第2-5話 『日常に走るノイズ』

 ――あの眼、どこかで…。

 網膜に焼き付いた彼女の表情と、輪郭のない誰かの表情が重なり合う。

 悲しげでもあり、諦観と失望が入り混じってもいて、それでいて何処かに感情を置いてきてしまった、そんな表情であった。

 まさか彼女があんな顔をするとは。まだまだ彼女の底は見えなかった。

 その時だった。

 ――怜についてもっと知りたい。

 ふと湧き上がった感情。今まで経験した事の無い衝動が湧き上がっていた。そして記憶を辿っても手にした事の無い、それに困惑している自分がいる。

 ――怜は何が好きなのだろう。よく考えたら食べ物の好みすら知らなかった。

 ――怜は何が趣味なのだろう。ありきたりな質問すらしていなかった。

 ――怜は普段何をしているのだろう。不登校だから時間はあるはず。

 ――怜は将来、何になりたいのだろう。彼女の夢が気になった。

 トタントタンと鳴る電車に揺られながら、ずっとそんな事を考えていた。

 しかし仕事の連絡を返していたりするうちに思考の紐は解かれて、山手線の半周先に着く頃には脳裏の片隅に追いやられていたのだが。



 ◆



 違和感は日常に突如、ノイズとして現れた。


 怜と原宿駅で別れ、会社に戻り、溜まりに溜まった事務作業やら経費精算などを行っていたら、時計の短針が十二時を過ぎようとしていた。

 終電に転がりこむように乗り込み、最寄り駅に降りると漆黒の闇が辺り一面に広がっており、夏の夜の匂いが漂っていた。

 小さな星々が瞬く下、とぼとぼと歩いていると、視界に違和感を覚えた。

 ――ん?あの後ろ姿…。何処かで見たことあるような…。

 視界の端にその姿を捉えた時、あまりにも自然で見過ごすところだった。

 それでも気づけたのは、殺し屋特有の見分けた方を瞬時に適用したからかもしれない。

 人間の歩き方は人それぞれ違いがある。股の開く角度。膝の伸ばす角度。歩幅の詰め方。着地は爪先か踵からか。脚だけじゃない。腕の振り方。腰の捻り。上半身の揺らぎ。視線の揺れと連動した頭部の揺れ。そして重心の動かし方。

どれをとっても一つ一つ差異があり、完璧にトレースする事は不可能である。

 故に歩き方一つで人物を特定する事が可能なのだ。(街中を歩く知人の後ろ姿を見て、声を掛けられるのもそれが理由だ)

 実際、歩き方で個人を特定する歩容認証なる技術が研究され、防犯カメラなどに応用されようとしている。

 そして殺し屋はこの歩容認証を自身の眼球で行う事が出来る。トレースこそ出来ないものの、人の歩き方など完璧に捉え記憶する事は容易だ。

 つまり。たった今。この双眸は見知った誰かを捉えたのだ。

 夜闇に過る見覚えのある歩き姿。

 新鮮な記憶として鮮明に焼き付いたそれは、つい数時間前に得た物。


 ――間違いない。浅井怜が目の前にいる。


 ただ着る衣服はいつもの制服ではなく、黒のパーカーに黒のスキニー。そして黒のキャップを被り、黒縁メガネと黒マスクを身につけ、全身を黒一色に染めた彼女の姿は影そのものであった。

 視界に彼女の姿を捉え、彼女だと認識するまでの僅か数秒。考えるよりも先に物陰に隠れてしまった自分がいた。

 殺し屋としての第六感が反射的に警鐘を鳴らす。経験によって培われた直感に近しい物が身の危険を感知し、気づいた時には路地裏に身を潜めていた。

 ゆっくりと顔を出し、物陰から彼女の様子を伺う。

 ――何か様子がおかしい…?

 僅かにだが、右脚を庇っている気がしたのだ。

 この距離なら自分の視線に気づかれる事も無いだろうと目を凝らして彼女の後ろ姿を追う。

 ――こんな時間に彼女は何を…?

 困惑と疑問が脳を埋め尽くす。


 その瞬間だった。

 突如、彼女の脚先が揺らぎ、そのまま崩れ落ちるように倒れた。


 考えるよりも先に体が動いていた。

「おい!怜!大丈夫か!」

 夏の日差しに焦がされたアスファルトに伏した彼女を抱き起こすが、気を失っているのか、揺さぶっても反応が無い。

 よく見ると腕や顔の至るところに擦過傷があり、倒れた拍子に頭を強く打ったのだろう額には血が滲んでいた。またさっき庇っているように見えた右足首は真っ赤に腫れており、恐らく酷い捻挫をしているように見えた。

 手首にそっと指をかざすと微かにだが脈はあった。それに口元からも空気の出入りは聞こえるので、命に別状は無いだろうが、このまま放って置くわけにもいかなかった。

 深夜一時に開いている病院はこの辺りには無かったはず。

 救急車を呼ぶ事も考えたが、できる限り自分の存在感も怜の存在感も濃くしたくなかった。ましてや事件性があるなんて解釈されて警察の視線が、此方に向く可能性を考慮すると安易に電話をかけられなかった。

 ここから自宅までは歩いて数分。

 顔見知りで緊急事態とはいえ、未成年の女の子を部屋に連れ込むのは気が引けるが、事情が事情である。

 暫し考えたが、思いついた最適解は変わらなかった。

 ――仕方ない。

 改めて数秒だけ思考を回した後、ぐったりとうなだれる彼女を抱き上げる。

 ――重た…くはない。

 普段から体は鍛えている上に偽装工作などで遺体を運ぶ事もあるので、華奢な女子高生ぐらいだったら、どうと言う事無いのだが、それでも病的なまでに彼女の体は軽かった。

 もう少し肉を付けるべきだと細い線の体を眺めながら思う。冷蔵庫に残っているありあわせの材料で申し訳ないが、彼女に何か食べてもらうか。

 そう考えているうちに自宅に着いた。



 ◆



 殺し屋とターゲットが同じ部屋にいる。

 業界の殺し屋に聞けば、全員が最良の殺しのタイミングだと言うだろう。

密室ほど殺し屋が好む空間は無い。幾らでも偽装工作が可能であるし、人目を気にせず十分に殺しに集中が出来る。それにクリーナーを呼んで対応させるのも容易なのも高ポイントであり、『可能な限り密室で殺しましょう』と園で教育があったくらいには定番の方法であった。

 場所としては大抵、身近な密室だと自宅か、組織の息がかかっているラブホテルが挙げられる。

 ホテルは清掃業者という体でクリーナーが入るので、現場の清掃や遺体の運び出しも容易だが、成人した異性でないと使えないというデメリットがあるのがネックであった。

 その点、自宅の場合はラブホテルより幾分かハードルも低く、年齢性別問わず幅広く呼ぶ事が出来るのが一番のメリットである。

 しかし、ホテルとは違い自宅だと足がついてしまう可能性もあるので、大抵の場合、自宅での殺害後は引越し業者を装ったクリーナーを呼び、そのまま引っ越ししてしまう事も多く、工数がかかるのがデメリットではあった。

 ただ、今回の場合はターゲットが未成年なのもあって、自ずと自宅のみ絞られていたのだが。


 ――閑話休題。


 さて、眼前で眠る彼女をどうしたものかと思案する。

 このままここで殺してしまえば、仕事も完遂。しかしどのように殺すかが問題であった。

 殺し屋たるもの、殺し方にもそれなりの拘りがある。

 例えば、出来る限りに遺体に傷を残さず、今にも目覚めそうなくらい穏やかな表情のまま殺す事にしている者もいれば、見るも無惨な姿まで破壊の限りを尽くしてクリーナーを困らせる者もいたり、中には性的暴行を振るった上で殺害したり、屍姦を欠かさないという悪趣味な者もいる。

 その中でも私は血を流さない事を至上としていた。

 自分自身のトラウマも大きく作用しているのか、一滴たりとも血を流す事なくターゲットを殺し切りたい。なので拳銃や刃物での殺傷は極力避けて、絞殺や溺死、窒息死、凍死、薬物投与などで今まで始末してきたのだ。

 傷をつけたくないため、基本的には睡眠薬を食事に混入させ、完全に意識を失った状態で殺す事になる。

 やろうと思えば、睡眠薬無しでも絞殺ぐらい余裕なのだが、変に抵抗されて大声出されたり、抵抗されて争いになったり、身を躱されて逃げられたりと失敗する可能性を孕んでいる以上、やはり避けたかった。

 さてかくいう今日は非常に噛み合わせ悪く、手元に催眠薬も毒物も無かった。

 警察のガサ入れなど、万が一の事も考慮して、組織内ではその手の薬物は普段、部屋に置かない事になっている。一応、息のかかった医師に不眠症とでも診断書を貰えば睡眠薬など簡単に入手出来るが、どうせ組織から効きが良くて、体にも残りにくい特製の物を支給してもらえるのだから、わざわざ診断を受けてまで常備する必要も無かった。

 という前提を踏まえて改めて考えると、二度と無いチャンスにも関わらず、ベッドに横たわる彼女を見つめている事しか出来なかった。

「う、うぅ…」

 彼女がそう小さくうめき声を上げ、瞼を僅かに開けて此方を見た。

「怜、大丈夫か?」

「な、なんで私の部屋に…」

「いきなり目の前で倒れて、とりあえずウチに運んだ。水飲むか?」

 まだ意識がハッキリとしていないのか、普段からは考えられない程掠れた声で呟き、僅かに開いた瞼の隙間から視線をキョロキョロと彷徨わせていた。

「……そういう事か」

 そう小さく零した彼女は二度三度と目を擦ると、ゆっくりと体を起こして、差し出された水の入ったペットボトルを受け取り言う。

「彩人さんが運んでくれたんだ。ありがとね」

「もう大丈夫なのか?思い切り倒れていたが」

「うん。ところどころ痛いけどダイジョウ…痛っ!」

 そう言い切る前に苦悶の表情を浮かべて、足元に手を伸ばす。

「ごめん。後、足首も捻っちゃったみたいですっごく痛い」

 待ってろ。と彼女に言い、キッチンまで向かう。冷蔵庫から取り出した氷を入れたビニール袋をタオルで包んで、彼女に手渡す。

「氷持ってきた。捻った右足首に当てて冷やすと良い」

 ありがとね。とお手軽氷嚢を患部に当てると、強張っていた頬も緩んだ。なんでもないように表情に出していないだけで、しっかりと痛かったようだ。

 手にしたペットボトルに視線を向けながら彼女は言った。

「ごめんね。アタシ、ちょっと疲れてたみたい。びっくりさせちゃったよね」

「びっくりしたもの何も、どうしてこんな夜中に出歩いていたんだ?」

 そう訊きながらベッド小脇に置いた椅子に腰掛ける。ベッドライトの暖かな光が、俯いた彼女の素肌を照らしている。

「……家出したの。家の人と喧嘩して。もういい!って突き放して、そのままの勢いで出ちゃって…。その途中で転んじゃって、多分その時足も捻っちゃったんだと思う。それで何も持たずに飛び出したからスマホもお金も無くて、足は痛いし暑いしで、気づいたら…って感じ」

 バカみたいだよね。と自嘲的に笑って言う彼女は何処か儚げで、今まで見てきた彼女の表情の中で、一番自然体のように思えた。

 枕元に置かれた時計の針は既に五時を指している。普段なら眠りについている時間なので、穏やかだが睡魔の漣が立っていた。

「今日は遅いから泊まっていくと良い」

「……うん。分かった。そうするね」

 自分の言葉に一呼吸置いて応えたのを見ると、状況が状況といえ、異性の大人と一つ屋根の下で夜を明かすのは、やはり抵抗感がうっすらとあるのだろう。

「それじゃあ、おじさん臭いベッドで申し訳ないがゆっくり休んでくれ」

 そう言って寝室から出ようとすると、怜がシャツの裾を掴み引き留めた。

「え、でも彩人さん何処で寝るの…?」

「気にするな、ソファとか床とか適当に寝るから」

 職業柄(実際の職業でも設定上の職業でも)、どんな環境でも眠れるので、大した問題に感じていなかったが、彼女も思うところがあるらしい。

「わ、悪いかなって。路上で倒れたところを助けてもらった上に…」

「大丈夫だ。仕事柄、床で寝る事だってよくあるから」

 彼女の言葉を遮ってそう応えると、彼女はしぱしぱと瞬きして納得したように手を打ち、ゲーム開発も大変だよね…。と気まずそうな面持ちで零す。

「分かった。じゃあお言葉に甘えさせてもらうね」

 いつもの怜らしい笑顔と共に添えられた、「有難うね。色々と」という彼女の呟きに、おう。と小さく応じて部屋を出た。

 カーテンの隙間から差し込む夜明けの光が邪魔でろくに眠れなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る