夜摩の村
まだ気持ち悪い。
ディナはそう思って目を開いた。
目の前にヨルの顔がある。その膝に座っている事に気が付いた。
「…あれは無理」
「そうか」
ヨルが小さく肯いた。
それからディナを持ち上げて、風呂場に向かう。
その場で服を脱がせて、顔と髪を濯ぎだした。当たる水流にディナはぼんやりとしている。まだ力が入らないのか洗われるままになっていた。
ヨルが顔を覗き込むが眼は開いている。
タオルで拭いてもまだ自主的に動かなかった。
ベッドに寝かすと、目を閉じて眠ってしまった。
寝る前に洗えてよかったと思ったが、そのショックを考えなければならなかった。
次に遭遇した時には、ディナはどこかに飛ばさなければならないだろう。
すぐさま思いついたのは、プレシャの所だった。
しかし万が一も考えると、もう一か所決めなければならない。
出来ればこの半球とは別の大陸が良いのだが。
悩んだ末に、連絡をしてみた。
数回コール音が鳴る。
相手がおずおずと答えた。
『はい。ヨル様ですか?』
「ああ。頼みたい事があるのだが、ケティはいるだろうか?」
『お母さんは、畑にいます』
「そうか、呼んで貰えるか?」
『遠いです』
拒否をされた。うん、これは末っ子だな、多分。
まだ小さいからなあ。
ヨルは話しを諦める。
「通信があった事だけ、伝えて貰えるか?」
『分かりました』
「ああ、よろしく頼むよ」
『はい。では』
きっと尻尾が立っていたろうな。
緊張している姿が容易に想像できて、ヨルが小さく笑った。
まあ、そっちは後でもいい。
プレシャに頼むとすると、ハトゥラに転移ステーションを置かなければならなくなる。”覚醒“もして、ステーションも置くとなると随分優遇しているように見られるだろう。
さすがに、ただの田舎と放置できなくなる。
そこまでしてもいいのかどうか。
発展という物は、望んでいればいくらしても良いが、望んでいないのならするべきではないと思う。ハトゥラの住人はそれを願うだろうか。
ヨルは悩みながらプレシャに連絡を取った。
「いま、話してもいいだろうか?」
『はい、大丈夫ですが』
「相談なんだが」
『相談、ですか?』
「ああ」
ヨルが言い淀んでいるのを、プレシャは待っている。
「ハトゥラに転移ステーションを置いても良いだろうか?」
『え』
プレシャが小さく言ってから黙った。
小さくカチッと音がした。煙草を吸ったんだろうなあと察したヨルは、プレシャが落ち着くまで待っている。
『先の、”鏖”と関係がありますか?』
「ああ」
『ディナ様ですか?』
「ああ」
またプレシャが黙った。
ヨルも黙って通信を聞いている。
『お断りしても良いですか?』
「……ああ、分かった。すまないな、無理ばかり言って」
『いえ』
「ありがとう。また、何か有ったら連絡する」
『はい。それでは』
通信を切って、ヨルは溜め息を吐いた。
随分無理を言ったと思う。これ以上は酷だろう。
別の場所を探さなければ。
かと言って、信用できる人物が今は思いつかない。
それでもこれを遅らせてはいけない。移動をする限り奴らのどれかには出会うし、それが次の瞬間ではないと保証も出来ない。
ヨルは指を動かして、世界地図を出してそれを眺めながら、そこにいる守り人を思い出す。今いる人員は大概、前にいた人員の孫だったりして面識が少ない。
どうしてもと考えるなら。
ヨルはこの星の上部分のさらに上を見つめた。
声を出せば答えるだろう。
信用と言うよりは信頼している。そういう相手ではあるのだが。
自分とは意見が違い過ぎる。特に天空都市については全く意見が対立している。
安全と言えば一番安全だろう。
ステーションも、もう設置されている。他の誰にも迷惑はかけないだろう。
しかし。
やはり無理だろう。ディナを送ってしまったら、返してくれないかもしれない。
指先を動かして、氷の島を大写しにする。
ここならば安全なのだ。
だが。
ヨルは外に出て煙草を咥えた。
やはりだめだ。
青い空を見上げる。
俺の気持ちではなく、ディナの生存を考えるなら。
けれど。
泣きたい気持ちで空を見ているヨルの後ろから声が掛かった。
「何か音がしているよ、ヨル」
振り向くとまだ少し青い顔をしたディナがドアから覗いていた。
「音?」
「うん。なんか、鈴みたいな音」
「…ああ」
ヨルが中に入って通信をすると、柔らかい声が聞こえた。
『先ほどはすみませんでした、ヨル様』
「いや、ケティが畑だって言うから、後で良いと言ったんだ」
『あの子は失礼がなかったでしょうか?』
その言葉にヨルがくすりと笑う。
「ちゃんとしていたよ、大丈夫」
『そうですか。それは良かったです。それでヨル様、お話と言うのは?』
「ああ。緊急の時だけでいいのだが、人をそっちに送っても良いだろうか」
『人を?私達の村にですか?』
「…ああ」
ヨルの声を聴いて、ケティは少し考える。
『その方が驚かなければ、良いですよ』
ヨルが小さく息を飲んだのも、ケティの耳には届いていた。
またこの人は、と、通信の向こうでケティが苦笑する。
『ヨル様。あなたは我々の恩人なのです。もっとはっきりと命令しても良いんですよ?』
「…それ、は」
『もう。おばあ様ほどあなたを知っている訳ではありませんが、もっと甘えて下さい』
ハハッとヨルが笑う。
「ケティには敵わないな」
『私にかなうのは、一生無理ですわ』
「そうかもしれないな」
はあっとヨルが吐いた息を聞いて、ケティが進言する。
『慣れて貰う為に、今からその方とこちらに来ませんか?』
グッとヨルが詰まったのも、ケティには聞こえている。
『いいから、来て下さい』
ヨルが降り返ると、思ったよりも近くにディナがいた。
「私の話?」
「ああ」
「どこかに行くの?」
「…そうだな行ってみるか?」
「うん」
少しディナが笑う。
「ケティ、其処に飛ぶ」
『分かりました。回線は開けてあります』
ディナの手を取ったヨルは、ディナに伝える。
「目を閉じてディナ」
「うん」
目を閉じたディナは少し体が震えた気がした。
「あら、可愛い人ですね」
聞こえた声に目を開けたディナは、その声の持ち主を見て固まった。
「久しぶりだな、ケティ」
「はい、久しぶりですねヨル様」
ディナの前には二足で立っている猫がいた。
大きさはディナと同じくらいか少し大きい。
「え、と」
「こんにちは」
「あ、こんにちは」
傍には同じように、二足歩行の猫がたくさんいる。
「こ、ここは!?」
ディナの慌てぶりにヨルが苦笑する。
「此処は夜摩の村だ」
「やま」
「ああ、この地上でもここにしかいない種族だ」
ヨルの説明にケティが頷いた。
「ヨル様が私達を保護してくださっているのですよ」
「ううん。持ちつ持たれつなんだが」
傍に居る別の夜摩が手に持っている箱を見て、ディナが納得をした。
「ヨルの煙草、ここで作ってるんだ?」
「そうだ、ここで作ってもらっている」
手渡された箱を持ってヨルが笑った。
「サンディも手伝えるようになったのか」
「はい」
煙草を渡した相手が小さく肯いた。
ディナがキラキラした目で、ヨルを見る。
その眼を見てヨルが溜め息を吐く。
「触りたいなら、断って聞いてからにしなさい」
「うん」
ケティが苦笑する。
「人族の方は、私達が好きですね」
頬に手を当てているケティを見ても、ディナの目は輝いている。
ケティの子供たちが数人ヨルの傍に来た。
並んで頭を下げる。
「ヨル様ありがとうございます。僕達、本を読めるようになりました」
それを聞いて、ヨルがケティを見る。
「学校が出来たのか」
「はい。ヨル様が下さった本と文房具で何とかやっていますわ」
「運営費と、道具をもう少し置いていく」
「有難うございます」
ヨルの傍の子たちの頭をヨルが撫でる。それを見てディナも手をワキワキとさせた。
「私も撫でていい?」
少し鼻息が荒い。あきれ顔のヨルがこの子たちは駄目と子供たちを解散させる。ディナの傍に少し大きな子供が近寄った。
「僕なら良いですよ、人間さん」
「え、うん。ありがとう」
そっと頭を撫でて、ふわふわを堪能する。
けれど、撫でている高さの違和感に手を止めた。ディナの手が止まった事にサンディが首を傾げる。
自分と同じ高さの目線に、ディナが手を離した。
「ありがと」
「はい。それでは失礼します」
サンディは頭を下げて、仕事に戻っていく。
ケティはヨルと話していた。
ディナが周りを見渡すと、家の外の畑で皆が仕事をしている。
さっきヨルの傍に居た子供たちも、畑で草むしりをしていた。
興奮して撫でるのは何か違う気がしたディナはヨルの傍に近付く。
近くに来たディナを見て、ヨルが小さく笑う。
「もう良いのか?」
「え、うん。なんか違う気がしてやめた」
「そうか」
ケティが頷く。
「飼われている猫と私達は違いますからねえ。愛玩は小さな猫さんにして下さいな」
微笑んで言われると、ちょっぴり触りたくなるがディナは我慢した。
「うん。そうします」
「はい」
ニコニコしているケティは綺麗な白い猫で、多分凄い美人さんだ。
「ここに居る事に違和感はないか?」
「え、わたし?うん、ないよ?」
「そうか」
何処かほっとしたヨルの顔をじっとディナが見つめる。
そのディナにヨルが言った。
「怪異と戦わなければならない時はディナを此処に送る。それを理解してくれ」
「え、それは」
嫌だと言いそうになったディナは、ヨルの顔を見た。
きっとすごく悩んでここに決めたのだろう。隣に立っているケティも微笑んでいるが、積極的に言ったわけでは無いだろう。
さっきの会話だって聞いていたし理解できる。
「プレシャさんの所じゃ駄目なの?」
聞くとヨルが困った顔をした。
「断られた。あの身体の状態が何度でも繰り返されるから、出来ればここに来てほしい」
断った。私が身を寄せるのを。
ディナがまじまじとヨルを見る。その目線に小さく笑う。
「仕方ない。それぞれの都合があるんだ」
「そうなんだ」
ディナはケティに頭を下げた。
「よろしくお願いします。ヨルの運転についていけなかったんです」
「いや、そういう言い方は」
ケティがコロコロと笑った。
「ヨル様も形なしですね。はい、こちらこそよろしくお願いしますね」
「はい」
「私の子供がたくさんいるので、家は狭いですけど」
困って笑うケティにディナも笑いかける。
「むしろ良いかもです」
皆とぎゅうぎゅうに寝れるのも、ご褒美かもしれない。
ほっとヨルが息を吐いた。
ディナもケティもヨルを見た。その吐息は少し泣きそうだったから。
「ありがとう。ディナに此処の回線の物を渡すよ」
「あら、予備がありますよ?」
ケティが持ってきたのは、夜摩仕様のモフモフバンドでディナは速攻に採用した。
「ヨル?これでもいいんだよね?」
「…ああ。そんなに握りしめているものを取り上げないから」
ディナがニコニコしているのを、ケティが微笑んで見ている。
「ここには連絡が入っていないと思うが、”鏖”が反対の大陸で出たんだ」
「ああ、それで。守り人がいないのはこういう時は不便ですね」
「…ディナを預かってくれるなら、細かく情報は流そう」
「有難うございます」
ヨルの手元をケティが見つめる。それは“鏖”の位置情報だった。
実際の出没した地点よりも、深度の方を気にしている。
「おばあ様なら、もっと分かったと思うのですが」
「そうだろうな。あんな守り人はそうそう居ないよ」
その話にディナが入って来る。
「ケティさんのおばあさんが守り人だったの?」
「ええ」
ヨルが苦笑する。
「物凄い強い人だった」
「おお」
ヨルが褒めるほどの守り人。
「あの斧は誰も振れないだろうな」
「そうですねえ」
ケティも困ったように笑う。
「あんな大斧、誰も担げません」
それはすごい。ディナが目を丸くする。
この猫さん体型で大きな斧とは。銃じゃないんだ。
「もちろん銃も使っていたけど、どれもショットガンだしなあ」
「はい。ダブルバレルが好きでしたね」
二人が困ったように笑うのをディナが眺めている。
ここに居るヨルは少し安心しているようだ。何時ものヨルと違う。
やっぱり、もっときちんと見極めないと駄目かもしれない。
ディナがヨルにくっつくと、ケティが小さく笑った。
「それでは、いつでもどうぞディナ様」
「はい。お世話になります」
ディナもケティも笑っている事に、もう一度安心したヨルは、ディナを連れて自動ハウスに戻った。
家に着いた途端に、ディナは指輪を外した。
それをヨルが見ている。
「私が嫌なら、話さなくていい」
「…そうか」
「後で、プレシャさんの耳のも外してきて」
こういう気質は天空人だなあと、ヨルが眺めている。モフモフの腕輪はディナの手首に既にはまっている。
ベッドの横の引き出しの奥に指輪はしまわれた。さすがにヨルに貰った物を捨てる気にはなれなかったからだ。
それでもディナは怒っていたし、ヨルはその気質を知っているとはいえ、複雑な理由とかを説明できない事に、少しだけ困っていた。
ディナの安全が一応確保できたことで、ヨルもそんなに気にしなかったが。
そんな事よりも。
小さい猫さんを少し欲しくなっているディナが、じっとヨルを見ていた。
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