に通っているし薬も飲んでいるけれど、鬱という病名はもらっていない。

 世の中が鬱を知ること、認めること、言葉でくくることは、いいことだなと私は思う。うん、いい世の中になっているんじゃあないかって。昔は鬱なんて認めてもらえなかったらしいから、世界がそれを理解し受け入れようとするのはいいことだ。

 私の鬱は、とにかくたまに体が重くなる。肩こりが妙にはっきりするのと、頭に常に重い帽子をかぶっているような。そんなものがある。

 あと胸に何だか重いものを感じる。

 胸に心がある表現をはじめにした人は、鬱だったのかなと思う時がある。いや、まあわからないのだけど。

 心臓とか肺のあるそこに脳はないのだから、そこが苦しいなんて本来おかしな話だ。でも実際、苦しいのである。

 そこに臓器以外の、心なんてものが詰まっているんじゃあないかと思うほどには胸のあたりが重く、苦しい。そこを中心に重力は働いているのではないかとおもうほどに。

 色々書いたが、とにかく重いのである。買い物のし過ぎで疲れて、それでも重い荷物を持って歩かないといけないよ鬱はそういったことが寝ていながらも付きまとうのだ。

 そして、頭がうまく回らなくなる。どこかの神経が詰まっているのかなと思う。

ぼーっとして、ぼやける頭の中に、なんとなく苦しいなという気持ちだけ残っているのだ。

 なんだろう、何かに首を絞められそうな感じ?首の狭いタートルネックを着ている感覚に似ているかな。見えない手が私の首に手をかけて、でもそれ以上力は込められていないような。そんな苦しみがある。


 体が重くて、首が絞められそうで?

 

 ずいぶん静かな地獄にいるなと、思う。

 私の口癖……と、いうか。思考の癖の一つに「死にたい」があるほどには、それなりに苦しいのだと思う。

 ふとした時に「死にたい」と思うのだ。あぁでも勘違いしないでほしいのは、その死に体には大した重さがないこと。本当に死にたいとその瞬間思っていない。そんなこと一ミリもその思った瞬間には考えていない。

 ただ思いすぎて、言いすぎて。「死にたい」という言葉がすんなり当たり前に出てきてしまうのである。

 「やばい」と一緒。「うわ、やばい。」と。「うわ、死にたい。」が同じ感覚なのだ。

 死ぬなんて簡単に言うなよ、という方の気持ちはわかる。私だって一応常識は持ち合わせているのでそれが簡単に言ってはいけない言葉だと。

 だからやめたい。そんなこと言いたくも思いたくも本当はない。そもそもまだ癖になる前だって、本当に死にたかったわけじゃあない。


 ただ、逃げたかったの。

 辛くて苦しくて仕方ないから、逃げたくて。

 だからさ、もう死んじゃったほうが早いなって。そう思っていただけなんだよ。












 私がこうなったはじめは、祖母からの暴力だと思う。

 DVほどではないのだと思う。そもそもそのころDVなんて言葉は一般的ではなかったように思う。

 私の家は両親と、姉と祖母の五人暮らしだった。

 昔のことだからよく覚えていないけれど、私はとにかくよく泣く子供だった気がする。

 母のことが好きすぎて、母がいないことでよく泣いていたし。姉ともよくケンカした。でもなんでケンカしたかいまいち覚えていない。姉のおもちゃを欲しがった記憶が全くないのだ、というか、人のものが私は今も昔も嫌いだった。私だけ、専用のものだけが好きだった。

それなのになんでケンカしていたのだろう。まぁ、私のことを見ているだけでうざいと思うタイプの人間がいることを、その後中学校で気が付くので、もしかしたら姉もそういうタイプだったのかもしれない。

 その話はまた後でするとして。私は泣きすぎてよく祖母にぶたれていた。

 うちには黒く四角い、冬にはこたつにもなるテーブルがあるのだけれど、そのテーブル背景に祖母が私に手を挙げた光景が今でも忘れられていない。

 確か、「うるさい」と言われた。痛みまではさすがに今覚えていないけれど、その時の祖母の声の鋭さは今も覚えている。

 だからか、本当なら少しずつ薄れるはずの、死んだ祖母の声を私ははっきりまだ覚えている。そのどれも怒っている声だから、怒られた経験はいつまでも残るものなんだなと身をもって体感した。

 祖母が私をぶったことを、多分母は知っている。大人になって酒の席で母にその話をしたことがあって、「あーそうだったね」と言われたから。母のことは大好きだし、尊敬している。感謝もしている。でもこういう会話から、母にわかってもらえないこともやっぱりあるなとつくづく思う。母は私と違い、しっかりしていて強いパワーをもった、すごい人なのだ。

 今も昔も、私はよく泣く。実際これを書いている今も泣いている。

 泣くことが悪いことだと、なぜ怒られるのかと、あの頃の私は理解していなかったように思う。そこは、正直、自分のことでも可哀想だなと思う。

 あの時の私は、多分抱きしめてほしかったのだ。 

 泣かないでって、抱きしめてほしくて、泣いていたのだと思う。

 祖母はそのあと、認知症が発覚する。多分私が幼かったその時すでになりかけだったのだと思う。

 昼夜問わずの徘徊があったし、トイレも一人で行けなくなった。母は祖母のためにフルタイムの仕事をやめた。

 中学の頃は母が用意したご飯を私が食べさせてあげて、トイレに連れていくこともあった。徘徊しようとするから止めて、あまりよくないこととわかっても外に出ないように扉につっかえ棒をして閉じ込めた。知らない間に迷子になって警察を呼ばれるほどには、祖母の認知症はひどかったのである。

 一応祖母に感謝していることもあって。幼稚園の迎えには基本祖母が来てくれたし、その帰りに必ずお芋のてんぷらを買って食べさせてくれた。それだけしか私はいい思い出がないけれど、大人になると幼い頃にはわからない大変なことをたくさん知るし、私が知らないところで祖母も頑張ってくれてたのだと思うから。

 でも私は善人じゃあない。

 私は祖母を、今も昔もずっと好きじゃない。

 祖母が死んだとき、私は無理やり家族の手前泣かないとなと思って俯き目に力を込めて泣くふりをしたが、実際はやっと死んだなと思ったほど。

 祖母が死んでから、社会人になって仕事がきっかけで私は精神科に通うことになる。

 でも蓋を開けてみれば、私の自己嫌悪だったり苦しみというのは、仕事がきっかけではあったとしても、根本にいたのは祖母だった。

 元々の性格があったとしても。

 あの時あなたが私をぶたないでさえいてくれれば。

 そうすればもしかしたら、こんなに苦しんでいなかったかもしれないと思うほどには、私は祖母を呼吸するように、当たり前のことのように、食べ物の好き嫌いくらいに当然の感覚で恨んでいる。

 

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私の鬱の話 宮野花 @miyanohana

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