中々々編

 冬の夜中。

 雪が降ったり止んだりを繰り返している。

 ごちゃごちゃと、屋根が重なり合うほどに密集した町中。

 四角いコンクリート屋根の上で、俺と“そいつ”は対峙たいじしていた。

 対峙し――対立し――敵対し、睨みあっていた。

 『睨みあっていた』とは言っても、睨んでいるのは俺だけだ。そいつは丸く見開いた目をして、握手でも求めているかのよーに、こちらに片手を伸ばしている。

 突然提示された取引に対して、俺が黙っていると


『どうして、そんなに警戒しているの?』


 そいつは英語でそう切り出した。

 そいつは灰色のボトムに無地の白Tシャツを着ている。明らかに冬の恰好ではなかったが……関係ないんだろうよ――アンデットならば。

 白髪の人間なら、そりゃあ、別にアンデットじゃなくてもそこらじゅうにいる。歳の影響か、はたまた若さゆえに染めたのか。理由はいくらでもある。

 だがこいつは、空から降ってきた。

 空から舞い降りてきた。

 背中からコウモリによく似たいびつな羽を生やして、空から着地した。

 明らかに――アンデットだ。

 誰がどう見ても――猫が見てもアンデット。

 俺は、アンデットの疑問なんか無視して英語で言った。


『お前は、あの子を――狗尾えのころをどうするつもりなんだ? 狗尾を渡せば、シニガミを退治する方法を教えるって――どういう意味だ』


 白いアンデットは不思議そうに首をかしげると、三秒ほど考えるようにして、そして答えた。


『えーっと……まずは、二つ目の質問から。エノコロを渡したら、シニガミを退治する方法を教えるっていうのは、だから、そのままの意味だよ。きみがぼくに、エノコロをくれたら――ぼくはきみに、シニガミ退治のイロハを教える』


 狗尾を渡せば――シニガミを撃退する方法が手に入る。

 ……すっかり頭から抜けていたが…………今日は、俺の命日だったな。

 人間だった頃の命日じゃあねえ、猫として、猫である俺が死ぬ日だ。

 春の日から――シニガミに初めて会ったあの日から――シニガミから予言されていた。予告されていたし報告されていたし宣告されていた。

 冬には死ぬから、それまで楽しんでちょうだい――か。


『なんで、強姦魔で逃走犯で誘拐犯であるお前が、俺にシニガミ退治を教えるんだよ』

『ぼくが見たところ、きみは生まれたばかりみたいだったからね。せっかくだから、きみの師匠になってあげるよ』


 師匠、だぁ?

 シニガミ退治の?


『お前、シニガミ退治の……プロ、なのか?』

『いや、別にプロじゃないよ。プロフェッショナルは――もっと他にいる』


 シニガミ退治の……プロフェッショナル?

 映画に出るような吸血鬼狩りの専門家や、ビデオゲームに出る対ゾンビの業者チームもあれば――シニガミを退治することに特化した専門職人も、いるということか?

 アンデット御用達の、連中でもいるのか?

 確かに、シニガミはその業務内容からして、多くの連中から恨みを買っていそうではある。なにせ彼女らは、誰かを死なすことが仕事なんだからよ。

 でも、でもよぉ、仕事だぜ?

 そういう仕事なんだから、彼女らに文句言うのは筋違いっつーもんだ。

 それに。


『なんで俺が――シニガミ退治なんか覚えなきゃいけねぇんだ?』


 俺には、シニガミを殺す理由なんかない。

 恨みだなんてもっての外だ。

 確かに恨みを買いそうな仕事だが……俺自身は、恨みを売った覚えはない。そりゃあ、まあ、大切な人を目の前で殺されたら、多少は恨み言を吐き捨てるとは思うが、今のところはそんなことも起きていないしな。

 もしかしたら俺は、いまだに彼女らがシニガミだという実感が湧いていないのかもしれない。

 白いアンデットは、今度は反対側に首をかしげた。

 本当に、本当に不思議そうに――疑問を口にする。


『アンデットだから、でしょ?』


 アンデット――だから?

 【アンデット】。

 例えば、吸血鬼。

 例えば、ゾンビ。

 例えば、死霊。

 例えば、妖怪だってそうだ――雪女、河童、天狗、垢なめ、ぬりかべ、のっぺらぼう、海坊主、化け狐、化け狸――そして化け猫。

 俺が化け猫であることは、すでにシニガミから聞いている。外見だけ見れば、ただぼっちゃりめの可愛らしい三毛猫だし、俺本人にも、やはり実感はないけれども。けれども――アンデットであることは偽りようがない。

 そして目の前の白い少年も、アンデットなのだろう。空から翼を広げて飛んで来たもんな。真後ろに来るまで気付かなかったから、飛んで来た瞬間自体は見ていないけれど。

 少年と――俺。

 気付かないほどに崩れそうな存在感と――脂肪のような何かで膨らんだ三毛猫。

 強姦魔でもあり逃走犯でもある誘拐犯と――転生者でもあり罪悪人でもある化け猫。

 アンデットと――アンデット。

 この場にいるのは、この屋根の上で向かい合っているのは正真正銘――二人のアンデットだ。

 アンデットだがぁ……それが何だっていうんだ?

 それ以下でも以上でもねーだろ。

 アンデットだから、アンデットなら、それがどうしたっていうんだ?


『シニガミに切られたら、死ぬんだよ?』

『死ぬから――何なんだ』

『人間の場合、シニガミに対抗できない。シニガミが見えないし、シニガミに触れられないし、シニガミの声も聞こえない。だから、あっさりと切られて死んでしまう』

『あっさり、と――』


 頭の中に、大型トラックのクラクションが拡散する。

 人間だった頃の俺も――シニガミに切られたのか?


『でもぼくら、【死なない者アンデット】は違う。アンデットなら――シニガミが見えるし、シニガミに触れることだってできる。それはつまり――』

『つまり――殺せるって?』


 殺せるから――殺すのか。

 水色のシニガミを。


『そう、だから殺す。殺される前に殺す。なんでって――死ぬんだよ? シニガミに切られたら死ぬんだよ? だから退治する。撃退する。破壊する。殺害する。だって――』


 不意に、あの子との会話を思い出してしまった。

 いつの日か、秋空の下、玄関で交わした日常を。

“あはは。だって――”


『だって――【死を拒む者アンデット】だから』

“だって――【命を狩る者シニガミ】だもん”


 そう言った時の、寂しそうに笑う、水色の横顔が。

 頭の中を横切った。


『――なんでそうなるんだよ、なぁ?』


 俺は咄嗟に、口から吐き出すように言った。

 白いアンデットはぎょっとして――丸く見開いた目を、一瞬だけさらに大きくし、そして細めた。俺の目の前で、初めて真顔を変化させた。

 気分を害したらしい。

 明らかに不味い状況だったし、俺自身、自分が何を言うつもりなのか分からないが、それでも俺は、口から出るがままに続ける。


『殺されるくらいなら殺すって――乱暴すぎるだろう。そんなの、ただのやり返しじゃあねぇかよ。殺されるから殺すって――落とされるから落とすって、退治するって、撃退するって、破壊するって、おかしいだろう』


 白い少年は目を細めたまま、不機嫌そうに返した。


『だから、何? 大人しくやられろって、そう言いたいわけ?』

『違う、ちげぇよ……。俺が言いたいのは、そういうことじゃあねーんだよ!』


 次の瞬間――俺の右の頬をかすめるようして、何かが地面に突き刺さった。

 …………え?

 右側に顔を向けると、すぐ隣に、がコンクリート屋根をえぐっていた。自分の小さな顔から、血の気が引いていくのが分かる。

 真っ黒な槍の尾は、白い少年へと繋がっていて――背中から生えているようだった。

 これは――触手か!?

 コイツ、触手で俺を突き刺そうとしたのかよ――!

 お前、えっ、お前、そりゃあ短気すぎるだろお前さん!?

 白いアンデットは、地面から触手を引っこ抜くと、今度は猫のひたいに――つまりは俺の真正面に触手やりを構えた。

 俺の心拍数が一気に跳ね上がる。


『じゃあ――きみは何が言いたいの?』


 俺は――何が言いたいんだ!?

 胸の底から、喉の奥深くから――何かが、這い上がってくる。

 なんで俺は……こんなにも必死になっているんだ?

 屋根の下の方では、狗尾が待っている。このわけのわからない白い少年は無視して、取引なんか蹴り飛ばして、狗尾に駆け寄るべきだ。そして一緒に逃げるべきだ。ミサトの家へと、もうこの際、本当にどこでもいいから――とにかく逃げるべきだ!

 逃げるべき、なのに。

 なんで俺は、この少年を説得しようとしているんだ。


『おれ、俺が言いたいのは――もっと他に、手段はないかって、ことなんだよ。殺すとか、落とすとか、撃退するとか、そういうこと以外に…………だから――平和的に、平穏に解決できないのか?』


 穏やかに、解決できなかったのか?

 白い少年は、本当に本気で不機嫌そうに、不快そうに、こちらを睨んでいた。


『確かに、お前の言う通り、人間はあっさりと切られて死んでしまう。Resetリセットされてしまう。シニガミが見えないし、シニガミに触れられないし、シニガミの声だって聞こえない』

『そうだよ。あっさりと、何の抵抗もできずに死ぬ。だからアンデットは――』

『でもアンデットは、違うんだろぉ? シニガミが見えるし、シニガミに触れることだってできる』

『そして、殺すことだって――』

『そして会話もできるんだろぉ!?』


 俺は少年の発言を遮り、つい声を荒げていた。

 喉の奥から、黒い何かが――黒い怪物が、這い上がってきて。

 トラックに轢かれて、妻にも会えずに、赤ちゃんにも会えずに死んで――猫に転生してから、何度だって這い上がってきた怪物が、またもや溢れ出す。

 人間だった頃は、こんなにも重い怪物、感じたことなんてなかった。


『アンデットなら、人間と違って、シニガミが見えるし触れられるし聞こえるんだろう!? だったら話し合えばいいじゃあねえかよ、なぁ! 相手の話なんかろくに聞きもせずに、耳を貸そうともしないで、ただただ否定して拒絶して絶交して――それで解決するわきゃねえだろぅ!? 自分の主張を無理やり押し付けて、それで相手が納得することあるかよ? 納得できるかよ? できねえだろ!?』


 俺が声を荒げたせいで、剣幕に押されたのか、白い少年は足を一歩引いた。

 触手の先が、わずかに震えている。


『き、きみは、シニガミと…………あいつらと、話し合いでもしろって言うの? 敵同士――和解しろって、無茶を言うの?』


 言いたいことが、伝えたいことが、微妙に絶妙に伝わっていない感じだ。


『無理に和解する必要はない。嫌いなら嫌いなままでいい。敵同士なら敵同士で睨みあえばいい。ただ――相手の声を聞けって、そう言いたいんだよ俺は。相手の話を最後までちゃんと聴いて、そのあとは、自分の言い分をだっぷりと聴かせてやればいいじゃあねえかよ!』

『嫌いなままでいいって――言い分を聞かせるって、シニガミと取引でもしろって言うの?』

『取引すればいい、俺に馬鹿げたモン提案したようにな! 駆け引きでもなんでも試せばいい。相手の話を聞いて、こちらのわがままも伝えて、そして――みんなが納得できる条件を提示しあって、採用すればいい。それで済む話じゃあねえかよ!』


 慎重に、平穏に納得できる条件を探せばいい。

 ただ一方的にわがまま言って、被害者面していればいいわけじゃあねえ。

 加害者だと開き直って、ただただ罪が軽くなる道を探せばいいわけもねえ。

 考えてバランス取らないと、俺みたいに――取り返しがつかなくなるんだぞ?

 頼れる部長の城楼棚せいろうだな 如雨露じょうろも、

 幼馴染で大親友だった嘆川なげきがわ るいも、

 誄と仲良くしてくれたいかり 伝馬てんまも、

 何を考えているのかわからなかった――愛己あいこ 稚世ちよも、

 唯一の男友達である爪弾つまびき 快刀かいとうだって、

 ちょっと乱暴だけど、本当は人の気持ちを推し量れる彼尾花かれおばなですら――

 俺らみたいに、戻れなくなっちまうんだぜ?

 俺はよ――そういうことが言いたいんだ。


『…………シニガミと、取引――? あいつらは、アンデットなんかの話を、聞くと思う?』

『聞くと思うぜ』

『本当に? 本気で言っているの?』

『おう、本気だぜ。俺はな、嘘は嫌いなんだ』

『和解――和解か……』


 白いアンデットは、触手を下げた。

 槍のようにピンと張りつめていた触手が、だらんと脱力する。

 白い少年は顔をうつむき、何か複雑なことを考えているように見えた。いつの間にか鉄の真顔に戻っていたが……どうやら、これで一件落着らしい。

 いや待て、何が一件落着したんだ?

 確か……もともとは、狗尾を引き渡すか否か、みたいな話だったはず。


『……話し合い、提案…………』

『おい、白いの。考えているところ悪いんだけど、さっきの取引の話』


 白い少年は顔を上げ、俺に視線をやる。


『狗尾とシニガミ退治法を交換するって話なんだが、俺は却下だ。正直、もう、シニガミ退治の話なんかしたい気分でもねぇだろ? そこで、俺から提案がある』

『…………続けて』

『狗尾を――あの子を諦めてくれねーか?』

『その場合、きみはぼくに何をくれるの? 何をしてくれるの?』

『なあに、簡単な話だ。シニガミとの橋渡しをしてやるよ。んだが――』

『――?』 

「あ――ガッフゥ!?」


 突然、俺の腹に衝撃が。

 次に体が宙を舞う。

 白いアンデットに、黒い触手で腹パンを食らったのだ。


「ウガッ!」


 痛みで着地もできず、コンクリートの床に背中を打ち付ける。

 衝撃の余韻にズザーと押され、屋根の縁ぎりぎりでようやく止まる。あともう少しで落ちるところだった――いや、この場合、落ちた方がマシだった。

 俺は本能的に立ち上がり、逃げようとする。しかし、背中を見せた次の瞬間、触手に後ろ足を掴まれ引きずり込まれた!

 き、気持ち悪い!

 足から触手のぬるぬるとした触感が伝わってきて、猫の毛がぶわっと逆立つ。

 なんなんだ、このぬるぬるとした液体!? なんていうか、こう、全身の血液が熱いゼリー状の何かに置き換わったかのような――なんとも形容しがたきこの感覚!!

 これだけぬるぬるしていたら抜け出せそうなものだが、しかし、抜けようと暴れれば暴れるほど足が引っ張られていく。

 そして、後ろ足を掴まれたまま、俺のデブッた体が持ち上げられ宙に浮いた。上下逆さまだ。夏祭りの時にも宙に浮いたことはあったが、今回は恐怖心よりも焦りが湧き出る。

 やべぇ――完全に失言した。完璧に失敗した。完膚なきまでにチャンスを失った!

 友達にシニガミがいるって……バカか、馬鹿かよお前――殺人鬼相手に友人が警察だと言ったようなものだぞ!?

 どうしてお前、こんなときに――よりにもよって、シニガミの話を出したんだ。


『そっか、そういうことか。きみはシニガミと手を組んでいたんだね、ぼくらアンデットを裏切って。ぼくらを油断させるために、あんな大正なお説教をしてくれたってわけだ』

『お、おい待て。俺の話を聞け――』

『ぼくはね、ずっと不思議だったんだ。最初にきみを見つけた、その時からずっとずっと疑問に思っていたんだ』


 白いアンデットは、鉄の真顔を俺に近づけて――訂正。鉄の真顔に近づけ、そして言う。


『どうして、きみのような【化け物アンデット】が、人間の女と一緒にいるのか。どういう利益関係で、【食料えのころ】と仲良く歩いているのか。ずっと愚問だった』


 白いアンデットは、見開いた目で、俺の猫目をのぞいてくる。よく見たら、そいつの目は、瞳孔までも見開いたままだった。


『最初、その女は非常食だと思っていた。非常食として飼いならしているのだと考えた。でも違った。きみたち【化け物】と【食料】は、仲良くおしゃべりしているではないか! それは、まるで、親友同士でふざけあっているかのようだった』

『それが、何だっていうん――』

『あの水色のシニガミともそうだ。てっきり、襲われているのだと思った。一発触発だと。斬られる直前だと――うまく言いくるめて、追い払っているのだと。でもちがう、ちがう、ちがう。あのシニガミは、一向にきみを斬ろうとしない。鎌を構えたときもあった、でも切らない。むしろ、きみたちは、楽しそうに――本当に楽しそうに笑っていやがる』

『……俺は』


 俺は、笑っていたのか?

 俺が楽しそうに、笑っていたって?

 親友を失い、家を追い出され、大切な人との子供まで死なせ、トラックに轢かれて死に、挙句の果てには猫に転生したこの俺が――楽しそうな顔をしていた?


『俺は――』

『ねえ、楽しかったかい? 自分が何者なのか忘れて、誰に恨まれているのかも気にせず、何も知らない奴とお喋りして。苦しい思いをしながらも、生き延びようと必死になっているやつを無視して――ねえ、らくだったかい?』

『楽だなんて、そんな』

『楽をしたかったんだろうが。違うの?』


 黒い触手が俺の足を放し、体が――ほんの一瞬だけ――空中に投げ出される。が、今度は少年の青白い手が、喉を鷲掴みにしやがった。母猫が子猫の首をくわえて運ぶかのように――ではもちろんなく、人が人の首を締め上げるかのように、だ。

 おい待て、死ぬぞ!?

 このままじゃあ、マジで死ぬって!

 どうも緊迫感が伝わり辛いが、それだけやばいってことだ!


『人間とならともかく、よりにもよって、シニガミの連中と仲良しごっこをするなんてね』


 触手の絞めつけが一段と強くなった。

 酸素が肺に回らないなら、血液だって脳に届かない。

 もはや絶望的だが、せめて何かしないと、絶望そのものだ!

 俺はなんとか声を絞り出す。


『お、お前は、なんでそこまで――シニガミを恨んでいるんだ』

『恨む?』


 そこで白いアンデットは、呆れたように見えた。

 いや、表情自体は鋼鉄の真顔なのだが、なんというか、呆れた雰囲気が伝わってくるんだよ。


『恨むだなんて、随分と牧歌的なんだね』


 なにが牧歌的だって!?


『アンデットとシニガミは、ただケンカをしているだけだと――きみは勘違いしている。違うよ。ケンカでもなければ戦争でもない。食物連鎖しょくもつれんさだ――絶対不変の自然の法則だ。アンデットは人間を襲い、人間は羊を食べて、羊は草をむさぶる。そしてシニガミは、全てを殺す。アンデットも人間も羊も、全部だ。シニガミはいつだって、食物連鎖の最頂点に位置する』

『だったら、何が、不満なんだよ――ぐえぇ!』


 絞めるな、絞まるな、おい死ぬぞ。

 アンデットの透き通るかのように白く細い指が、俺の頸動脈を確実に絞めていく。脳の血液が停滞する。やがては死に至る! このままでは本当の本当に死にかねない!


『食物連鎖は、絶対ふへ、不変の自然の法則なんだろ? シニガミは当たり前のことを当たり前に仕事しているだけ、なのにッ、それの何が不満なんだ!』

『当たり前だと思っていることが嫌いだ。斬ることが普通だと思っているのが嫌いだ。殺すことが同然のことだと思い込んでいるのが嫌いだ。死ぬのが常識だと認識していることが大嫌いだ。シニガミの連中は、生き物を死なすのが自分たちの仕事だと思っている。そして生物は、死ぬことが義務だと勘違いしている。誰もおかしいと思わないの? どうして人間は、死ぬことをもっともっと拒絶しないの? 死んだらすべてが海の泡になって消えていくというのに。守ってきた大切なものだって、死が根こそぎ奪っていくというのに。死んだら無意味なのに。無価値なのに。天国なんかあるものか、来世なんか来るものか。そんなの、今の人生と向き合わないための言い訳に過ぎないじゃないか。怠惰たいだだ。命に対する無礼ぶれいだ――』


 嫌いだ、嫌いだ、嫌いで大嫌いだ。

 白い少年は、俺の喉を掴んだまま。

 こいつが何に対して怒っているのか、俺には解らない。

 俺か、シニガミか、人間か――それともアンデットに対してか、見当もつかなかった。

 いや、違う、そうじゃねぇ。

 見当がつくはずだ。

 こいつの、この少年の、この白っぽい少年の口から吐き出され流れ出る感情かんじょう感性かんせい感覚かんかくは――不可解だが理解できる。

 理解できるはず、なのに、不可解で。

 俺は、俺は確かに知っているぞ。

 不可解なようで理解できるはずの、似たような話をどこかで、聞いたことがある。いったいどこで……誰から聞いた話なんだ?

 それになんだ、この俺の感情。酷くムカムカする。喉の奥よりもさらに深い場所で、胸の心臓よりもさらに奥で、知らない煙が充満していく。

 俺は、俺には――少年の気持ちが分かる。


『――きみはどうして、あの子といるの?』


 待て、話の転換が変だ。

 さっきまでは、嫌いだとか、怠惰だとか、そんな話だったのに――なにか、聞き逃したか?

 『Herあの子』って誰だ。

 あー、クソ。

 首を絞められているせいか、頭に血がまわらねぇ。それとも酸素不足か。

 ひとちりたいなぁ……でも、もうそんな気力もねえ。


『どうして、あの子とずっと一緒にいるんだ』


 だから『Herあの子』って誰なんだよ。

 やばい、やばいな。

 今どういう気分か分かりやすく言うと……はちゃめちゃ眠いんだ。

 もう苦しくも痛くもねぇ。ただ、意識だけがスーッと遠のいていく。

 眠気に耐え切れず、俺はゆっくりと瞼を閉じる。

 ああ、そういやぁ、今日は、俺の命日だったなぁ…………。

 今までいろんなことがあったけど、ま、頑張ったもんだろ。

 あれ、今まで何があったんだっけ……。

 まだ何か、やり残したことが――やるべきことがあるはず、なのに。

 ああ、クソ……頭が働かない。まるで寝起きの時みたいだ。今にも眠りかねないというのに。

 俺には、守るべきものが……だめだ、だめだ、だめだ。

 何だ、なんなんだよ――もう何も思い出せねぇよ。思い出せないまま死ぬだなんて――そんなのは嫌だ。

 嫌だ、いやだ、いやだ――誰か。


 誰か――助けてくれよ


 猫である俺はそう叫んだ。

 しかし、その叫びは声になることなく、空気のみが喉をかするだけだった。

 人間だった頃も、何度も叫んで助けを呼んだ。何度も何度も、叫んだ。

 何度も叫ぶうちに、やがて叫びは喉を通らなくなり、心の中で叫び散らすしかなくなった。助けを求める叫び声は心中で反復して増幅して倍増して、幾度となく心の壁を破ろうとした。その度に胸は痛み、痛みは頭まで上がってきて涙腺を重くする。

 それでもなお俺は、重みが溢れ出ないよう目を開いて、痛みから目をらし、己の叫び声を無視した。そうして人は、自分自身の悲痛な叫び声を踏み潰すようになる。踏み潰さないと、現代社会では日の光を浴びることはできない。

 悲痛な悲鳴を最後に、俺の意識は闇の底へと消えていった。


「猫さぁあああああああああああああああああああああああああん!!!!!!!!」

「!?!?!?」


 女性の野太い声(!?)が頭を蹴り起こした。

 声に驚いた白いアンデットが横を振り向く。俺はこいつのせいで首が動かせないので、目玉だけを極限まで横に向ける。

 わずかにしか見えないが、確かにそこには、少女がいた。

 長い黒髪に、電柱のような高身長。

 そして冬らしいダッフルコート。

 隣の赤い三角屋根の上に、足をガクガクと震わせながら、女の子が立っている!

 手に持った黒い物体をこちらに向けていた――何だ『あれ』?

 いや、『あれ』か?

 『あれ』なのか!?

 通称『あれ』、略称『未成年みせいねん保護目的ほごもくてき拡散型電流かくさんがたでんりゅう開放装置かいほうそうち』、正式名称『未成年みせいねん保護ほご目的もくてきとして支給しきゅうされる拡散型かくさんがた電流でんりゅう開放かいほう装置そうち』なんだなそうなんだな!?

 おい待て、ということは、あの少女は――

 あの子は――

 あ――思い出したぞぉおおおおおお!

 全て、全てだ! すべてを思い出したぁ!

 何で俺がここにいるのか!

 何を守りたいのか!

 何を成し得るべきなのを、お前の顔を見て、お前の声を聞いて、一つたりとも余すことなく思い出した! 酸素が足りないだとか、血流が止まっているとか関係ない。俺は、俺はなぁ――!


「空耳えぇのころぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!」


 俺は雄叫びを上げ、そのままの流れで白い少年の手に噛みつく。


『――――い!?』


 完全に意識が少女に向いていた少年は、見事に不意を突かれたらしく、俺の首から手を放した。俺は重力に引っ張られるがまま落ちていき、そして床に激突する。その衝撃で俺の体は大きくバウンドし、もう一度床に叩きつけられた。

 魔の手から解放されたことで血液が体内を急激に巡り、体中が酷く痺れる。血液が流れ急低下した血圧によって、脳がしぼんでいくのが分かる。頭の中が真っ白なんだ。ついでに言うと、肺に流れ込んでくる空気のせいで喉が破裂しそうだ。

 それでも俺は体を起こし、足をでたらめに動かして走り抜けた。よだれを撒き散らしながら、まるで猛獣のように、あるいはゾンビ犬のように駆け抜けた。もちろん、あいつの元へと――空耳そらみみ狗尾えのころのところへと向かうためにな!

 それに気付いた少年は、腰ごと右を振り向きながら黒い触手を飛ばしてくる。俺を刺し殺すつもりだ。俺を殺した次は、きっと、いや間違いなく狗尾を――!


「狗尾――」


 四角いコンクリート屋根から木造の三角屋根へと跳び移りながら、空中で俺は叫んだ。


「狗尾――ぶち飛ばしていけえええええええええええええええ!!!!!!」

「うりゃああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」


 ピロロロロ――短い警告音の後に、狗尾の持つ装置から高圧電流の弾が吐き出された。

 高圧電流の弾は俺の頭上をかすめるようにして真っ直ぐ飛んでいく。

 白い少年は瞬時に羽を広げ、細い足と太い触手で屋根を蹴り、大きく後方宙返りをして弾を避けた。避けられた弾は後ろへと飛んでいき、頭を覗かせていた電柱に当たって爆散した。電柱の変圧器トランスが急激に増大した電圧に変えきれず花火を散らすのと同時に、白い少年が低い姿勢で着地する。

 そして間髪入れずに、今までのゆったりとした動きが嘘だったかのように、白い少年は狗尾を目掛けて突進した。今度は触手ではなく、右腕を伸ばし、爪を立て、狗尾の顔面を掴み取ろうとする。

 白い少年の指先が狗尾の眼球に触れるかと思われた次の瞬間――狗尾の左足が少年の横顔を蹴り飛ばした。

 女子高生の『上段回し蹴りハイキック』が炸裂した瞬間である。

 狗尾が自分の電柱のように長い脚を活かして蹴り飛ばしたんだ。白い少年をかっ飛ばすには十分な遠心力が生まれた。しかし、格闘の素人である狗尾が体重移動なんか心得ているわけもなく、そのまま後ろへと倒れ尻餅をついてしまう。

 今までの一連の流れ(狗尾が発砲してから尻餅をつくまで)が、俺が屋根から屋根へと飛び移っている間に起きた出来事である。

 俺は、尻を擦りながら痛いと悲鳴をあげている女子高生と、向こうの屋根まで蹴り飛ばされて身動きしない白いアンデットと、花火を咲かせて煙をモクモクと出している電柱の変圧器を見比べた。

 ……ちょこっとだけツッコませろ、な?

 俺は二本足で立ち上がり、大きく深呼吸をした。深呼吸には人を落ち着かせる作用があると、どこかしらのお姉ちゃんが言ったいたしな。

 すぅー……はぁー……、よし。


「え、なんだ? なんかものすごいことが起き過ぎていて脳味噌が追い付いていねぇぞ! 白いお前、え? 今まで亀みたいに鈍間な動きをしていたのに、なんか急に俊敏なことしたな!? あの高圧電流の弾を後方宙返りで避けるって、もはや人間離れしているぞ! いやお前は別に人間じゃあねーけどな。『アンデットだから運動神経いいんだろうな』とは思っていたけれども、でもわざわざ後方宙返りするよりは横に回避したほうが速くて確実じゃあないかな!? かっこつけたのか!? かっこつけた癖に女子高生に顔面蹴られてノックアウトするって相当ダサい! ダッさ! ダサすぎる!」


 そして胴体を大きくひねり、ポカンとしている狗尾を指差して。


空耳狗尾、でめぇ! まずは助けてくれてありがとう!! お前が来てくれなかったら俺は今頃あの世で歓迎パーリーだ! でも改めてその『未成年保護目的拡散型電流解放装置』の恐ろしさを知ったぞ! 電柱の変圧器から火花が飛び散っているじゃあねーか! 辺り一面が停電ブラックアウトしておりますぞーオイ!? そしてよくもまぁ、ハイキックでアンデットを一発ノックアウトさせたなぁ!? おめぇはおめぇで人間離れしているぜ! 町をブラックアウトさせて、さらにはアンデットすらノックアウトさせるって、もはや魔王だ! アウト大魔王だ! アウト大魔王って何だ!? もしかして:『ハクション大魔王』なのかそうなのか――ぐえァ!?」


 長々とツッコミを垂れ流している最中なのに、狗尾は俺の腹を持ち上げて走り出した!

 ルパン三世のように屋根から屋根へと飛び移り、そして全速力で駆けていく。


「おい狗尾、どうしたんだよ!」

「白い子が起き上がる前に、できるだけ逃げないと!」

「確かにその通りなんだが……でもよぉ、その前にもう一発撃ち込んでおけばよかったんじゃねーか?」

「その手があったか!」

「おめぇ、やはりバカだろ」


 俺は持ち上げられたまま後ろに目をやった。白い少年はいつの間にか起き上がっていて、黒く歪な羽をばたつかせると、俺たちとは反対方向にふらふらと飛んで行った。そしてそのまま――姿が薄れていき、闇の中へと消えた。

 『姿が薄れて』……というよりは『存在が薄れて』と表現した方が正確だろう。

 まさか、諦めたのか?

 いや……。

 仲間を呼びに戻った――そう考えた方が自然だろうよ。


「とりあえず、すぐに追ってくることはなさそうだがぁ……。お前の言う通り、今のうちに逃げた方がよさそうだな。あと、降ろしてくれねぇか。走れねーほど重傷じゃーない」

「今、猫さんを放したら、重心が大変なことになって転ぶよ!?」

「知るか! とにかく放しやがれ! お前が鷲掴みにしているのは猫の弱点だぞ。余計に重傷になるわ!」


 猫のみならず、脊椎動物の腹部は柔らかくできている。大昔は腹にも骨があったそうだが、無駄なカルシウムやカロリーを減らし、更には柔軟性を得るために退化したそうだ。

 狗尾は俺の腹からエイヤッと手を放した。俺は狗尾の隣にうまいこと着地し、ともに並走を始める。


「危うくゲロるところだったぜ。で、今はどこに向かっているんだ?」

「気の向くままに!」

「おいおい……。肝心なところで向こう見ずなんだよなぁ、おめーさんは」

「どうしよう猫さん!?」

「やれやれ。さっきミサトの家らしき屋根を発見したんだ。草というよりは、笹という感じだったけれどな」

「そうそこ! 間違いなくミサトくんのお家!」

「よーし、俺についてきな。もう少し走るぞ」


 ……向こう見ず、ねぇ。

 確かに、こいつが助けてくれなかったら、俺はアンデットに絞殺されていただろう。あの黒い触手で刺殺されていたのかもしれない。

 こいつが助けてくれなければ――俺は死んでいた。

 しかし――リスクもあった。

 もしも、アンデットに電撃が効かなかったら?

 もしも、上段回し蹴りが少しでも遅れていたら?

 もしも、尻餅をついている間に襲い掛かってきたら?

 俺ではなく――こいつが死ぬリスクもあった。

 俺だけならともかく――こいつまでもが殺されるリスクが十分にあったんだ。


「……ハロウィン」

「ん、何? 猫さん」

「え? あ、いや……うん」


 独り言ちていたか。

 ちょいと誤魔化そう。ついでに確認することも確認するか。


「『未成年保護目的拡散型電流解放装置』って、何発まで撃てるんだ? 使い捨てではなさそうだが」

「一回の充電で四発まで撃てるよ。えーと、だから……車で誘拐された時に一発、神社で居場所がバレた時に一発、羽が生えた少年相手に一発、で……あと一発だけ撃ったら電池切れだね」

「あと一発、かぁ。もう無駄遣いはできねーな」

「ム……今まで撃ったのも無駄撃ちじゃないもん」

「ああ、そうだな……決して無駄撃ちじゃあなかった。何度も助けてもらっているよ――ありがとな、狗尾」

「え、え? あーうん、どういたしまして……?」


 急に感謝されたことに驚いたのか、狗尾は困ったような表情を浮かべた。

 心なしか、走る速さが増した気がする。そういえばこいつ、屋根の上を普通に走っているな。あんなにヒーヒー言っていたのに。


「そんなに困惑しなくてもいいだろうに……本当に感謝しているんだぜ?」

「いやぁ……だって、何の前触れもなく感謝されたら、ね? 反応に困るというか、何というか」

「前触れはいくらだってあっただろう?」

「でも、猫さんがいなかったら……私は今頃捕まっていただろうし」

「まぁ確かに、俺が見つけていなければ、お前さんはあっさりと捕まっていただろうよ。無計画で、無鉄砲で、あわてんぼうだもんな」

「ほらね? やっぱり私、猫さんがいないとダメな子なんだよ」

「カハハッ! 狗尾がダメな子だって!? 笑っちまうぜ!」

「だって、私は無計画で、無鉄砲で――今朝だって、家出なんかしなければよかったのに。夏祭りの日だって、猫さんの言うことを聞いていれば犯人たちを逃がすこともなかったのに。春の時も、猫さんのお風呂を覗かなければ――」

「――狗尾。自分を責めるもんじゃあない。自分を責めていいのは、挽回ばんかいする機会すら完全に失って、もうどうしようもない時だけだ」


 たとえ今日家出しなかったところで、強姦魔の連中は日を改めて狗尾に復讐していただろう。

 夏祭りの日だって、狗尾が勇敢に立ち向かわなければ、手遅れになっていたかもしれない。

 春の時は……まぁ、狗尾の裸が見れたからヨシ。


「何が『ヨシ』なんだか……。ってか、猫さん、私の着替えは日頃から見るよね? もう特別感とかないでしょ?」

「だからこそ、風呂場でのラッキースケベは貴重で尊いものなんだ。事故だという認識はあるが、後から押し寄せてくる背徳感は最高のツマミだぜ」


 少し昔話をしよう。

 これは俺が人間だった頃、中学生だった時の話だ。修学旅行で温泉の宿に泊まったのだが、旅のしおりを上下逆さまに読んでいた俺は間違えて女子風呂に入ってしまったんだ(当時は本を上下逆さまに読むのがマイブームだった)。まだ誰も来ていなかったし、自分の過ちに気付かないまま服を脱いで湯船に浸った。しばらくしてトップバッターの女子が扉を開けて入ってくるのだが――それが嘆川なげきがわるいだった。もちろん目が合う。誄も俺に負けず劣らずネジが抜けている子でな、わざわざ一度俺の隣に尻を沈めて――そしてザッパーンと立ち上がって、己の腰に両手を当て、己の股間を凝視してこう言うんだ。「うち、男だっけ~???」。

 誄が女子だということを思い出した俺は、そこでやっと状況を理解した。しかし次から次へと素っ裸の女子たちが入ってくる。やばい、このままだと女子たちに殺される……本気でそう思ったぜ。幸い、誄が背中で隠してくれたおかけで発覚することはなかったのだがぁ……誄が四本の腕で女子らにセクハラしだすわ、途中で塀の向こう側にいる男子と交信が始まるわで寿命が縮むかと思った。

 結局、女子たちが全員出るまで誄が守ってくれた。お礼を告げると、誄は「むふふ……さっちん。もう一生、オカズには困らないね~」と言い残して立ち去ろうとした。そして俺が投げつけた石鹸が誄の後頭部に直撃し、気を失った誄を女子の寝室まで運んだことは、また別のお話。

 ……狗尾や彼尾花には、口が裂けても言えない。


「まぁとにかく、俺らはまだ、いくらでも挽回できる――そうだろ、狗尾?」

「うん……そうだね、猫さん。まだ、いくらでも挽回できるよね――」


 口ではそう言いつつ、狗尾の顔が晴れることはなかった。

 何を思い悩んでいるのか、俺にはよく分からない……人の心を読むのは苦手なんだよ。そもそも俺、猫だしな。


「何を心配しているんだよ、狗尾。大丈夫、きっと帰られるさ。それとも、何だ……他に不安なことでもあるのか?」

「不安、というか――いや、やっぱり不安なのかな。猫さんに……」


 狗尾は言い淀んだ。言うべきなのか、あるいは訊くべきなのか悩んでいるようだった。俺は続きを促そうとして――やめた。

 俺は狗尾の中で整理がつくまで待つことにしたんだ。今狗尾は、自分の頭で考えようと努力している。それならば、さほど時間もかからず自分の答えを導き出せるだろうぜ。手出しせず見守るのも大人の対応ってもんよ。

 ぶっちゃけ、どう声をかけたもんか分からなかっただけだがな。


「あのね、猫さん――」


 頭の中で整理ができたのか、狗尾は慎重に言葉を選んで口にした。


「ハロウィンのあの夜、満月の日――猫さんとシニガミさんは、すごく大切な話をしていたんだよね」


 ……うおおっと。

 今、その話を持ってくるか! よりにもよって断罪の話を引き出してくるか!

 強姦魔及び誘拐犯から逃げている最中なんだぜ?

 無計画だとか、無鉄砲だとか、そんな次元とは一線を画している。実はおめぇ、肝っ玉がバカでけぇだけなんじゃねーか?

 とはいえ、もうその話題から逃げるわけにはいかねーだろうよ。

 今までも、狗尾からハロウィンの日に何があったのか訊かれることは何度もあった。その度に俺はかぶりを振っては逃げ、挙句の果てには無視までして逃げた。そして今日の朝、とうとう逃げられなくなり、怒鳴り散らしてしまった。

 確かに、お互いに鬱憤が溜まっていたのだろう。

 狗尾は俺の身に何があったのか心配だし、俺は狗尾に巻き込まれて欲しくない。これは、俺が解決しないといけない問題なんだ。昔の俺が残した爪痕は、今の俺が綺麗にしないと。


「そうだな――すごく大切な話をしていた。とてつもなく大事な話だ」

「それを私が、邪魔したんだよね」

「ああ、そうだ……。おめぇさんは、とんでもない邪魔をしてくれたんだ」

「ごめんなさい、私――」


 狗尾は足を止めることなく、前を向いたまま、謝罪した――そして続ける。


「私――怖かったんだ」


 続けられた言葉が意外で、短い脚が絡みそうになったが――それでも持ち堪えて、俺は走り続けた。


「私、猫さんを失うのが――家族を失うのが、怖いんだ。こうして追いかけられるよりも、誰かに銃口を向けるよりも、シニガミの赤く光る鎌よりも――家族を失う方が、どうしようもなく怖いんだ」

「狗尾――」

「猫さん、私ね――お父さんがいたの」


 狗尾のお父さん。

 その人は、つまり、彼尾花の夫ってことか。


「私が中学二年生の頃に――夏の日だったかな。町の川に溺れたって。真夜中に川に溺れて、流されて――それで。どうしてお父さんが、よりにもよって真夜中に川に入ったのか、それがずっと不思議だったんだ」


 俺は今まで、その人の顔を見たことがない。狗尾に拾われて、空耳家で過ごすなかで一度たりとも――その人に会ったことがなかった。

 俺はてっきり、彼尾花と同じく、仕事が忙しんだとばかり――


「それでね――ハロウィンの夜に、夢を見たんだよね」


 狗尾は、聞いたこともない夢の話を始めた。


「夏なのに銀杏ぎんなん色の桜が咲いていて、足元には暖かい川が流れているの

「そして目の前には、男性の身体が横たわっていて……最初は、それが誰の身体なのか分かなかった

「でも、気付いたの――これはお父さんだって

「お父さんの抜け殻だって

「生きていないことも知っていたんだ

「その抜け殻の向かい側には、いつの間にか人が立っていた――

「――ワンピースのような黒い布で身を包んでいて、髪は銀杏みたいに綺麗な色をしているのに、すごくボサボサ

「手は背中に回しているけど、その背中から、大きな大きな鎌が頭を覗かしているの

「紅葉のように赤くて、でも、私のすべてを切り裂いてしまうかのような……

「その人が女性だって一目で分かった

「だって、綺麗な髪の色だったから――

「彼女は私に何かを言ったの――でもその瞬間、

「その瞬間、この世界から音が消えてしまった

「川が流れる音も、桜が散る風の音も、彼女の声だって――

「――全部が全部、聞こえなくなった

「彼女が何かを言ったのだから、私も何か応えないといけない。彼女が何を伝えたかったのか分からないけれども、でも、その時の私は――答えないといけないの

「私は応えた

「私は確かに答えたんだ

「そうしたら、世界に大きな穴が開いて、すべてが吸い込まれた

「川の水も、桜の花弁も――そして彼女も、私も――みんな落ちていく

「みんな落ちていく中で、姿勢を崩しながらも

「彼女は私に――赤くて大きな鎌を振り投げた

「その鎌が空を斬る音だけは、はっきりと聞こえたんだ」


 その赤い鎌は、きっと、いや間違いなく――固有体質『のこされた一枚いちまいかえで』だ。

 そして、その持ち主こそが、狗尾の夢に現れた銀杏色のシニガミ。

 水色シニガミが言っていた『先輩』なのか。


「……狗尾、次の屋根を飛んだら左だ」

「うん、分かった」

「それで、お前は……斬られたのか?」

「分からない。鎌が飛んで来たところで目が覚めたの」


 瓦の屋根を飛んで、また飛んで、左へと向きを変える。

 狗尾の目は遠くを見つめていた。


「カーテンを開けて窓の外を見たら、山際が明るくてね。いつの間にか、リビングで寝ていたみたいだったから、自分の部屋に戻ろうと思ったの。お母さんはまだ寝ていたから――お母さんね、いつもリビングで寝るの。可笑しいでしょ――それで部屋に戻ろうとしたら、扉が開いていて、話声が聞こえるんだ。猫さんと――女の子の声。それで覗いてみたら――夢で見た彼女と似た格好をした女の子が、赤くて大きな鎌を、猫さんに振りかざしていたの」


 それはまさに、水色のシニガミが俺を斬ろうとした刹那だった。


「斬られそうになる猫さんを見て、私、思い出したの。夢の中で見た、お父さんのことを――お父さんの抜け殻を――思い出したの。猫さんも、あの抜け殻みたいになるのかなって――そう考えたら、怖くて怖くて、居ても立っても居られなくて」

「それでお前は――飛び込んで来たのか」

「そう――飛び込んじゃった」

「自分が斬られるかもしれないって、思わなかったのか――?」


 俺の質問に、狗尾は言葉では返さなかった――その代わり、ニッと歯を見せながら、はにかむのであった。

 なんだかこっちまで照れ臭くなり、俺は狗尾の笑顔から顔を逸らした。


「それでね、私――知りたくなったんだ」

「知りたくなった? お前は何を……知りたいんだ?」


 お父さんが川に溺れた理由か?

 それとも、俺が断罪されることになった経緯か?

 顔が熱いのを悟られないように、俺は自分なりに考えてみたが――しかし、俺はまだ、狗尾の胆の太さを理解できていなかったようだ。


「彼女のことが知りたいの。赤い鎌を持った、銀杏みたいに綺麗な色をした彼女を――私は知りたいの」


 夢の中で見た彼女を――自分を斬ろうとした彼女を、知りたいだと?


「狗尾、お前それ――本気で言っているのか? もしかしたら、シニガミかもしれないんだぞ!?」

「もしかしたらって、どこからどう考えてもシニガミでしょ! やっぱり猫さん、シニガミさんについて知っているんだ?」


 狗尾は活発に笑うと、今度はいやらしい笑みを浮かべやがった。

 あ、これは逃げられねぇ――俺は瞬時に悟った。


「俺は、俺はだな……」

「さっきの白い男の子、猫さん確か――アンデットとか言っていたよね? なんか羽も生えていたし。触手もあったかな。あの子も何か関係あるの?」

「やめろ、やめろ! じりじりと問い詰めないでくれ!」

「っていうか、猫さんもアンデットだったりして」

「やぁめえろぉお! 俺を詮索しないでくれー!」

「化け猫とか?」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」


 空耳狗尾、なんて恐ろしい女なんだ……!

 さすが彼尾花の血を引き継いでるだけのことはある。こいつは将来、大物になるに違いない。


「猫さん、私はね――知らないといけないと思う。彼女が私に、何を伝えたのか――私は彼女に、何と答えたのか――私は知らないといけないの」


 狗尾はずっと、ハロウィンのあの夜からずっと――そんなことを考えていたのか。だからずっと、俺に話しかけて――邪険にされても、辛辣に言い返されても、無視されてもなお――知ろうとしたのか。

 彼女なりに言葉を選んで、彼女なりに時を見て、彼女なりに接しようとしていた。それは多分、狗尾にとって最も苦手なことだろう。

 ストレスだっただろうなぁ。

 お互いに相手の気分を測って、見えない琴線に触れないようビクビクして、そりゃあそんな関係、長く保っていられるわけねーわな。

 俺が人間だった頃にも、そんなことがあった。お互いに仲が良くて、ずっと一緒に遊んで、いつまでも大親友だと思っていたのに……いつだったか相手のことが分からなくなった。これまで普通に接していたはずなのに。どういう態度でいるべきか、お互いに手探り状態になった。

 そんな時はどうすればいいのか――今の俺にも分かんねぇや。

 投げやりで悪いけど、人間関係って手探りで保つもんだからよ。結局のところ、お別れする前に手を振りながら駆け寄るのが正解なんじゃねーか?


「ああ、そうだな……。そうだよなぁ」


 せっかく狗尾が、慎重に言葉を選んでくれたんだ。

 これでまた逃げるようものなら……俺は二度と狗尾に顔向けできない。

 言うべきか――俺が知っていることを。

 教えるべきか――俺がシニガミから見聞きしたすべてを。

 伝えるべきなのか――俺が経験してきた摩訶不思議な体験談を。

 『シニガミが仕事をしに来るかもしれない』などと言いはぐらかして来たが、結局は、俺が逃げたかっただけなんだ。

 自分が何者なのか、狗尾に暴露するのが――怖かったのだ。

 心臓が痛い。

 胸が苦しい。縄で締め上げられたかのように。

 だが狗尾は――もっともっと苦しかったんだ。

 シニガミの助言を思い出し、俺は大きく深呼吸をする。


「分かった、狗尾。おめぇさんの決意、よく伝わったぜ」


 狗尾は俺に顔を向け、目を大きく見開いた。


「ということは、猫さん――」

「おう、教えてやるよ。シニガミのことも、アンデットのことも、この世界の仕組みも、そして俺様についても――全部、余すことなく教えてやるよ」


 俺もついに――決意したんだぜ?

 狗尾は俺を見ながら、固唾を呑んで続きを待った。

 何から語るべきか、俺はしばらく考えを巡らかした――ここはやっぱり。


「――ここはやっぱり、俺の自己紹介からかな?」

「猫さんの……自己紹介?」

「そう、自己紹介だ。お前は俺を『猫さん』と呼んでくれるが、俺には元々、別の名前があるんだ。この町じゃあ有名人だったから、お前も多分、知っている名前だと思うぜ」


 この名前を名乗るのも……二十一年ぶりか。


「よく聞きな、狗尾。俺は一度しか名乗らない主義なんだ」

「うん、絶対に聞き逃さないよ。猫さん」

「よーし、いくぜ狗尾。俺の名前は――」


 遠くの黒い雲の隙間から、白い月が見え隠れしていた。あの日の月はどうだったかな。まさか、今見える月と同じだってことはないだろう――なにせ、日本の反対側だからな。


「俺の名前は――うおぉい狗尾!!」

「え――あ゛!!」


 次の瞬間、狗尾は下へと姿を消した。

 屋根同士の隙間に気が付かずに落ちてしまったんだ。

 程なくして大きな物音が響き渡る。俺は一度飛び越えた隙間へと足を戻し、恐る恐る下を覗き込んだ。


「狗尾? おーい、狗尾! 大丈夫か!?」


 精神を研ぎ澄まし耳を傾けてみたが、返事はない。

 ミサトの家を探すために結構な高さまで登ってきたんだ。もしも地面までに落ちてしまったのだとしたら、無事でいられるかどうか――?

 俺は急いで屋根を駆け下りる。下の屋根から下の屋根へと飛び移り、ついにコンクリートの地面まで辿り着いた。

 どうやらここは路地裏らしく、月明かりすら届かない細い道が十字に伸びていた。辺りを見渡して狗尾を探す。狗尾は間違いなく、この辺に落ちたはずだ。


「猫……ねこさぁん……お助けぇ」


 後方から、まるで墓場から蘇ったゾンビのような声が聞こえてきた。

 慎重に振り返ってみると、そこには大量のゴミ袋に埋もれた女子高生がいる!

 おい見ろ動いているぞ!

 ひょっとしたらこれ、世紀の大発見なんじゃねーの? ローマの博物館に展示されていても違和感がなさ過ぎて素通りしそうだ。

 ……まぁ、狗尾だとは思うが。

 俺は短い脚を動かして近づき、はみ出ている腹に前脚をぽんと置いた。


「……猫さぁん?」

「なんというか、お前は本当にシリアスブレイカーだな」

「まずは大丈夫かどうか聞いてほしんだけどぉ?」

「お前ならきっと大丈夫」

「そっかぁ……私なら大丈夫かぁ……」


 狗尾はもぞもぞとうごめき、ゴミ袋の山から頭を出した。

 俺と目が合う。

 しばらく見つめ合い、狗尾は片手をゆったりと挙げてこう言った。


「うーっす」

「『うーっす』じゃあねーよ。やる気が感じられないコンビニのバイトか」


 何だ、その人生を達観しているみたいな顔は。

 今まで見た中で最高に面白いぞ。


「まったく、しゃーねーな」

「えへへ……」


 俺は二本足で立ち上がり、狗尾の手を引っ張り上げようとした。

 引っ張り上げようとした次の瞬間――俺の身体は宙を舞った。

 狗尾の目が丸く見開く。

 何者かに蹴り飛ばされた俺は、路地裏に並ぶ家の壁に衝突する。受け身なんか取れるわけもなく、衝撃が体中を駆け巡る。

 俺は何が起こったのか理解できずにいた。何だ、いったい何が起きたというんだ――!? 状況を把握しようと辺りを見渡そうとした。しかし首が動かない。この感覚、前にも、どこかで味わったことがある。あれはそう、確か、ブラジルで――?

 

「やっと……やぁっと……やっと見つけたッス!」


 そんな、活発そうな青年の声が聞こえた。

 硬そうな金属を引きずる音も聞こえる――金属バット? いや違う、金属バットほど重そうな音ではない。奴はいったい何を持っている?


「猫さん、猫さん、猫さん! しっかりして、猫さん!? 」


 狗尾が俺の元へと駆け寄り、俺を抱き上げ声を荒げる。狗尾の目には今にも涙が溢れそうになっていた。

 俺の目は辛うじて、狗尾の後ろにいる奴の姿を捉えた。

 真冬だというのに、半袖に半ズボン。左手には――ゴルフバットを握りしめている。そして足元には――金属チェーンを巻いたコンバットブーツを履いていた。俺は、あんな物騒な物で蹴られたのか!?


「やれやれ――やぁれやれやれやれやれやれ、探すのに苦労したッス。町を何周したと思うッスか? そんなもん数えるわけないんだなぁ!?」


 ガツ、ガツと金属チェーンを踏み鳴らしながら近づいてくる。

 ゴルフバットを家の壁に打ち付けながら、確実に距離を縮めて来る。


「狗尾……お前だけでも――逃げてくれ」


 喉が焼けるように痛いのを堪え、俺は声を絞り出した。

 狗尾は俺の言葉を理解すると、頭を振り返した。


「そんな、そんなこと……できるわけないよ。猫さんを置いていくだなんて、そんな残酷なこと――私にはできない」


 その声は震えていた。

 それでもなお、狗尾は俺を地面に降ろし――腰にぶら下げていた『あれ』を手に取った。


「狗尾――無茶だ」

「大丈夫、猫さん――私に任せて」


 狗尾は立ち上がり、青年の方を向いた。

 膝が震えているのが伝わる――


「ああ、あ……? ああ、ああ、まーたそれッスかぁ? 僕はこんなに、紳士的に接してあげているというのに!」

「何が、何が紳士的ですか――車で無理やり誘拐しておいて、ここまで付け回して――何が紳士的だと言うのですか」 


 狗尾は強がったが――声は明らかに、小さかった。

 お前、お前――本当は怖いくせに、何が『任せて』だ。何を『任せろ』だ――!


「あなたを撃ちます。そして警察を呼んで、大人しく逮捕されてもらいます」

「へぇ、へぇへえへえ! 撃てるんでスかねぇ!?」

「もちろん――私には撃てますとも」


 狗尾は指に力を込めた――最後の一発を撃つつもりだ。


「頼みますから、動かないでください――また顔面に当たっても、知りませんから」

「顔面って――この顔のことッスか? この火傷のことかぁアバズレェ!?」


 青年が自分の顔を指差す――その顔には、既に木の根っこのような火傷の跡が広がっていた。狗尾が付けた傷なのか……?

 へぇ、やるじゃん。

 改めて『未成年保護目的拡散型電流解放装置』の威力の恐ろしさを知る。軍用として自衛隊にでも配備した方がいいんじゃねーか? もしかしたら、犯罪の再発防止のために、わざと傷跡を残すように調節されているのかもしれない。とはいえ、今こうして再発しているわけだが。

 まぁしかし、狗尾なら外すことなく命中させるだろうぜ。

 最後の一発ではあるが……ミサトくんの家も近いし、ここさえ乗り越えれば――十分に逃げ切れる。

 俺の身体はボロボロだし、正直に言って完治できるのか怪しいところではあるものの……隠居生活も悪くはないだろう。

 ん。

 んー?

 何か、重大なことを忘れている気がする――何だ?

 今日は確か……俺の命日、だよなぁ?

 だとすると、死ぬとしたら……今が最も適しているんじゃねーの?

 ここは路地裏で、助けを呼べるかも怪しい。

 正面には、足にチェーンを巻きゴルフバットを持った強姦魔が立っている。

 そして俺は、蹴り飛ばされた影響なのか、体が動かない――骨髄こつずいをやっちまったかもしれない。

 あれ?

 もうこれ十分に死ねるよな? 死ぬ条件は十二分に揃っているよなぁ?

 仮に今は死なないとして――じゃあ、他にどのタイミングで死ぬというんだ。

 それとも、今、死ぬと仮定したら――原因はいったい?

 俺の身体は動かないが、しかし、蹴られた程度で死ぬものなのか? 実は内臓が破裂していて、今もなお確実に死んでいる最中なのかもしれない。

 他に考えられるとしたら……半袖半ズボンの青年に、殺されること?

 いやしかし、あの青年が高圧電流の弾丸によって動けなくなるのは、もはや決定事項なんじゃ?

 狗尾が持つ『未成年保護目的拡散型電流解放装置』が弾詰まりでも起こさない限り……弾詰まり、だと?

 まさか――弾、なのか?


「おい待て、狗尾――俺らは何か、とんでもねぇ勘違いをしている」


 俺は残り少ない糖分を使って、脳味噌を激しく回転させた。

 何だ、何を勘違いしているんだ……過去を遡って、見逃していることはないか探さないと。

 『未成年保護目的拡散型電流解放装置』は、狗尾曰く、一回の充電で四発を撃つことが可能だ。

 アンデットに一発お見舞いする前は、神社で不良に追い詰められた際に一発撃った。この二つの件で二発消費している。

 さらに前には、狗尾が誘拐された際に、車内から脱出するために一発消費している。

 つまり、合計三発まで消費した。

 この計算が間違っていない限り、あと一発は撃てる状態にある。

 狗尾はまだ撃てるはずだ。

 そのはずなんだ――あと一発なら、撃てるはずなのに。

 あと一発、あと一発だけなら、確実に撃てるはずなのに――待てよ。


「大丈夫、大丈夫だよ、猫さん――私が、猫さんを守るから」

「さっきから、なーにをぼそぼそ話しているッスかねぇ? 目の前に僕がいるというのに!! まさか猫と喋っているんスかぁ? だったら、その猫から殺してやるッスよ!」

「狗尾、逃げるんだ――その銃は――!」


 その銃は――“たまれ”だ!

 そう言おうとしたが、すでに手遅れだった。

 青年は殺意を持ってゴルフバットを振り下ろし――

 狗尾は引き金を引いて高圧電流の銃弾を撃ち込もうとした――しかし、『未成年保護目的拡散型電流解放装置』から警告音が鳴ることもなく、最後の銃弾が放たれることもなかった。

 “弾切れ”即ち――“電池でんちれ”である。

 狗尾、おめぇ――

 


「狗尾――どけぇ!」


 俺は最後の力を振り絞り、狗尾に思いっきり体当たりをした。

 デブ猫で本当によかった――普通の猫だったら、体当たりしたところで飼い主を押し倒すことはできないだろ。

 青年が降り下ろしたゴルフバットが、俺の胴体に直撃する。

 背骨が折れ――肋骨が曲がり――肺が潰れ――胃液が逆流し――腸が裂ける。

 骨が折れる音を聞くのは――これで二度目だ。

 そして俺は知っている。この音が聞こえるのは、これから死ぬ時だ。

 経験から学んだ。

 やっぱり、206本の骨じゃあ、全然足りねぇ。いや、206本なのは人間の場合か……猫の場合は果たして、いったい何本なんだ?

 って――そんなどうでもいいことを考えている場合か。


「猫さん――!」


 頬に大きな擦り傷を作った狗尾が、俺の上に覆いかぶさる。

 馬鹿野郎――何で逃げないんだ。それで俺を守ったつもりかよ。

 無計画だとか、無鉄砲だとか、胆が太いとか、色々考えたけど――やっぱお前、バカなんだな。

 捨て猫がいたら拾って、襲われている人がいたら助けて、後輩達のために部活動を盛り上げようとして、猫がシニガミに斬られそうになっていたら頭を下げて――そして今度は、また俺をかばうのか。

 お前はどこまでバカで――どこまでお人よしなんだ。

 もっと、もっと自分自身をだな――


「Cat Died」


 この訛った英語は……あの白いアンデット、戻ってきたのか。


「……ボス?」

「He Died.To Tell the Truth,I Thought i Could make Friends with Him」


 嘘つけ……完全に殺す気満々だったじゃあねーか。

 

「猫さん、猫さん――いかないで」


 覆いかぶされて、狗尾の表情は見なかったが――小刻みに震える声は、俺の心臓を締め上げた。

 狗尾、なぁ狗尾、頼むからよ――お前だけでも逃げてくれよ。そう声に出そうとしても、空気が喉を擦るだけだった。


「To go……Take Out」


 重い打撃音が響き――狗尾の全体重が俺に乗る。

 お前、こんなに温かったのか――狗尾の体温に軽く驚いてしまった。こんなこと、今まで意識したことなかったのに。

 やがて狗尾の体温は離れていき、半袖半ズボンの青年が狗尾を担ぎ上げているのが見えた。お前が、狗尾に、触れるんじゃあねぇ――怒りと何もできない悔しさが混ざり逢い、喉の奥で黒く充満していく。今ならば、例え酸素がなくとも、この黒い霧で呼吸ができそうだ。

 希薄な白いアンデットが、見開いた目で、見開いた瞳孔で――俺の目を覗き込んできた。

 その目に映る猫の顔は――この世の中で最も忌み嫌われるべき顔だった。

 

「Goodbye my Friends,Thank you for Making Me Smile today」


 少なくとも俺には、そう見えたんだ。


「HAHA――Nice Joke」




  ■  ■  ■




 月明かりすら差し込まない路地裏にて、白いインキュバスの少年に踏みつけられた猫は、間も無く死亡した。

 死因は内臓破裂、脳髄損傷によるショック死である。

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