第2-3 『初めは願掛けのはずだった。』

「お疲れ様です。黛部長」

『ああ、君か。どうだい仕事は。順調かい?』

 怜と別れて帰路に着いたので、十九時の定時報告の電話をかけると、スピーカー越しでも良く通る声が鳴る。

「まあそれなりにですね。タイミングを逃してしまったので、今は確実性を重視しているところです」

 そう報告しながら空を仰ぐ。闇に染まりきっていない夏の夜空は青白く薄いフィルムに覆われているようで、小さな星々が微かな印となっていた。

『ほう、そうか。君にしては随分と彼女に入れ込んでいるようだが、決して変な気なんて起こすんじゃないぞ。この前だって奴らが出動したらしいからな』

「重々承知しております」

 奴ら。恐らく『イレイサー』の事だろう。

『なんでも元々ウチで働いていたフリーランスの殺し屋がウチの機密情報を漏らしたらしくてな、三日前に遺体で発見されたよ。腕は良かったんだがな…』

 電話越しからでも失望が伺える声色で彼女は続ける。

どうやら、そのフリーランスは新宿エリアで七年近くキャリアと積み独立し、ようやく事業も軌道に乗り始めたところの酒の席で情報漏洩し、『イレイサー』の処分対象となったらしい。

「本当に勿体ない事をしましたね」

 何処で聞き耳を立てられているか分からない。ありきたりな言葉を丁寧に選びながら、ぶつくさ文句を言う部長に付き合う。

『そういえばな。私の知る限りでの話だが、ウチの組織を出てフリーランスになった奴の多くは廃業している。大抵、組織のバックアップが無くなって事業が立ち行かなくなるか、情報漏洩で始末されるんだがな』

 信頼が物を言うこの業界に於いて、会社の後ろ盾は大きな意味を持つ。特に業界最大手の組織のバックアップは凄まじい物らしい。

『君は馬鹿じゃないから心配はしてないが、間違ってもフリーランスなんかにならないでくれよ。これは会社のためであり、君のための助言でもある』

 正社員と違って依頼料が全て手元に入ってくるのは魅力的だが、装備や仕事までの前準備、依頼獲得にかかる手間を考えると独立しようなんて思えない。

「どうして皆、フリーランスになるのでしょう」

『さあな。金と自由が欲しいんだろ。でもこの業界にいる以上、金を手に入れるのは簡単だけど、自由を手に入れるのは難しいと思うがね』

 呆れた声色の部長はため息を一つ吐いて、言葉を続ける。

『まあ、それよりも今の仕事を最優先で頑張ってくれよ。君はウチのエースだ。期待しているからな』

「部長の期待を裏切らないよう尽力いたします」

 とにかく今の自分に求められている事、やらなければならない事。指令通り、怜を始末して仕事を完遂させる事だけ。

『まあ今日はお疲れさん。また明日』

「お疲れ様でした」

 部長は自分に期待している。励みのような呪いの言葉を背負わされてしまった。と思いながら家路を辿った。今夜は月が綺麗だった。



 ◆



 初めは簡単な願掛けのはずだった。

 山越えを経て、自らの意志を引き換えに孤高の存在へと登り詰めるまでの話。

 あれから季節は冬を迎えたが、未だに自分は園内で孤独だった。


 あじさい園では二人で一つの部屋で共同生活を送る事になっている。これは共に暮らす事で協調性を身につけるためらしいが、実のところ園則違反を摘発しやすくするための措置らしい。互いに互いの生活を守るためなら共謀ではなく密告するだろう。と我々の思想を汲み取った物だった。

 ただ教官からも皆からも嫌われている自分は特例として一人部屋を与えられていた。とても狭く窓すらない独房と呼ぶべき部屋だが。


「どうしてこうなったんだろう…」

 そう独り言ちると口からも漏れた呼気が白く染まる。物置同然であるこの部屋には碌な暖房おろか、断熱材すら使われてないようで壁も床も凍てつく冷たさを放っていた。

 今日も手足すら十分に広げられない埃っぽい部屋から星空を眺めている。窒息死しないために設けられたであろう小窓からは指先の感覚を奪う冷気が漏れ出し、小窓の外には今日も変わらない顔ぶれが揃っていた。

 あれがプロキオン、シリウス、ベテルギウス。月明かりを頼りに手元の星座図鑑を見て、夜空に大きな三角形を描く。

 夏の大三角形ばかり注目されるが、冬の大三角形は誰も目もくれない。冬の夜空は空気が乾燥しているから綺麗に見えるらしく、他にも明るく輝く星々があれば、例え一際大きく輝いている星でも綺麗な星と一括りにされてしまうのだろう。

「これからどうしたらいいんだろう…」

 夜空に問いかけてみるが、当然答えが返ってくるはずも無く。凍えた小部屋で膝を抱えて星を眺めて睡魔が訪れるのを待つ。

 山越えの一件で自分を取り巻く環境は好転したどころか悪化していった。例えば盛り付けられる食事に紙屑が混じっていたり、例えば言われもない噂を流されたり、例えば肩がぶつかった振りをして泥の中に突き飛ばされたり。

 教官に見つからないよう狡猾なやり口で静かに、そして確かに自分の日常を脅かしていた。

 部屋の外では常に誰かから悪意が向けられる。その事実は喉元に鋭利なナイフを突きつけられているようで、神経を張り詰めさせないと頸動脈から血が溢ぼれてしまう気すらした。

 精神が蝕まれ、この先の不安から眠れなくなった。その上この部屋の寒さだ。アルコール臭いし暴力も降ってきたが、暖かい布団で眠れた母だった人との狭い部屋での生活が今となっては恋しい。

 目を閉じれば悪意のリプレイが瞼の裏で流れ出し、目を開いていると漠然とした不安に苛まれる。安寧など自分の生活の何処にも無かった。

 十分な睡眠が取れなくなると、今度は日中の活動にも大きな支障が出るようになった。瞼は鉛のように重く、視界に映る物体の輪郭がぼやけ、思考も纏まらない。気が付くとグラウンドの隅で全身が血だらけになっている事もあった。

 現状に耐えかねて自死が脳裏を過った事も数え切れないくらいあった。死ねば楽になれる。そんな破滅的な救済が何度も目の前で光っていた。でも死ねなかった。いや、死のうとすら出来なかったのだ。

 どうやら自分の中から意志という物はすっかり無くなってしまっていたらしく、希死念慮から解放される手段を思いついても、実行するだけの気力が湧かなかった。結果として死ぬことすら出来ない屍同然の存在になっていた。


 振り子の法則という言葉がある。左右に揺れる振り子のように、良い事があれば悪い事が起こり、悪い事があれば良い事も起こるはず。という考えだ。

 はっきり言って下らない希望論だと思う。もし仮にこの法則の通りであるならば、地獄の日々からより一層深い地獄に落とされた自分はなんと説明するのか。自分の人生の振り子は左に触れたまま右へ向かう事などないのか。幸福のぬるま湯に浸かりきった人間が述べる都合のいい妄想に縋る程、愚かでは無かった。

 しかし、振り子は揺れた。反対の方向へと。


 あじさい園の児童たちは皆、学校には行かず園内にて教育を受ける。これは私立小・中学校としての機能も兼ね備えているためで特例中の特例らしい。

 当然、カリキュラムも一般的な物とは大きく異なり、より実践的な教育を軸に置いた内容となっていた。

 優秀な殺し屋ほど聡明な頭脳を併せ持つ必要があるからだ。

 まず人体の構造について徹底的に叩き込まれ、次に化学反応について、熱力学や電磁気、天体や地質学。英語にフランス語、中国語と様々な言語と併せてその国の歴史や風土について。ありとあらゆる知識をひたすらに詰め込まれる。

 一年もいれば並の国公立大なら余裕で合格出来るレベルになるらしい。

 勿論、あじさい園の中で受験者が出た事は無いのだが。


「――では今週の小テストを実施する」

 教官がドアを閉じると同時に放たれた言葉に教室は一瞬で静まり返った。ギロリと辺りに鋭い視線を回した教官はよろしい。と呟いてからテスト用紙を配布していく。

 毎週金曜日、必ず実施される小テスト。その週に行った授業内容が中心に出題されるのだが、あまりにも難易度が高くノートを見返したどころでは手も足も出ず、対策問題集が園内で流通しているぐらいだった。

 周囲の児童たちは目の下に隈を作って勉強しているようで、先程まで聞こえてきた他愛もない雑談の殆どが今日の小テストについてであった。

 あじさい園は完全実力主義の世界だ。当然、学力の面でも。

「えー。一応、今までと同じく赤点者及び、成績下位五名にはペナルティがある。心して臨むように」

 壇上の教官が露悪的に口元を歪めてそう言い、テスト用紙を配布していく。

 トレーニング同様、復習テストでも順韻付けが行われ、成績に応じて賞与やペナルティが与えられる。成績上位者は園内の至る所で優遇され、ペナルティ対象者はそれ相応の罰が待っている。

 特に赤点者にはとびきり厳しいペナルティが課される事になっており、前に聞いた話だと独房に入れられ、基準点に到達するまで勉強を強制されるらしく、経験者は皆「二度とあそこには入りたくない」と口々に話していた。

 寝ぼけ眼を擦りながら星明かりを頼りに必死に勉強してきたが、回らない思考と途切れ途切れの集中力、襲いかかる睡魔と明日への絶望を前に自信など一つ足りとも湧くはずなかった。

 先週もなんとかギリギリ赤点を回避し、食事抜きとトイレ清掃のペナルティだけで済んだが、今週も回避できる確証など無い。今の肉体と精神状態で独房に行けば廃人同然になるだろう。そう考えるだけで背筋が凍るようだった。

 ――もう何かに縋るしかない。と思った。

 時間も集中力も無い人間が最後に出来る一手、それはヤマを張る事であった。

 しかし、それは名案とは言えなかった。今まで多くの児童たちが授業内容と対策問題集から傾向と対策を練り、その殆どが幅広い出題範囲と複雑怪奇な問題に打ちのめされてきた事は周囲の事実であるからだ。

 そもそも誰が『密室にて眠る男女を確実に殺害する量の硫化水素ガスの発生方法及び、現場の原状回復方法について適切な物を述べよ』という問題がフランス語で記述されているなんて思うだろうか。確かにその週は毒性学と流体力学について学んだと謂えども想像できるはずがなかった。

 しかしだ。藁にも縋らざるを得ない人間にとって、例え成功する可能性が限りなくゼロに等しくても一縷の望みに掛けるしかない。今週は力学と三角関数が授業内容にあったはず。人文学系統や外国語、他にも天文学があったような気がするが、記憶が定かである二つに絞る事にした。朧気な記憶を頼りに想定される問題を解いているうちに夜が明けていた。

 通気孔同然の小窓から差し込む朝日に目が灼かれながら、朝の身支度を済ませ、靴を履いて部屋を出ようとしていた時だった。

 ふと、いつもどちらの足から靴を履いていたか、疑問が湧いた。追い込まれた人間からは思い浮かぶはずの無いあまりにも日常的な疑問。瞬間、頭を抱えて考え出す。さっきまで復習テストの事で一杯であった脳内が靴の順序で埋め尽くされていく。普段であったら、まあいいか。と流してしまうような疑問が、今の自分にとって大きな引っかかりに感じたのだ。

 右だったか、左だったか。過去の記憶を引っ張り出したとて、普遍的な行為を事細かに覚えているはずがない。

 そこで天啓を得た。なら今日決めてしまえば良いのだと。

 張ったヤマが当たりますように。と願掛の意味も込めて、大事な予定がある日は右足から靴を履こうと決めた。

 この願掛が今後の人生を縛るルーティンの始まりだったとは、当時の自分は思いもしなかったのだが。


「ペンを置いて!以上で復習テストを終了とする。後ろから集めるように」

 教官の号令で紙の上でペンが踊る音が鳴り止む。

 既に机の上に置かれたペンを端に寄せ、後ろから回ってきた紙束に自分のテスト用紙を乗せて前へ流す。

 ――出来た。出来た…!出来た!

 頭の中で拍手喝采が鳴り止まない。なんとヤマが見事に当たり、スラスラと解けてしまったのだ。問題を一目見た瞬間から最後の空欄を埋めるまでペン先が止まる事なく、三十分以上時間を残して解き切ってしまった。

 テスト中に時間を持て余す事なんて経験した事無い為、どうしたら良いか分からず、解き終わっても眉間に皺を寄せて紙と睨めっこし続けていたが。

 得も言えぬ多幸感と全能感が全身を満たし、清々しい気持ちで窓の外に広がる青空を眺める。雲ひとつなくどこまでも澄んだ青に染められており、差し込む陽光の根本、眩い光を放つ太陽が一際眩しく感じた。

 その後の一週間の記憶はあまり無い。切り傷や擦り傷がところどころ増えたり、食事に髪の毛が混入していたり、冷水を浴びせられたりしたが、そんな事はどうだって良かった。自分にはこの前の復習テストの結果がある。そう心待ちにしているだけで多少の諍い事にも目を瞑る事が出来た。靴もどんな時でも必ず右から履くようになった。

 そして待望の結果だったが、残念ながら満点ではなかったものの、上から数えて四番目の成績であった。

 満点を何処か期待していた手前、何処か肩透かしを食らってしまったが、自分の上に三人いるという事実が逆に自分の行動に正当性を与えてしまった。

 その日の余暇時間から自分はとにかく机に向かうようになった。端材で適当に作られた軋む机の上でひたすらペンを踊らせた。夜は星明かりを頼りに、朝は曙光を頼りに寝る時間を削って勉学に励んだ。

 そして願掛けの数も増えていった。歯を右上の奥歯から磨いたら計算ミスが減り、シャツを着る時は右袖から通すと引掛けにも気付けるようになり、靴下を左足から履いたらクラスで一番になった。

 今思えば、当時の努力は凄まじい物であったと思う。僅かな睡眠時間以外、暇があればペンを握り、齧りつくようにノートに文字を書き連ねていた。それでも自分は自分の努力を信じる事が出来なかった。


 ――全てはあの願掛けのおかげ。


 そんな馬鹿げた事を当時の自分は信じてやまなかった。一番になってからも願掛けは続き、一つでも怠れば点数が下がる。本気でそう思い込んでいたのだ。

 成功とは何ら相関の無い願掛けは日々のルーティンとなっていき、次第に自分の生活は無尽蔵に増えるルーティンで埋め尽くされた。

「〇〇君また一位らしいよ」

「〇〇君っていつもどんな勉強をしてるのかな?」

「〇〇君ずっと勉強してて凄いよね」

 そういう言葉が教室内外で飛び交うようになった頃。確かルーティンが百を超えた辺りだ。自分を取り巻く環境に変化が起きた。

 周囲から向けられていた嘲笑の眼差しが羨望の眼差しへと変わり、自分を悪く言う人間は園内の何処にもいなくなっていた。散々、自分を詰ってきた過去なんてとっくに忘れているかのように。

 児童からも教官からも。園内の誰からも一目置かれる存在になった。でもそんな事どうだってよかった。自分の居場所など興味が無かったからだ。

 協力しないと生き残れないこの環境に於いて、必要最低限の会話しか交わさない自分は一際、異質に映ったのだろう。向けられる視線の数に対して、声を掛けてくる人間など誰一人としていなかった。分厚い透明な壁が自分の周囲を覆っているかのように、彼らと自分は隔絶した世界を生きていた。

 それでも自分は幸福であった。

 ルーティンが増えていく度に漠然とした不安が消えていったのだ。

 思えば園に来た頃、いやそれよりもずっと前から自分は不安で仕方なかった。

この先の人生への希望が持てず、道標も灯火もなく手探りで真っ暗な闇を歩いていくことに対して、言葉に出来ないほど大きな不安、絶望を抱えていた。

 そんな中、ルーティンは自分の歩くべき道を舗装してくれた。自分が進むべき道を照らす星明かりになった。自分が選ぶべき運命を指し示していた。

 そして教官からの指示も同じく自分の不安を掻き消してくれた。

 自分が次に成すべき事を教えてくれるその声に自分は従った。例えそれがどんな指示だったとしても、絶対的な安心感を持って生きていく事の心地よさからはもう抜け出せなかった。

 与えられた指示を淡々とこなし、自らを縛るルーティン通りに生活を遂行すれば、誰からも悪意を向けられない平穏な日常が手に入る。それだけで十分であった。それ以上は何も望まなかった。


 そうして自分は命令通り――母を殺したのだ。

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