思い出のカラフト

びっけ

1 一 日露史上の樺太(1)樺太・千島交換までの経緯

 カラフトには、早くから南部には主としてアイヌが、中部には主としてオロッコが、北部には主としてギリヤークが住んでいたと言われている。東経百四十一度三十八分から百四十四度五十五分、北緯四十五度五十四分から五十四度二十四分の間に、南北に細長く横たわっているこの島は、宗谷海峡をへだてて北海道に接し、間宮海峡をへだててシベリヤ大陸に接しているが、その位置から考えて日本列島やシベリヤ大陸との間に、早くから交流のあった事は容易に考えられる。



 【ソ連の主張は正しいのか?】


 然し「サハリン全土は我々が最初に発見し、最初に定住し、最初に探検し、最初にロシヤ領に編入した権利により、我が母国に帰属するものである。」とソ連側が主張しているようであるが、これはあまりにも独断にすぎる。ロシヤがウラル山脈を超えて東方に進出しはじめたのは、十六世紀の後半からであり、太平洋岸に達し、オーツク市を建設したのが十七世紀前半である。更にアムール河北岸や、沿海州を領有することになったのは、更におそく愛琿条約や北京条約によって、清国から割譲を受けた一八五八年以後である。従ってロシヤ人が樺太に足跡を印したと考えられるのは、十六世紀後半以後であると考えるのが自然である。

 然し日本人の樺太への接触は、ロシヤのそれより遥かに早く、伝説的に語られているところでは、平泉を逃れた義経が北海道に渡り、更に樺太に渡り、その後大陸に渡ったと、アイヌ達の伝説の中に語られているようである。史実に残っているところでは、日蓮上人の高弟日持上人が、永仁三年(一二九五年)樺太に渡り、白主において土人の教化に努めたと言われている。そして豊原市郊外に日持上人の銅像が健立されてもいた。


 【松前藩の巡見使北蝦夷を巡る】


 下って、松前藩が蝦夷地を治めるようになってからは、樺太を北蝦夷と称して、多くの日本人が漁業や交易のために渡った事は明らかである。松前藩は、寛永十二年(一六三五年)と寛永十三年(一六三六年)の二度にわたって、北蝦夷に巡見使を派遣している。特に二度目の巡見使の一行は、北方多来加湾の附近まで足をのばし、地図作製の資料を収集して帰ったと言われている。その後白主に運上所が置かれ、南部の沿岸各所には漁業のための番屋が設けられたという。松前藩の巡検使が樺太に足跡を印した以前に、ロシヤ人は樺太の地に足跡を印してはいない。ロシャ人で棒太に始めて接近したのは、(一六四四年)、ワシリー、バヤールコフの一行だと4言われている。この一行は小人教のコザックの集団と共に、アムール河を下りその河口附近で冬営したと言われている。この一行が樺太を望見した最初のロシヤ人達であったと思われる。


 【樺太の離れ島であることの確認】

 当時のヨーロッパ地理学者達は、殆んど樺太は大陸の半島であると考えていたようである。樺太が離れ島であることを最初に確認したのは、(一八〇八年)間宮林蔵と松田伝十郎の樺太探検によるものである。両名はこの年の春探検の壮途につき、林蔵は東海岸を、伝十郎は西海岸を、それぞれ海岸づたいに進み合流した両人の探検によって、大陸の地続きではなく離れ島であることを確認したのである。林蔵はその後直ちに単身海峡を越えて大陸に渡り、清国の徳楞デレンの仮府を訪れ、ここからアムール河を下り引き返した。この際林蔵はアムール河流域の地図も仕上げたのである。ロシヤのネヴェリスコイ大佐指揮の遠征隊が樺太が離れ島であることを確かめたのは、間宮林蔵の探検より四十年も後になってからである。

 「疑いもなく第一回探検に伴う権利は、日本人に帰属するものであり、また日本人こそ南樺太を最も早く占拠した人たちであった。」とアントン、チェーホフも述べているところである。

 こう考えて見ると、現在ソ連が主張する「最初に発見し、最初に探検し、最初に定住し・・・・云々」ということは、全く歴史的な根拠がないものと言っていいと思う。


 【ロシャの東方進出と樺太における境界問題】


 然しこうした事はさておき、ロシャが東方に進出しはじめ、沿海州、カムチャッカ方面に勢力を拡張してくるに及んで、我が北境の千島、樺太をって、日露両国間にしばしば紛援をした。


   ああ我が樺太

     日露の史上

   幾多の曲折

     思えば長し


 これは土井晩翠作、大泊中学の校歌の一節であるが、樺太の所属について、日露の抗争は長かった。一八五〇年代になって、当時鎖国政策をとっていた我が国に対して、西欧諸国がしばしば通商を求めて来航した。国内には壊夷論も盛んだったが、結局幕府はこれらの国々に開港し、和親通商条約を結ばざるを得なかったのである。ロシヤに対しても安政元年(一八五四年)下田において和親条約を結んだが、この際北辺にかける領土の境界についても協議が行われたのである。

 千島列島については、エトロフ島とウルップ島の間のエトロフ水道を境とし、それ以南を日本領、それ以北をロシャ領とすることで合意をみている。樺太については、日本側は北緯五十度線を境界とすることを主張し、ロシヤ側は、樺太南部の一小区域を日本領として認め、他を全部ロシャ領とすることを主張して、ともに譲らず、結局樺太については、従前通り両国の雑居の地とすることにしたのであった。

これから考えて見ると、現在ソ連が占領している北方領土のうち、エトロフ水道以南の択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島や樺太南部は日本古有の領土としてロシヤ側でも認めていたところである。


 【ロシャの野望と日本の主張】


 其の後ロシヤは愈々いよいよ東方の経営を進め、樺太全島をもその手に収めようとする野望を持ち、安政六年(一八五九年)東部シベリヤ総督ムラビヨフが自ら軍艦を率いて品川に来航し、樺太全島をロシヤ領とすることを主張し、宗谷海峡をもって両国の境とすることを幕府に迫った。

然し幕府はこれに承知せず、北緯五十度線を国境とする主張をして譲らなかった。遂に流石のムラビヨフもあきらめて帰らざるを得なかった。文久二年(一八六二年)幕府は、竹内下野守を正使とし、松平石見守を副使とした一行二十四名の使節をヨーロッパ各国に送って、通商・開港等のことについて協議させたのである。この際、一行は露都ペトログラードにも立寄り、樺太の境界についても協議したのであった。最初は両国代表ともそれぞれこれまで通りの主張を繰返して譲らなかったが、最後には日本側の主張に理解を示し、後日現地を実地調査して国境を画定しようという合意をみて、使節一行は帰国したのであった。其の後徳川幕府が倒れ、維新政府が出来るまでは、日本の国内事情は多忙をきわめたため、国境画定のこともそのままに過ごされていた。


 【樺太、千島の交換】


 維新政府が出来て、政府部内にも、日露の間に紛争の要因を含んでいる樺太の経営について、いろいろな意見が分かれていた。第三国の仲介によって国境を画定しようとする意見もあった。

買収しようと言う意見もあった。更に北海道の開拓が急務であり、樺太経営には手がまわりかねる。従って樺太を犠牲にすることも止むを得ない。と言う意見もあった。結局、最後の意見が通って、樺太と千島の交換をすることになり、明治八年(一八七五年)我が国とロシヤとの間に、樺太千島の交換文書が正式に取り交わされたのであった。この時以来、樺太全島はロシヤ領になり、千島列島全部が日本領になったのである。然し樺太における日本人の漁業権はその後も留保されていたので、相当の日本人が居住していて、日本人町も出来ていたし、日本の領事館も置かれていた。

 尚その頃ロシヤの樺太開発には、主として囚人を使ったということは余りにも有名な話であり、多くの流刑囚が送り込まれ、それらにまつわる多くの暗い話題などが聴かれたものだったという。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る