無差別ラブレター事件:恋愛禁止令高校事件録・試論

紅藍

#1:プロローグ

 どこまでも続く灰色の空。風は少し強く、波は高い。海というのはもっと穏やかで明るい色をしていると思ったのに、生暖かい外気と反比例するように酷薄で冷たい景色がわたしの目の前に広がっていた。

 そういえば小学生の頃、図工で海の景色を想像して描けなんて言われたこともあった。その時、みんな一様にべたっと線状に続く水平線を描いていたけれど、海の装いはそればかりではない。わたしの眼前に広がる海には無数の小島が点在していて、水平線を拝むのも難しい。島は大きな橋で遥か彼方に見える本島につながっているものもあれば、たぶん船でも用意しないとたどり着けないだろう孤立したものもある。手を伸ばせば届きそうなくらい島と島は近いのに、それぞれの島は絶望的なまでに隔絶している。そんな、寂しい印象を受けた。

 湿った防波堤の上に腰掛けるわけにもいかず、立ち尽くしてぼうっと濡れた砂浜を見ていた。わたしの目に映る海、空、砂浜、そのすべてがイメージするものからかけ離れている。今まで、海なんて海水浴でしか来たことがなかったから当然なのかもしれないけれど。波打ち際にはずらりと漂着物の枯れ木やごみが散乱して、端的に言って酷い有様だった。

 ふと、砂浜に一点、白い粒のようなものが見えた。それはもぞもぞと、こちらに向かって近づいてきているように思える。目を凝らしてじっと観察すると、人間の姿を捉えることができた。白いスラックスに青いセーラーカラー、赤いスカーフ。ベレー帽まで被っていて、近代の水兵の亡霊でもでてきたかのごとくだが、それはパンフレットで見た通り、この高校の男子制服である。いくら島にある高校だからって制服をセーラールックにする必要もないだろうが、制服デザイナーの腕がいいのか当人の着こなしに隙が無いのか、あまり浮きだった印象はない。精悍さと清新さを調和させた立ち姿である。

 わたしは防波堤を下りた。正確には身を隠したのだった。どうにもその男子生徒が人目を忍ぶように周囲を見渡すものだから、こちらも空気を読むことにした。幸い防波堤の背はわたしより高いから、ひらりと下りればそれで事足りる。

「うーん、彼は何をしているのかね?」

「うわっ!」

 いつの間にか、隣に人がいた。

「ああ、いや、驚かせてすまないね」

「………………」

 その人は、実に悠々とした大男だった。身長は一八〇センチどころか二メートルあってもおかしくない。肩幅も広く、スーツを着ていても筋骨隆々なのだろうなと直感的に理解できる。そのスーツだが、こんな大男ならところどころサイズが合わなくても不思議ではないのに、全体的にゆったりとした採寸なのか皺ひとつなく折り目正しく着こなしている。たぶんオーダーメイドなのだろう。金持ちめ、とシンプルな悪態をつきたくなる。

 だが、次第に目線がそちらに移って仕方がないのは堂々たる禿げ頭である。天を突くような大男の禿げ頭。正確にはスキンヘッドと表現するべきだが、この人に関しては「禿げ頭」という言い方が適切な気がしてならない。これだけ威風堂々と禿げ頭を人前に晒せるとは、さては全中年男性の希望の星か。

「ふふ、しかし朝の散歩はこれだから飽きない。思索にももってこいだし、新しい出会いもある。そしてひょんなことから出歯亀ということもね」

「……出歯亀、ですか」

 どっちかというとこの人はタコだろう。外見的にも

「彼は一年四組の貝原くんじゃないかな。遠目だとどうにもあれだが……うん、やっぱり貝原くんだ。彼がこんな朝早くに動いているとは珍しいね。品行方正だが朝寝坊だけが悪い癖と聞いていたが」

 と、男はかけていた眼鏡の奥の瞳を柔らかく輝かせて、こちらと砂浜の方を交互に見ながらそう言った。この人の背は防波堤より高いので、覗き見も楽々である。かくいうわたしは制服が汚れないよう気を付けながら、防波堤に噛り付いてようやく顔を出せた。

「しかし彼は何をしているのかな?」

「さあ…………人の目を避けているのは確かですが」

 男の言葉に、わたしは自然と言葉を返していた。初対面にも関わらず、そうするのが当然だと自分でも思えてしまう。

「だがこちらには気づいていない。遠い上に防波堤に隠れているとはいえ、注意すれば気づく位置にも関わらず」

「ならば、こちらに気づかないほど注意力が散漫になっていると?」

「そうだろうね。すると彼がそれほど注意散漫になる理由とは何だろう。それにそもそも、人の目を避けながらこんな開け広げな砂浜に来ているというのも変だ」

「砂浜に用があるのならさして奇妙でもないでしょう」

「おお、それもそうだな」

 そんなことを話しているうちに、その男子生徒――男の言葉を信用するなら貝原というらしい――は歩みを止めた。ちょうど、わたしたちの目の前である。無論、距離はそれなりにあるけれど。

「何かを探している、という様子でもないですね」

「足を止めたな。相変わらず周囲を探しているが、どこか一点により注意が注がれていると思わないかね?」

「…………ええ、はい」

 男に言われて気が付く。男子生徒の視線がより多く注がれる一点。そこは砂浜に出るため防波堤に設けられた階段である。たぶん男子生徒も、そこから砂浜に下りたのだろう。

「………………誰かを待っている?」

 たぶん、答えはそれだろう。砂浜で待ち合わせ。先んじて訪れた男子生徒は、相手が来るであろう方向に注意を払っている。

「でも、誰を――――」

 強い風が吹く。被っていたベレー帽が頭からふわりと離れる。防波堤のへりを掴んでいたために、帽子を押さえることができなかった。

「おっと」

 慌てて防波堤から降りたところで、男の腕がにゅっと伸びて空中の帽子を掴んだ。

「………………ありがとうございます」

「いやいや」

 帽子を受け取って被りなおす。男はジャケットの袖を僅かにめくって、腕時計を確認した。

「そういえば、自己紹介がまだだったね」

 男は呟いて、また柔らかく微笑んだ。

「私はこの学校の理事をしている魚河岸章魚しょうぎょという者だ。まあ、理事といっても会議や集会に飛び回って愛想笑いをするのが仕事だがね」

「……ご冗談を」

「いやいや、本当の話」

 魚河岸章魚。この学校に来る前、パンフレットで散々見た男だ。この海坂高校の理事の一人で、テレビから雑誌まで引っ張りだこ(まさしくタコなのだ)の超有名な教育コンサルタント。この人が理事長をしていないのは、単に本業が忙しいからだとわたしは秘かに思っている。

「君が噂の転入生、戸毬木とまりぎ羽衣ういちゃんだね」

「ご存知でしたか」

「そりゃあね。見覚えのない小さな女の子が、うちの学校の制服を着て学校の敷地を歩いていたらすぐに分かるよ」

 コンサルタントは詐欺師の言い換えに過ぎないというのがわたしの認識だったが、この人は違う。まだ新学期が始まって二か月程度なのに一年生の生徒を知っていた風だし、わたしのことも把握している。

「体の調子はどうかな? 入寮してすぐに体調を崩したと聞いていたが……。どうにも出張続きで昨日の夜中に戻って来た次第で、君の近況をほとんど聞いていない」

「お気遣いありがとうございます。三日ほど寝込む羽目になりましたが、今日からようやく登校できます」

「そうか。それならよかった。いやすまないね。編入試験だけでも大変だというのに、登校前から奨学生選抜試験やらなんやらでしばらくテスト漬けだったろう。環境も変わって体調を悪くするのも当然だ」

 まあ、あれは大変だった。こちとら奨学生に抜擢されないと、せっかく転入試験をパスしても学校に通えないところだったし……。

「しかし学生の本分は勉強とは言うが、よく遊び、よく周囲の人間と交友を深めるのも大切なことだ。君の学校生活が豊かなものになることを祈っているよ」

「…………どうも」

 ひょっとしてこの人、わたしの以前の学校に行ったんじゃないのか? 穿ち過ぎか。そう思わせるくらいには、見透かしたことを言われた。

 しかし豊かな学生生活、ね。

 もちろんそれを望んでこの学校に来たけれど、それは宝くじを買うくらいの気概でしか求めていないものだった。

 

 じゃあいっそ故郷を離れてみるか。

 そんなノリで転入しておいて、新しい生活に胸をときめかせられるほど、図太い神経は持ち合わせていない。

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