第2-6話 『フィレオフィッシュは朝にもある』
翌朝。というか数時間後。
重たい瞼をこじ開けて彼女の眠る寝室のドアを叩く。
「怜、起きてるか?」
「………。あ、うん起きてる!今出るから!」
問いかけに対して、一拍置いてから彼女は応える。やはり彼女もまだ昨日の疲れが取れてないのだろう。
「冷蔵庫に何もなかったから、涼しいうちに何か食べに行こうと思うんだが、怜は来るか?」
元々、昨晩の帰りがけにスーパーに寄ろうと考えていたが、終電ギリギリまで溜まった仕事を片付けていたせいでタイミングを逃してしまった。案の定、冷蔵庫を開けたら殆ど空で買い物ついでに外食しようと思ったのだ。
「どうする?飯食いにいくか?」
「えー。あ、うん!行く行く!ちょーっと待っててね!」
そうしてバタバタと部屋から音がした後、ピタッと音が止むと、きっちりと閉められていたドアが薄く開き、怜が顔を出して深刻そうな表情で言った。
「待って。アタシ、今物凄く汗臭いかも」
そして、少し間を空けて蚊の鳴くようなか細い声で、
「しゃ、シャワー借りていい?」
と恥ずかしげに彼女は言ったのであった。
「泊まらせてもらうだけじゃなくて、シャワーまで借りちゃってごめんね」
そう言いながら怜は風呂場から姿を現す。上気した頬がほんのりと赤みを帯びており、体からは湯気が立っている。
「着る物、それしかなくて悪い。洗濯したての物だから変な匂いはついてないはずだが」
彼女が元々着ていた服を入れた洗濯機が揺れるのを視界の端に捉えながら、彼女に言う。
今、彼女には自分が普段使っている黒いシャツとスウェットを着てもらっている。どちらも彼女が着るには大きすぎて、シャツの裾は太ももの中程まで隠し、スウェットに至っては足首のところで何回も巻いてある。
スウェットの裾を捲っている時に、足首に赤黒く腫れているのが見えた。倒れた時に出来た傷にしてはやけに腫れているように見えたので彼女に訊いてみると、何度か転んでその度に悪化してしまったらしい。幸い氷で冷やしたのもあってか、既に昨晩よりも腫れも痛みは引いてきたようだった。念のため、湿布とテーピングで応急処置を施しておいた。
「彩人さんって案外優しいんだね」
「一応、大人だからな。それに変に傷が残っても嫌だろうし」
付け加えた建前の裏側、赤黒く染まった生々しい傷跡を視界に捉えないように貼り付けたとは言えなかった。
殺し屋のトラウマは、ある意味ではウィークポイントになりうる。赤色が嫌いになった、あの日を追想して胃の中身がぐるぐると動き出すのを微かに感じると深く息を吸って気を紛らわせようと彼女に訊く。
「なあ。その匂いとか大丈夫か?気にならないか?」
当然、どちらも洗濯してから着ていない物を手渡したので柔軟剤の香りが十分にするはずだが、それでも気になる物は気になってしまう。
「あー全然?いい香りするよ」
と言った彼女はおもむろにシャツに顔を埋めて深く息を吸った。
「うん!彩人さんの匂いがする」
「なっ、何言ってるんだ」
「あ、今ドキッとしたでしょ。したでしょ?」
グイっと詰め寄ってきて彼女は得意げに言う。「したんでしょ?違うの?」と言いながら身を屈めて、此方の表情を伺うようにこちらに迫る彼女から視線を外す。
恥ずかしながらドキッとしたのも事実だが、それよりも男物のシャツ、それも使い古された物の襟が如何に緩いか、彼女は理解していないようでさっきからチラチラと隙間から胸元が見え隠れしていて、なんとか見ないように視線を逸らす必要があった。
「せ、洗濯終わるまで、適当にくつろいでてくれ。特にこれと言って暇を潰せるものは無いが…」
仕事柄、様々な地を転々とするのもあって、必要最低限の荷物しかない我が部屋には娯楽品と呼べる物は殆ど無かった。強いて挙げるとすると本棚に並べられた数冊の小説だけ。テレビは運ぶのに苦労する割に、情報収集はスマホ一台で完結してしまうので置いていなかった。(そもそも外にいることが基本で、部屋には寝て起きるためだけに帰っているのもあるが)
勿論、部屋には仕事道具は置いていない。ほんの最小限だけスーツが並ぶクローゼットの隅に置いてあるが、一見すると日曜大工用の器具に見えるので、仮に見つかったとしても言い逃れは出来るだろう。
「彩人さんの部屋、何にもないね。普段何してんの?」
「あー基本的に寝てるな。外回りが多くて週末はクタクタで一日ずっと寝てないと体力追いつかないんだよ」
「な、なるほど…。社会人は大変ですね」
怪訝な面持ちで返した彼女は「アタシも将来そうなるのかなぁ〜」と天井を見上げながらため息混じりに零していた。
二人の間に重たい空気が流れる。
「怜はまだ女子高生なんだから、何にでもなれるって」
「え〜ほんとかな〜。こんな何にもない部屋に住んでる人に言われても説得力無いけどな〜」
――全くもってその通りである。
この手の励ましの言葉を贈るべき人間は、もう少し人間味のある暮らしをしているはず。自分みたいに幼い時から殺し屋として生きるしか選択肢の無かった人間が言えるセリフではないのだ。
「怜は将来、何になりたいんだ?」
ふと湧いた疑問を彼女に向ける。
「………。そうだなぁ…」
暫し流れる静寂。椅子に腰掛けた彼女はパタパタと足を揺らしながら考える。
「うーん。特に思いつかないなぁ…」
天井を見上げながら彼女は言う。首を捻り再度、考えるものの結局、何も思い至らなかったようで、
「…そもそも高校卒業できるか分かんないのに、将来なんて言ってられないよ」
と苦笑いを浮かべながら彼女は言った。
彼女の瞳から一瞬、光が消えたような気がした。
◆
二人はそれから時折会話を交わしながら、小説を読んで過ごした。てっきり怜はスマホでも見て過ごすのかと思ったが、Youtube見ながら寝落ちして通信制限が来たらしく、たまにスマホを手にとってメッセージを返す程度でそれ以外は貸したミステリー小説を読んでいた。
朝食の話にはなっていたが、彼女がシャワーを浴びていたのもあって、そこから進展はなかった。
折角だから軽食でも買ってこようか?と提案しようとも思ったが、彼女を残して部屋から出るのはあまりにもリスキーすぎて脳内で取り下げた。
それとなく彼女に訊いてみたが、「アタシ朝ごはん食べないからなぁ」と返ってきたので、そこまで空腹ではないのだろう。
それに今、彼女が着ているのは男物の服なのもあって、服の乾燥が終わるまで部屋で待ってから、何か外に食べに行こうと話になった。
駅まで送り届ける道中には確か、何店か飲食店はあったはず。その中でも早朝から営業している店は数限られてしまうが、それでも両手では収まりきらない程度にはあったはずだ。(この場合の両手での数え方は十進法とする。そうでないと1023店も並んでいることになってしまうからだ)
洗濯機から軽快なメロディーが鳴る。
「あ、乾燥終わったみたい、アタシ取ってくるね」
そう言って脱衣所に向かい、手元に乾燥したての服を持って戻ってくると柔軟剤のフローラルな香りが部屋中に広がる。
「ねえ見て!ちゃんと乾いているよ!」
「とりあえず優しめ設定でやってみたが、変に縮んでないみたいだし、しっかり乾いてて良かったな」
嬉しそうに彼女はパーカーとシャツ、スキニーをそれぞれ広げて見せる。ところどころ皺は寄っていたが、しっかり乾いているようだった。
さっとアイロンをかけ、怜が着替えると外に出た。
まだ時計の短針が上半分に辿りついていないというのに、既に外は灼熱の日差しが降り注いでいて、熱気がアスファルトから立ち昇っていた。
部屋のドアを開けるなり、むわっとした空気が呼吸器を巡る。肌で暑さを感じる前に体の内側から暑さを感じるのは久しぶりだった。
――この時間でも、こんなにも暑いのかよ…。
『涼しいうちに何か食べに行こう』という目論見は夏の勢いの前では無意味だった。
「なあ、やっぱり外出るのやめるか?」
「ううん。日陰歩けば暑くないし。それに戻ったところで家に何も無いのは変わんないじゃん」
「ま、まあそうだな…。でも風呂入ったばかりなのに良いのか?」
彼女の言う通り、こんな暑い中出歩いたら、汗でびしょびしょになるのは間違いなかった。
「どーせ、この後家に帰らないといけないし。一緒でしょ」
「それもそうか。…てか、家の人と仲直りしたんだな」
暑さで危うく聴き逃すところだったが、怜が家出した原因は解決していたようだった。
「うん。メッセージでだけど、ちゃんと謝ったら許してくれた」
「なら良かったな。もうすんなよ」
「…それは無理かも。親ってよく分かんないし」
彼女の言葉を訊いて、自分の両親の顔(父母ともに朧気ではあるが)を思い出した。母と自分を捨てて何処かに消えた父と歪んだ人生を歩む原因になった母。
両親との思い出なんて、振り返っても何一つ浮かばなかった。彼女のように喧嘩して家出して、それでも仲直りするなんて経験したこともない。あったのは一方的な暴力と許しを乞う涙だけだった。
――とても彼女が羨ましく思えた。
それから二人で家から徒歩五分のハンバーガーショップへと足を運んだ。本当ならば駅前まで行き、帰りにスーパーでも寄ろうと思っていたのだが、十歩進んで方針転換。汗が滝のように流れる前に冷房を求めて店内に逃げ込んだ。
冷えた店内に入るなり、怜はメニューを一瞥せずに自分に言う。
「アタシ、フィレオフィッシュにしよ〜っと」
「いや、今は無いぞ」
「え?なんで?あるでしょ?」
「この時間って朝限定メニューだけだぞ?」
朝は確か、いつものハンバーガーではなくマフィンのみで、フライドポテトではなくハッシュドポテトだった気がする。
朝限定メニューの文字を指差すと、彼女はキョトンした顔でパチクリと二度三度瞬きしてからニヤリと悪い笑みを浮かべた。
「彩人さん、もしかして知らないんだ〜」
「え?フィレオフィッシュってバーガーだろ?」
「ほらここ見て、ここ」
そう言って文字を指差した自分の手を掴むと、すすっとメニュー表の上を滑らせ、見覚えのあるバーガーの写真の上で止まった。
「フィレオフィッシュって朝にもあるのか…?」
指の下には白身魚のフライとタルタルソースを挟んだバーガーの姿が。
「そだよ、朝に唯一あるバーガーなんだよ」
したり顔の彼女は「ソーセージエッグマフィンとハッシュドポテト、それにチキンナゲット。後、ホットケーキ。ドリンクはコーラで」と肩を叩きながら言い、席を取りに去っていった。
つい二時間ほど前、リビングで彼女の言った言葉を思い出す。
『アタシ朝ごはん食べないからなぁ』
――めちゃめちゃ食べるじゃねえか。
メニューを一瞥し、ソーセージエッグマフィンを追加で自分用に頼むと、 この時間に見ることのないような額がレジにて表示された。
念の為、「ケチャップ抜いてほしい」と店員には言っておいた。
怜がものの見事にペロリと平らげ、指先がかじかむまで涼んだ。
朝限定メニューのラストオーダーの時間になったところで彼女に訊く。
「どうする?そろそろ行くか?」
「うん。行こっか。ちょっと冷えすぎたし、今外出たらちょうどいいでしょ」
「それもそうだな。じゃあ行くぞ」
トレーの上にゴミをまとめ、席を立つ。
ガラス越しに見える外は相変わらず灼熱のようで、日傘を差した女性が暑苦しそうに眉間に皺を寄せながら歩いていた。
「いざ出るとなったら普通に嫌だね…」
「確かにな…。駅まで行く頃には汗だくだろうな」
二人揃って小さくため息をついて店の自動ドアの前に立つと、またもや茹だるような熱気が顔面を覆う。
「「…あっつ」」
二人揃って同じ言葉が出た。
「なあ、やっぱり戻るか?もう少しいた――」
――なんだ?この感じは。
ふと違和感を覚え、言葉を止める。
ぞわりと全身の産毛が逆立つ。何か強い熱源を周囲から当てられているかのようにチリチリと肌が浅く焦げる感覚。この業界に身を置く以上、一度や二度は経験するこの感じ、もしや。
――自分たちを狙っている殺し屋がいる…?
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