#2:転入生・戸毬木羽衣

 私立海坂高校。

 瀬戸内海に浮かぶ無数の島々のひとつ、渦島をまるまる領土とする全寮制の進学校というのがこの高校の全容となる。だからつまり、今朝の散歩コースである防波堤のある海沿いの道や砂浜に至るまでのすべてが、驚くべきことに海坂高校の敷地である。

 確かにパンフレットでその情報を知った時は驚いたし、渦島に来て本当に島全部が学校になっているのを見てさらに驚愕したけれど、とりあえずそこはさして、わたしにとって重要ではない。

 獄中の父親の死。それはつまり、自身の保護者がこの世を去ったという事であり、庇護者の消滅を意味していた。たとえ獄中にいようと親は親。重刑ではあったけれど死刑でも無期懲役でもなかったために舵を切りかねていたわたしの人生の指針は、これでおおむね決まった。

 天涯孤独の身の上となったからには、自分で生きていく術と算段を身に着けるほかなく、さらに言えばそうした知識と技能と資格を身に着けるまで、雨露をしのぐ場所も必要だった。父親の起こしたことの重大さを考えれば、地元から遠く離れられればなおいい。海坂高校はそうした条件を諸々クリアした最適な場所だった。

「体の方はもういいの?」

「はい。おかげさまで」

 そろそろ朝のHRが始まろうという時間になって、わたしは校舎二階の廊下を歩いていた。もちろん、目的地は自分の新しい教室である。一年四組だ。

「ま、仕方ないよね。あれだけテストが続けば」

 わたしの隣を歩くのは、担任教師の鮎川美里あゆかわみさと先生である。きちっとしたパンツスーツを着込んだ、年のころは二十代後半に見える先生だった。いかにも真面目そうだが、わたしは彼女が学校の生徒から「あゆねぇ」呼ばわりされているのを一度だけ聞いたことがある。今のところ彼女から「あゆねぇ」成分を検出していないのでその綽名の評価に困っている。

「そうですね。そのおかげで奨学生になれているので」

 そう。海坂高校で重要なことがあるとすれば、そのひとつが奨学生制度である。枠は狭いが、抜擢されれば入学金も授業料も払わなくていい。将来に向けて存分に節約したいこちらとしてはありがたい…………とかいう呑気な話ではない。残念なことにこちらには入学金どころか半期の授業料を払う金銭能力すらない。テスト続きで発熱とか大げさだと自分でも思うが、それくらい命と人生を賭けていたわけである。

 それともうひとつ、重要なのは…………。

「よーし、お前ら席つけー」

 教室に着いた。この学校の一般教室は、わたしが前に通っていた学校と同じくらいだが、全体的に広く感じる。それもそのはずで、少人数体制を敷いているのが自慢の海坂高校は一クラス二十人しかいない。縦四列横五列では広く感じるのは当然だ。一学年四クラスだから、全体でも生徒は二四〇人。高校にしては随分少ない方だろう。

 ちなみに生徒総数はおおよそではなくきっちり実数である。この学校、几帳面に生徒総数を二四〇人で揃えている。

 進学校というからどれほどの真面目人間が通っているのかと緊張しいしいだったが、教室の雰囲気は弛緩していて固くない。各々クラスメイトと話し込んでいた生徒たちは、先生の号令でおとなしく席に着いた。

 わたしは先生と一緒に教室へ入ったものの、入り口で足を止めた。転入初日の作法なんてあいにく心得がない。さすがに少し、怖気づく。

「今日は出席取る前に、前に言ってた転入生を紹介する。本当なら先月末に入ってくる予定だったが、いろいろあってね。六月頭なんて変な時期に入ることになったが、まあ仲良くやってくれ」

 さばさばと鮎川先生は話を進めていく。しかし仲良くしろといいつつ微妙に気にしている転入時期の話をさらっと持ち出されてもな……。

「それじゃあ自己紹介して」

「ああ、はい」

 隅で縮こまっていても仕方ないので、教室の前方正面に意を決して立った。

「えっと……。今日からみなさんと一緒に学ばさせていただきます、戸毬木羽衣といいます。よろしくお願いします」

 お辞儀して、顔を上げる。軽い拍手が起こって、一応歓迎ムードらしいのに安心する。ふとそこで、席に着いた生徒の中に茶色がかった黒髪の、眼鏡をかけた男子生徒がいるのに気づく。あれは……今朝砂浜にいた男子に似ている気がする。そういえば一年四組だと章魚理事は言っていたな。

 さらに気づいたのは、席が二つ空いていることだった。ひとつはその男子生徒の左隣。もうひとつはその空席の前方である。ひとつはわたしの席として、もうひとつは誰のだろう。休みか……?

 その時、どたどたと廊下を駆ける足音が聞こえた。

「すみませんっ。遅れました!」

 わたしたちが入ってきた、教室前方の扉から白い塊が弾丸のように飛び込んできた。当然、それは学校の制服を着た一人の生徒である。

「うわっ」

 思わず飛びのく。いやまあ、正面衝突の危険はまったくなかったのだけど、HRの始まった教室にここまで勢いよく飛び込んでくる生徒など想定していなかったし……。というか今朝からわたし、驚いてばかりでは。

 その不埒な生徒は、黒髪を精悍に刈り込んだ男子である。寮からここまで走って来たのだろう、右手のベレー帽を団扇代わりに仰いでいる。

 わたしはその男子生徒の顔を見上げることになる。比喩でも何でもなく、文字通り。そいつの背丈は非常に高かった。わたしが低いというのもあるけれど。章魚理事ほどではないにしろ、成人男子全体と比較してもそいつは背が高いだろう。

「ちょっと、白鵜」

 教室の隅にいた鮎川先生がその男子に声をかける。

「あんたが遅刻なんて珍しいじゃない。どったの?」

「いやあ、いつも通り粒太を起こしに部屋に行ったんですけど、今日はまったく出てこなくて。近隣から苦情が出るいつもの大音量目覚ましも鳴っていなかったですし、ひょっとしたらこれは死んでるかなと思いつつも時間がギリギリになってしまったので、見捨ててすたこら走ってきたわけです」

「勝手に殺すな」

 声を上げたのは、例の眼鏡だった。

「俺の寝起きの悪さはワールドクラスだ。だからいつも起こしに来なくていいと言っているだろう」

「え、あ、いた。足ちゃんとあるよね?」

「だから殺すな!」

 わいのわいのと騒ぐ。あっという間に蚊帳の外だが、何がどうなっている?

「………………うん? 君は?」

 あ、気づかれた。

「誰かの妹さん? 迷子かな?」

 背の高い男子は軽く腰をかがめて、わたしと視点を合わせた。そこではじめて、そいつの目の、穏やかにほほ笑むような豊かさが誰かに似ている気がして、すぐに章魚理事を思い出した。目と、背の高さがそっくりなのだ。体格は肩幅も狭く、ラグビー選手もかくやという理事と違い、モデルでもやった方がよさそうな感じだが、それは鍛え方の差なのだろう。こいつは決してひょろひょろではない。袖から伸びる腕は細くとも筋肉質でしなやかだった。

「前に言ったでしょ。その子が例の転入生」

 鮎川先生が説明を繰り返す。

「こんなに小さいのに?」

「あんたと比べたら大抵の人間が小さいでしょ。それを差し引いてもこの子は小さいけど」

 差し引く必要あった?

「そうだ。まだみんなに言ってなかったけど、戸毬木さん、まだだからこの学校どころか高校に慣れてないと思うし、フォローしてあげてね」

 おい!

 先生が提示した追加情報に、教室が少しだけざわめいた。

「今話す必要ありました? 今話す必要ありましたかそれ!?」

「あれ? 言っちゃダメだった? どうせすぐばれるって」

 あゆねぇだな? これがあゆねぇだな!?

「まー、自体はうちの学校じゃ珍しくないって。さすがにあなたほど年が離れたのが入ってきた例はないけど。すぐ慣れるよ。ほい、じゃあ席は白鵜の後ろだから、案内してあげて」

「はい、わかりました」

 あれよあれよというまに話が進んでいく。白鵜はわたしの手を取って、席の方に連れて行く。エスコートと言えば聞こえはいいけれど、完全に子ども扱いされている。

「そういえば、名前をまだ聞いていなかったね」

「………………」

 それはあんたが遅刻したからだろうに。まあ、遅刻の原因が原因だけにあまり強く言えないが。

「戸毬木羽衣。あんたは?」

「僕は魚河岸白鵜はくう。よろしく」

 魚河岸…………。似ているとは思ったが、そう来たか。

「しかし転入とは……」

 白鵜が呟く。

「五月の事件もまだ終わっていないのに…………。気の早い」

「……………………?」

 その呟きは、わたしに対してなされたものではなかった。だが彼の言葉で、ひとつ思い出した。

 海坂高校の全校生徒は二四〇人。少数精鋭の進学校として、生徒総数はきっちりと定められている。今回わたしが転入したのは、その枠が転入生の募集がかかったからだった。

 思い出した、のではない。たぶん、考えないようにしていた。わたしという転入生の意味を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る