終編

 私は暗闇の中、ただひたすらに走っていました。

 いいえ。“ひたすらに”というよりは、“がむしゃらに”と表現したほうが、この場合、適切でしょう。暗闇の中を重い頭を抱えながら進んでいます。何かを探し求めるように——母猫を探す子猫のように。

 子猫のように?

 そう、子猫のように——母猫を探していました。

 とおく、とおぉくに出稼ぎに行ってしまった母猫。遠く、遠く、遠く——誰よりも獰猛で——誰よりも勇敢で——誰よりもかっこいい母猫。

 その名は彼尾花かれおばな

 『幽霊の正体見たり枯れ尾花』からもじったらしき彼尾花。お母さんの親は何を思ってこんな名前にしたのでしょう?

 がむしゃらに、がむしゃらに走り続けて——足も棒のように動かなくなり、息も絶え絶えになり、目もくらみ、甲高い耳鳴りが響き、もやのように消えない頭痛にさいなまれ——そして声が聞こえました。


「おーい。おぉーい……」


 “私はここだよ”と応えようとして、自分の口が開かないことに気が付きます。

 まるでガムテープで巻かれているかのように。

 足が動かないのは、縄で縛られているからでした。息が苦しいのは心臓が暴れているからでした。頭痛がするのはゴルフバットでタコ殴りにされたからでした。目がくらむのも、耳鳴りがするのも、身体が悲鳴を上げているからでした。

 暗闇の中にいるのは——。


「よおぉ、やっと目覚めたか。ぁあん?」


 暗闇の中にいるのは——寝袋の中に仕舞われているからでした。

 寝袋のチャックが開き、顔中に大きな火傷を負った男が覗き込んできます。

 視界全体を真っ白な光が包み……少しずつ見えてきました。首を動かして周りを見渡します。

 茶色いドタン屋根、頼りない蛍光灯、コンクリートの床、青緑の古い機械群……。どうやらここは、どこかの廃工場のようです。

 この場にいるのは、金属バットのヤンキー、チェーンを靴に巻いた青年、そして白髪の少年と——女性?

 高校生か大学生くらいの、鋭い目をした女性。

 どうして女性がここに? 彼女も誘拐されたのでしょうか?

 しかし縛られている様子はありません。他の男性陣と同じように、丸い木のテーブルに腰かけています。え、犯人側なの? なんで? 女の敵は女的な? そーゆうご趣味?

 あ、そういえば、運転席——誰が乗っているのか見ていませんでした。彼女が運転していたのでしょうか。

 全部で……四人。四人の実行犯。

 もちろんお母さんはいないとして、猫さんは、どこにも、いません。

 猫さんは——無事なのでしょうか。

 ゴルフバットのフルスイングを受けて、猫は生きられるのでしょうか。壁まで飛ばされて、死なずに済むのでしょうか。いくら名前を呼んでも、いくら身体を揺さぶっても、猫さんはぐったりとしたままでした。

 まるでもう動かないかのように。これから死ぬかのように。夢の中で見た、あの男性の遺体のように。

 青年が机から飛び降りて言います。

「さて、んじゃあ——始めるッスか!」

 邪悪で、劣悪で、醜悪で、曲悪で、極悪な笑みを浮かべて。

 何を“始める”のか、どうして私を獲物のような目で見るのか——考えたくない、考えたくない、考えたくないのに。

 私は助けを求めて女性を見ます。

 彼女は、酷く、氷のように冷たい目で私を見下ろしていました。どうして、そんな目で、私を見るの?

 その女性は背を向けて立ち去ろうとし——白髪の少年が呼び止めました。


「Care To join Us?」

「……いいや、私は遠慮しとくわ。後はお好きにどうぞ」

「Why?」

「“ホワイ?”じゃないわよ。言われたことはやったじゃない。ほら、早く


 彼尾花——彼尾花?

 彼女は、たった今、お母さんの名を?

 唐突に表れた母親の名に、私は驚き、返って冷静になりました。いや、嘘です。大嘘です。頭の中はそりゃあもうパニックです。パンデミックです。バイオハザードです。


「んやぁ、っていうか。このまま帰すのは、マズいよなぁ……?」

「そうッス! ノリが悪いッスよ! お姉さんも立派な共犯なんだから、最後まで楽しむべきッス!」

「…………まさか、初めからこういうつもりだったわけ?」

その通りだよExactly


 Exactlyの意味だけは知っていました。

 どうやら、だいぶ、マズい状況に——あ。

 そのときになって、私はやっと、彼女が誰かを思い出しました。ずっと、以前、どこかで会っている気がしていたのです。

 彼女は——夏祭りの事件の、被害者でした。

 夏祭りの夜、私と猫さんが偶然助けた、あのお姉さんでした。

 ——気分が、悪い。

 ——頭が、顔中から、血の気が。

 ゴルフバットを持った青年がカツカツと近づいてきて、顔を覗き込んできました。


「お前も、一人じゃあ寂しいよなぁ?」


 青年は言い放ちます。猫さんを殺した——青年が言い放ちます。

 私の首元に、耳元に顔を近づかせて——ささやきます。


「楽しもうよ」


 ——たすけて。


 ——たすけて、猫さん。


『——すまねぇ、遅れちまった』


 その時でした。

 ブレーカーが落ちる音がして、辺り一面が暗闇に包まれました。唐突な出来事に、誰も、一切口を開きませんでした。

 ただ——何かが、何者かがことは分かりました。その場にいる全員の視線が中央に集まっているのが分かりました。

 真っ暗で、何も、見えないはずなのに。

 永遠にも思われた一瞬の間のうち——ブレーカーが上がる音が聞こえると。


 不規則に点滅する蛍光灯の下、それは立っていました。


 二メートルは超えるであろう巨大な体躯。四本に分かれた毛むくじゃらの腕。

 深くかぶった黒いフードから放せられる無音の殺意。

 そして——片方だけ短い二本のしっぽ。


「う——うわああああああああああ!」


 ヤンキーと青年が、それぞれ前後から金属バットとゴルフバットを振りかぶって飛び掛かります。

 それは一瞬の出来事。点滅の中で、まるでコマ送りのように。

 人型の獣は羽織っていたローブから無骨で巨大な『鍵』を取り出して胴体を殴ろうとしていた金属バットのスイングを受け止め、顔面を潰そうとしていたゴルフバットを三本の鋭利で太い鉤爪かぎづめで受け流し、もう片方の空いていた腕で二人の後頭部を鷲掴みにすると硬いコンクリートの床へと叩きつけました。

 鈍い音が鳴り、鳴り止むよりも前に——白髪の少年が跳躍します。

 触手を伸ばして——大きく伸ばして——大きく大きく伸ばして——ドタン屋根を突き破りながら人型の獣へと振り下ろす。

 月明かりが獣の顔を照らすよりも先に——耳をつんざく破裂音がとどろきます。両目を焼きかねない閃光と熱風に目を閉じ、再び、そっと目を開けると。そこには、空に向かって腕を伸ばした獣が一匹。その腕には大口径の赤い拳銃が握られていました。

 明るい夜空から黒い肉片が降り注ぎます。少しの間の静寂の後、離れた位置に白い少年が垂直に落下してきました。白い少年はそのまま地面に激突するかと思われましたが、寸前に羽を広げ、落下のエネルギーを保ったまま人型の獣へと突進します。

 人型の獣は金属バットを受け止めた巨大な『鍵』を、白い少年に向け——否、|突き刺します。それを視認した白い少年は獣の側面へと回り込みました。私のすぐ隣まで突き進み、そのまま私を轢くか轢かないかの一歩手前で急旋回して獣に飛び掛かります。


「流罪体質——『遍在する中立区間猫の集会』」


 獣は、地面に何の抵抗もなく刺さった『鍵』を、くるりと回しました。

 『鍵』から地面を伝って黄色い波紋が広がります。何回も、何十回も、何百回も、何千回何万回も、波紋が工場中を広がり、町中を広がり、山を覆いつくします。暖かく、やわらかく、そして何事も許さない厳格な光の波紋。


「What's ——!?」


 白い少年は巨大な壁に突き当たったように、光に気圧されます。そして一体全体何が起こったのか、工場の壁を破って夜空の彼方へと吹き飛んでいきました。

 獣は『鍵』をゆっくりと引き抜きます。地面にはこぶしほどの穴が空いていました。

 彼は足元に伸び果てた青年を邪魔くさそうに転がすと、私に振り向きます。その鋭い眼は月明りを怪しく反射していました。しかし、怖くはありません。むしろ、なんだか安心するような、申し訳なさそうな、そんな優しい人の目をしていました。

 両手に拳銃と『鍵』を持った獣は、足音を殺すように、ゆったりとした歩調で近づいてきます。私を怖がらせないように。

 大丈夫だよ、怖くないよ。きみを知っているから。

 獣はしゃがみ込み、私を拘束する縄を鋭い爪で引き裂きました。今度は私の口を塞いでいたガムテープを、細い爪先で慎重に、ゆっくりと剥がし……私は彼に飛びつきます。

 腕を大きな首元に回して言いました。


「おかえり、猫さん——!」


 俺は狗尾の背中に腕を回した。鋭い爪で傷つけないよう、手首を軽く反らして。

 抱きついてくる狗尾はなんだか幼く見えた。随分と、背が小さくなったものだ……。いや、俺がデカくなったのか。


「怖かったな、狗尾。来るのが遅れてごめんよ」


 俺は謝罪する。謝るしかなかった。もう少しうまく立ち回れたなら、狗尾に怖い思いをさせずに済んだことだろう。申し訳なさで胸がいっぱいいっぱいだった。


「ううん、大丈夫だよ。助けに来てくれてうれしい。……大きくなっちゃったね、猫さん」

「怖いか?」

「すんごぉくカッコいい! 映画に出てくる猫男爵みたい!」


 狗尾は抱擁した状態でさらに抱きつくという器用な真似をする。狗尾の暖かさが伝わってくる。狗尾は、間違いなくここにいる。


「もう、何の心配もいらない。狗尾や、町の人々を傷付ける者がこの町に入ってくることはない。……狗尾。俺はな、もうひとつ、謝らなきゃなんねぇ」

「なーに、猫さん?」

「俺は……俺は、おめぇに、嘘をついていた」


 嘘を謝り——もうひとつ嘘を重ねる。

 どうか許さないでくれ。これが最後の嘘だ。


「実は俺、死神なんだ」

「死神?」

「そう、死神。俺はよぉ、その昔、大きな罪を犯したんだ。決して犯してはならない、そして誰もが犯しうる大きな罪だ。罰を受けた俺は冥界から追放され、この地に突き落とされた。小さな子猫になってな」

「そこを——私が拾った」

「そうだ。狗尾、お前が拾ってくれた。冬の寒さに打ち震える俺を、お前が温めてくれたんだ。あの日飲んだミルクの味は、本当に格別だった。罪の重さに押しつぶされそうな俺を、狗尾、お前が救ってくれたんだ」

「そんな……私、何もできなかったよ。お邪魔ばっかりだよ。春のときは勝手に覗いて、夏祭りも犯人を逃がして……今朝だって、猫さんの気持ちも考えずに家を飛び出して」

「そんなこたぁねーぞ。自分を卑下するのはいいが、否定はするもんじゃあねぇ。お前のおかげで、俺は毎日が楽しかった。驚きの連続だった。淡泊になっていた感情を、お前が思い起こしてくれたんだ」


 こればかりは嘘ではなかった。狗尾がいなければ、俺はきっと、最悪の道を歩んでいたことだろう。彼尾花にも再開できなかったし、死神とも敵対していたかもしれない。白いインキュパスの陣営になっていたかもしれない。


「狗尾。お前のおかげで、俺は冥界に帰る許しが出たんだぜ。猫から、元の姿に戻れたんだ。猫の身体も悪くはなかったがな」

「じゃあ、本当の家に帰るの?」

「んや、まだ帰らねぇ。やるべきことが残っている——旅に出るんだ」

「旅? なんの旅?」

「謝罪の旅だ。俺が犯した罪で、多くの人に迷惑をかけた。一人ずつ探し出して、ごめんなさいって謝る。猫の謝罪しゃざいまわりだ」

「そっか。そうなんだ」


 狗尾は寂しそうな声で応える。勘弁してくれよ、気持ちが変わっちまう。

 しばらく俺の肩に顔をうずくまっていた狗尾だったが、なにかを決心したように顔を上げた。


「それじゃあ——長い旅になるね」


 その声は震えていた。本人は笑顔のつもりだろう。一生懸命笑おうとして、顔は引きつっていた。目元から涙が溜まっていて、こぼれないように、なんとか耐えていた。

 俺は鍵と拳銃を地面に置き、狗尾の頬を猫の肉球ではさむ。そしてこねくり回した。かつての俺がそうされたように。


「泣くんじゃあねぇ。でも、無理に笑うこともねぇ……それは分かっているんだがな」


 あーあ、俺って……。


「分かっているんだがな——やっぱ、笑ってほしいわ」


 俺って、結局のところ、最低なんだなぁ。

 狗尾は大粒の涙をこぼしながら、にんまりと笑った。彼尾花にそっくりで、俺が苦手な笑顔——そして一番気に入っている表情だ。そうだ、狗尾。その調子だ。狗尾は笑顔が最高にかわいらしい。


「猫さん、約束してくれる?」

「ああ、なんだ。狗尾の頼みなら、なんでも聞いてやる」

「必ず帰ってきてね。必ずまた会おうね。必ず——またお話しようね」

「——おう。分かった」


 必ず帰ってこよう。

 必ずまた会おう。

 必ず、またお話しよう。

 きみに誓おう。世界のすべてを敵に回しても、約束を果たそう。


「いってくる」

「いってらっしゃい」


 俺は狗尾から手を放し、姿を闇に溶かした。


  ■  ■  ■


「“必ず帰ってくる”って、無茶な約束をするなぁ。それって要は“必ずお迎えに上がります”ということじゃん」


 水色の死神は身も蓋もないことを言う。

 俺と水色の死神は夏祭りの日に登った山の頂上にいた。葉が落ちた裸の枝が夜風で揺れている。ここからなら、廃工場もよく見える。んや、死神の視力のおかげか。騒ぎを嗅ぎつけたパトカーの赤光が点々と連なってきている。


「っていうか、旅に出るってマジ? そんなこと聞いてませんけど?」


 水色の死神はぷくっとふくれていた。おいおい、嫉妬か?


「ケハハッ、反対されそうなことは言わずに実行するのが賢いってもんよ」

「別に反対はしないけどさぁ。どうやって探すつもりなの。会ったところで姿も見えないし声も聞こえないのに。そもそもとっくの昔にくたばって転生しているかも」

「転生していても会いに行くさ。見えなくても聞こえなくても、伝わるもんはある。それに——」


 俺は懐から深い緑色の懐中時計を取り出した。しかし、針は三本ではない。五本の大小様々な針が左右に揺れている。時計、というよりは羅針盤だ。


「こいつが教えてくれる」

「……ホント、都合のいい『固有体質こゆうたいしつ』だこと。いったいいくつ持ってるわけ?」


 断罪体質『曖昧たる罪と罰フラッシュバック』。

 流罪体質『遍在する中立区間猫の集会』。

 そして――謝罪体質『咎人の凱旋カントリーロード』。


「体質は一柱につき一個じゃあねーのか?」

「『固有体質』……すなわち鎌は魂そのもの。普通は一個だよ。解離性同一性障害の死神だって鎌はひとつだったよ、変形はするけど。考えられるのは、世界のバグやね。人間と猫、二つの人生を終えた者が、今度は死神として三つ目の人生を始めようとしている。そりゃあ世界だって混乱するさね。私も混乱するさね」

「……割と融通が利かないんだな。この世界ってもしかしてバーチャルワールドなのか?」

「だとしたら相当悪趣味だよ、そのバーチャルワールドを作ったヤツ。ハァ……でも。ま、確かに都合はいいかもね」


 死神は意味ありげに呟き、狗尾がいる廃工場を眺めた。廃工場は屋根も壁も吹き飛び、もはや数本の支柱とコンクリートの床しか残されていない。やはり置いてきたのは不味かったのだろうか。狗尾は今後もうまくやっていけるのだろうか。

 今からでも駆け寄るべきかそわそわしていると、パトカーから見覚えのある女性が出てきた。その女性は愛娘のもとへ駆け寄って強く抱き寄せた。決して手放さないように、強く強く、抱きしめた。

 どうも俺は、過剰に心配していたらしい。俺と会う以前から、狗尾はうまくやってきたではないか。

 すまねぇな。頼んだぜ、彼尾花。

 その様子を眺めていた死神が、話題を変えてきた。


「そういや、あの大学生くらいの女の子……どうしたの?」

「停電の間に逃げた」

「ふーん、、ねぇ……。まぁ、彼尾花を探しているなら、すぐにでも再開できるか。それじゃあ——行こっか、“お父さーん”」

「ああ、行こうか——“彼岸花ひがんばな”」


 罪は決して消えることはなく、罰は決して終わることはない。それでも人生は続き、世界は回る。謝ったところで過去は変わらないが、未来は変わる。過去を慰めて、未来を歩む。

 人々はそうして生きている。罪を犯しながら、罰を受けながら。謝罪して、謝罪されて。受け入れて、拒絶して。俺たちはそうして生きている。

 生きていくしかない。その事実は希望になる。決して変わることのない希望になる。

 すべてを受け入れ、すべてに謝罪しよう。

 そのために、俺はここにいる。

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前略、吾輩は猫である。 隠涙帽子 @Kakurui_Boshi

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