第一章 少年サザナミ、十二歳⑥


   ***


 長い奴隷生活で衰弱していたサザナミだったが、めきめきと回復し、少年団の子どもらに混じって鍛錬までできるようになった。

 鍛錬が終わり、騎士団の敷地内を歩いていると、前方に馴染み深い広い背中の男が目に入る。

 アキナに声をかけようと一歩を踏み出したちょうどそのとき、曲がり角から人が飛び込んできた。

 死角だったため避けられず、その人を受け止めて尻もちをつく。飛び込んできた金髪の子どもも体勢を崩して転んだ。

 その子どもがユクスだと気づくと、サザナミはその場に固まった。なぜ王子がここに、とおっかなびっくりのサザナミの感情なぞいざ知らず、ユクスは顔を上げると、眉を下げて「ごめんなさい」と呟いた。

 菫色の瞳が至近距離でサザナミとかち合う。

 サザナミは言葉を失い黙りこくったまま。ユクスはぱちくりと瞬きして、不思議そうにサザナミを見た。

「あ、あの、大丈夫ですか? おまえに会えるかなと思ってこのあたりを歩いていたら、ちょうど見つけたので走って追いつこうと思ったのですが」

「そ、そうだったんですね……」

 ユクスはそろりとサザナミの体の上から退くと、立ち上がってサザナミに手を差し出した。

 その手を取ってよいものなのかと逡巡するが、好意を無下にするほうがよくないだろうと思い、おずおずと手を重ねる。薄くて柔らかい手のひらに包まれ、サザナミの心はさわさわと揺れた。

「サザナミ、怪我はないですか」

「え、ええ。申し訳ございませんでした。ユクスさまはお怪我はありませんか」

「私は大丈夫です。あの、」

 ユクスはそこで言葉を区切ると、サザナミの手を握って一歩近づき、「こんにちは」と口にした。

 何を言い出すのかと身構えていたのにただの挨拶。サザナミは呆気に取られて「はあ」と生返事をする。

 ユクスの耳が朱色に染まっていることの意味に、幼いサザナミは気づけない。

「……こんにちは」

 挨拶されっぱなしもよくないので、そう返してぺこりと頭を下げる。ユクスはほんのりと頬を染めて満足げに微笑んだ。

 王子がいったいなんの用なのか尋ねたい気持ちはやまやまだったが、相手は殿上人。自分から話しかけることが許されないことくらい、元奴隷のサザナミも理解していた。

 ふと、騎士団員たちが騒がしくおしゃべりをする声が近づいてくる。

 ユクスはぱっと顔を上げ、「行かなくては」と口惜しそうに呟く。ぱたぱたと足音を響かせ、消えていった。

 ユクスの後ろ姿を見送りながら、サザナミは首を傾げるのであった。


「おうサザナミ、どうしたんだ」

 そんなサザナミに気づき、後ろから声をかけたのは騎士団長のアキナだ。

「アキナ団長、おつかれさまです」

 アキナはふり返って敬礼するサザナミの姿を認めると、サザナミの髪を勢いよくわしゃわしゃと撫でた。なぜかアキナはサザナミに会うたびに髪をぐしゃぐしゃに撫でるのであった。

「ちょ、やめてくださいよ。犬じゃないんだから」

「ああ、悪い。で、どうしたんだ。こんな道の真ん中に突っ立って」

「ユクスさまがいらしていて」

「坊ちゃん、また来たのか。懲りないねぇ」

「団長、ひとつ聞きたいことがあるのですが」

 瞬時に真面目な顔つきになった少年をまじまじと見て、アキナは「なんだ」と続きをうながす。

「ユクスさまはなにが目当てで俺に会いにきているのですか」

「は?」

 思ってもない質問に、間抜けな声がアキナから漏れる。

「なんか、あの人、あ、あの人とか言っちゃった……ユクスさま、もともとあまり外に出なかったんですよね。でも、さいきん、俺が騎士団の仕事をしているとたびたび呼び止めてくるんです」

「坊ちゃんとどんなことを話すんだ」

「いえ、なにも。なんか気まずそうな顔をして俺のことを見て、最後に必ず手を握って帰られるんです」

「なんだそりゃ」

 アキナは笑う。

「俺が聞きたいですよ。でも許しもなく質問をしていい立場にはないですから、ユクスさまが口を開くまで俺は黙っているしかないんです」

「そうかい」

「いったいなにが目的なのでしょうか」

「いやあ、それはね……」

 サザナミに真剣に見つめられ、アキナはついと目をそらす。わが国の王子は友だちの作り方をしらないだけなんです、だなんで口が裂けても言えない。

「団長はご存じでないですか」

「知らないねぇ」

 アキナはしらを切る。しかし、サザナミがしゅんとうなだれる様子にいたたまれない気持ちになり、思わず口を開いていた。

「本人に聞けばいいんじゃないの」

「俺から話しかけていいものなのですか。俺の国では、目上の人間に話しかけるのはご法度でした」

「アルバスもそうだけど、まあ、あの坊ちゃんはなーんも咎めないよ。次会ったときに聞いてごらん」

 な、と騎士団長はサザナミの頭を撫でた。

 サザナミは釈然としない顔をして去っていった。

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