月下にて
『もっとだ……もっと早く!!』
俺は両手を前に突き出して手のひらで船の舳先のようにV字をつくり、水を切り裂きながらジェットで突き進んだ。
暗く、どんよりとした水の中は視界が悪い。
水はわりと澄んでいる方だが、それでも実際の目はほとんど役に立たない。
暗視装置があっても、光それ自体を水が飲み込んでしまうのだ。
ここではレコンヘルメットのミニマップ表示だけが頼りだ。
一面に広がる暗黒の中を泳ぐ。
俺はふと、昔見た実況動画を思い出した。
それは戦闘機を操縦するゲームの実況する動画なのだが、解説に本物の戦闘機パイロットがついて、ゲームにおける戦闘機や空の描写を解説するというものだった。
そこで戦闘機パイロットは、
空間失調とは、パイロットが空と地面の見分けがつかなくなる状態のことだ。
空を飛んでいると、ときに視界がすべて灰色の霧で埋まることがある。
そうなると、パイロットは上下を正確に判断できなくなってしまう。
最悪の場合、地面に向かって飛んでしまって墜落事故を起こすこともある。
これがなぜ起こるかと言うと、人が傾きを感じる理屈に理由がある。
人が傾きを感じるのは、耳の奥にある三半規管だ。
この三半規管はリンパ液に満たされており、その移動で上下を判断している。
つまり、人体に慣性や重力がかかると、三半規管のリンパ液が傾きとは関係なく動いてしまい、水平に飛んでいても傾いているように感じてしまうというわけだ。
実況に参加していた戦闘機パイロットは、空間失調に陥ったときの対策はたったひとつしかない、と言っていた。
――「計器を信じろ」と。
つまり、今俺が信じられるのは、このヘルメットだけだ。
『ヘルメット、頼むぞ!』
俺の声に答えるかのように、視界に矢印が表示される。
方向指示はミニマップの光点の方に向いている。
『……ありがとな!』
視界のUIがほんの一瞬輝いた。まるで俺に返事を返したかのようだ。
「そういえばこのヘルメットって、リンが改造したんだっけ。まさか、彼みたいな機械の精霊がヘルメットに宿ったとか……?』
無機物に霊が宿るとか、ファンタジーやメルヘンじゃあるまいし。
いやいや、この世界バリバリファンタジーだったか。え、でもまさか、ね……。
そうこうしてると、レコンヘルメットに表示されている光点が近くなってきた。
『マリアはこの近くにいるはず……どこだ?』
俺は真っ暗な水の中を見渡す。
まるで星一つない夜空のなかに浮かんでいるようだ。
――いや、星はある! マリア。彼女がこの闇の中に浮かぶただ一つの星だ。
たった一つしかないなら、見つけられないなんてことがあるもんか!
『そこか!!』
俺は水の中に浮かんでいるマリアを見つけた。
どうやら意識を失っているようだ。
何かにぶつかったのか? それとも、水の寒さのせいか?
俺はうろたえる自分の心を押さえつけて、彼女の小さな体を抱く。
するとヘルメットが表示しているUIが、彼女の体を赤いラインで縁取った。
『警告:対象のバイタルの低下を確認。
深部体温/脈拍が低下しています。spO2=98 PRbpm=40
診断結果:冷水に触れたことによる低体温症。』
『クッ、やっぱり水の冷たさのせいか!! なんとかしないと……』
マリアは俺よりも体が小さい。
だから冷えるのが早くて、先に意識を失ってしまったんだろう。
もう一度クリエイト・アーマーを使うか?
あのエーテルの抜けっぷりだと、もう1回使えるかどうか……。
バカ、命が救えるかどうかなんだ。悩んでる場合じゃない。
俺はやるしかないんだ……!
『クリエイト・アーマー!』
俺は腕の中に抱いていたマリアに創造魔法を使った。
彼女の小さく華奢な身体が、純白の甲冑に包まれていく。
だが、それと同時に俺の体から猛烈な勢いで力が抜けていった。
この世界に来たとき、スキル上げのために栄養食を出しまくったときよりもずっとひどい脱力感だ。エーテルを使い切ったのかも知れない。
『ク……頼む、これで何とかなってくれ……』
祈るような気持ちでつぶやいた、その時だった。
俺の視界の左上に文字が流れる。
『警告:対象のバイタルの低下はなおも継続中。
原因:環境中のエーテルによるエーテル変調および循環の阻害。
提案:エーテル外部供給による救命蘇生。
蘇生成功率=75.00%』
流れる文字の最後に、救急キットみたいなアイコンが浮かぶ。
きっと、これに使うと念じることで、エーテル供給を開始するのだろう。
『げ、この上さらに注ぎ込めって……?』
エーテルを使い切ったせいか、いまの俺の体調はかなり悪い。
例えるなら……夜勤手当に目がくらみGWに連続シフトを入れた結果、他バイトにシフトをブッチされて、そいつの分まで連勤する羽目になって時くらいだ。
あの時の徹夜明けは、太陽が緑色に見えたっけ。
世界のすべてに目がくらみ、帰ってベッドに沈むまで地面しか見れなかった。
『…………』
だが、俺の手の中にはぐったりとしたマリアがいる。
彼女の命は、いままさに俺の手の中で失われようとしていた。
『ええぃ……もうどうにでもなれ!!!』
俺はUIに向かってヤケクソ気味に叫んだ。
すると背中から頭の後ろに向かってぞわわっとしか感覚が襲ってくる。
エーテルを送り込んでるのだろう。
『……う、うぐぁ……っ!!』
俺の体調は最悪を通り越した状態になってしまった。
治療のためとはいえ、これはキツイ。
……ここが水の中でかえって良かったかも知れない。
水の中なら浮かんでいることができるからだ。
地上で立ってたら、子鹿ちゃんのような俺の足は1分も持ちそうにない。
『は、はやく上がろう……ここで意識を失ったら俺まで溺れちゃうぞ』
だが、UIに表示されているミニマップでは、水面がどちらかわからない。
水中が広すぎるせいで、ヘルメットが表示可能な領域を超えているのだろう。
『なぁ、いったいどこに行けばいいんだ?』
完全にへろへろになった俺は、
するとヘルメットのUIに高度計と水平計が出てきた。
計器には高度マイナス20M。角度マイナス60とあった。
『なるほど。これを頼りにしてあがっていけと……』
最悪に最低を重ねたような状況だが、まだ助かる望みはありそうだ。
俺はUIに表示されている計器をたよりに上を目指す。
すると、10Mほど上がったところで頭の上に黄色いお月さまのような影が浮かんでいた。きっと、湖の水面に映り込んだ太陽だろうか。
なんだか幻想的な光景だ。
足元にはゾクッとするような闇がどこまでも広がっているのに、頭上には波打つ空と太陽の影がある。
闇夜を逆さにして、地面に月が落ちたような……そんな光景だ。
『下を見ないようにして急ごう……』
足元に広がる闇を背にして、俺は上を目指す。
暗い水の中はマジでイヤだな……。
巨大な闇を前に隠れる場所もなく、何か恐ろしい物に遭遇しそうな恐怖がある。
俺の背中はずっとぞわぞわしっぱなしだ。
『ジャークシャークには逃げられたけど……仕方ないか』
俺たちはもう戦える状態じゃない。
残念だけど、リリーから受けた依頼は失敗だな……あっ。
――そういえば彼女、どうしたんだろ?
◆◇◆
※作者コメント※
ゾンビも幽霊も怖くないけど、水中の巨大生物だけはムリ。
水中を舞台にした主観視点のホラゲーだけはマジでムリです。
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