流 罪 編
目が覚めると、俺は白紙の上にいた。
否――白紙の下で寝転んでいた。
否――白紙の中に存在していた。
否――白紙の世界に囚われていたんだ。
顔を上げてみると、真っ白な世界が広がっていた。どこまでもどこまでも……際限なく広がっている。空までも白く、地面との境目が見当たらない。そもそも空という概念がこの世界に存在しているのかすら怪しく思えてくる。
「
不意に、背中を温かい風が撫でた。
春風のような――穏やかな風が、後ろから前へと流れている。
少し遅れて、視界の端を青い紙切れが横切った。いや、違う。これは紙切れじゃあねぇ――
ゆっくりと後ろを振り返ると、そこには巨大な樹木があった。
これは――桜なのか?
八十万の花を吊るす――
美しく可憐ながらも、己を否定させない熾烈な存在感は業火を連想させる。
風に揺らされ、壮大な音を奏でながら青い花弁が舞い散る。その光景は圧巻で、俺は言葉を失わざるを得なかった。
この俺が言葉を失ったんだ、とんでもねぇだろ?
舞い散る花弁が着地するまでの間、俺はその場から一歩たりとも動くことができなかった。ああ、ダメだ……頭を回さねーと。無理矢理にでも思考を続けないと、この桜に飲み込まれてしまう。
「さて、さて――言葉を取り戻そう」
そもそも俺は生きているのか?
自分の両手を眺めてみる――そこには確かに、猫の小さな手があった。
握ったり、広げたり。
感覚に異常はなさそうだ。俺の手は、ここに存在している。
手、もとい前足を地面に降ろした。ピシャリ、と擬音が響く。
そこで俺は初めて、足元に川が流れていることに気が付いた。川は極めて浅く、俺の足首までしかない。そして……温かい。人肌と同じくらいの水温。
川の底には、何やら丸い石が引き詰められている。
俺は猫の短い両手で、その石を抱きかかえるようにして持ち上げてみる。
はんぺんのように丸く、そして白い。綺麗な石だな。丸く削った白馬石かとも思ったがぁ、どうも人工物ではないらしい。
なんだか重ねられそうだったので、試しに石を積み重ねてみた。
ほほう、これはなかなか……素晴らしいアート作品が出来たんじゃあねーか?
評価に値する。
もしかして俺には、美大落ちの独裁者に匹敵する芸術の才能が眠っているのかもしれない。
「まぁ、俺様にとってはドーナッツの穴を均等に分けるより簡単だったぜ」
「それって楽勝ってこと? それとも難関やってこと?」
「余裕だってことだ」
「そもそも『ドーナッツの穴を均等に分ける』って何さ」
「俺が人間だった頃、つまりは高校生だった頃の話だ。世界評論部の
「ほへぇ……それでどうしたの?」
「いやぁ、これがなかなかの難題でな。伝馬と俺で脳味噌を絞ったのだが、これが全然分からなかった」
“普通ぬ切る分こちりダモ?”
“うーん、切り分けると穴が消えてしまうからな”
“平行ぬ切っちりどえ?”
“平行に? うすくスライスするってことか。確かにその方法なら穴は無事――って、うす過ぎるだろ。薄切りハムじゃあるまいし”
伝馬との会話を思い出す。
伝馬は産まれてまもなく、誰もが驚く運動能力に覚醒した。関節は人一倍に曲げられるようになり、筋肉は瞬時に動かせるようになり、感覚はより繊細に敏感になった。
感覚が研ぎ澄まされる分、情緒不安定にもなりやすい。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感が敏感過ぎて、彼女の脳には常に膨大な量の情報が流れ込んでくる。そのためか自分の心を整理するのが難しく、精神が大きくぶれやすい。
大胆な運動能力と、繊細な心を持つ少女。
それが碇伝馬なんだ。
「特技は四足歩行で全力疾走すること、それが碇伝馬なんだ」
「その特技はわざわざ追記する必要があったの?」
伝馬をマジギレさせた時は天井を四足歩行して追いかけられたからな。
「何をやらかしたのさ……」
「伝馬はいつもお気に入りのぬいぐるみを持ち歩いているんだ。
「うっわ……さいてーだねー」
「わぁってるよ。その結果、校舎中を命懸けで鬼ごっこだ」
「命懸けは言い過ぎちゃう?」
「いやいやいや、泣き叫びながら追いかけてくる伝馬は恐怖そのものだったぞ」
最後は誄に土下座してユニコーンを修復してもらうことで、事態はなんとか収まったのである。
「あなた、幼馴染に頼り過ぎちゃう?」
「ああ、まったく本当に、頼り過ぎていたよ」
「で……ドーナッツはどうしたの?」
「おう、簡単な話だ。難関なように思えて易しい問題だったのさ。むしろ基本的なこと――って、なぁにしれっと俺の独り言に混ざっているんだ!?」
俺は後ろを振り返った。枝垂桜とは反対側だ。
しかし、そこには誰もいなかった。
辺りを見渡して
「どこば探しよーと? 上を見てみぃ」
上――上だと?
もう一度後ろを振り返り、上に顔を向ける――そして目が逢った。
視線と視線がばっちり交わった。
視線に絡み取られ、俺の体が硬直する。
そこには――女の子がいた。
女の子が――桜の枝に両脚を掛け、ぶら下がっている。
ワンピースのような黒い布で身を包み、重力で裏返るのを防ぐためなのか、布を太ももで挟んでいる。二本に長く結ばれた髪は水色で、やはり逆さまに垂れ下がっていた。
両手は背中に回しているが、大きな大きな鎌が頭を覗かしている。
ニコッと、不敵の笑みを浮かべる少女。
……おい。おいおいおい。
「やはりお前か――シニガミ!」
そう、そこには、あの水色のシニガミがいたのだ。
春の日に突如として現れ、俺に余命を告げたポニーテールの少女。
ハロウィンの前日、俺が化け猫のアンデットであると暴露し――そしてハロウィンの夜には、姉と兄と共に力を合わせ俺を断罪しようとしたボブの少女。
人の心をいとも簡単に見透かすシニガミ。
今日は――三つ編みか。しかもツインテール。
髪が伸びるの早すぎねーか?
「やっほー、シニガミだよ。ハロウィン以来の久しぶりだね!」
水色のシニガミはぶら下がったまま、小さく手を振る。
俺はそんなシニガミを見上げながら、その真下辺りにまで近づいて行った。
「まったく、なーに呑気にぶら下がってんだおめぇは」
「へぇ――呑気に見えるんだ?」
「ああ、呑気に見えるぜ」
「あふふ」
シニガミは口元に意味ありげな笑みを浮かべた。逆さまに垂れ下がった三つ編みが風に揺れている。
「あなただって結構、呑気に見えるけどね。石なんか積み上げちゃってさ、ひょっとして『
「『賽の河原』? それって確か、親よりも先に死んだ子供が三途の川で石を積み上げるも、鬼に崩され続ける話だよな」
「正しくは、三途の川の河原で、だけどね」
「そんなつもりは毛頭なかったのだがぁ……言われてみれば、『賽の河原の石積み』に見えなくもない――って、まさかここは……」
まさかここは――三途の川なのか!?
あの世とこの世の境に存在するとされる川。
生前に善行を積み重ねた者は橋を渡り、軽い罪を犯した者でも浅瀬を渡ることができる。
そして重罪を溜めこんだ愚か者は、深く荒れた下流を渡らなければならない。川の底には大蛇が待ち構えており、水面に顔を出そうものなら鬼に矢で射抜かれる。ある意味、罪人に科せられる最初の罰なのだ。
今は『渡し舟で川を渡る』という話が主流かな。
渡し賃として
「正しくは、“元”三途の川なんやけどね」
「“元”? なんだそれ、ダムでも建設されたのか?」
「昔は使われていたのやけど、今はもう、渡る死人は誰もいない。廃棄されたってことよ」
「廃棄された? なんでだよ」
「3Rが始まって以来、渡る死人そのものがいなくなったの」
記憶を消して、無作為に、転生――そりゃあ、渡る死人は誰もいないわけだ。死んだところで、速やかに転生されるわけだしよ。
……ちょいと待て、3Rが始まって以来だぁ?
3Rが執行されなかった時代があるのか?
死んでも記憶を消されず、無作為に転生されることもなく、幽霊として存在できる、そんな時代があったというのか!?
「それはもう、遠い昔の話。地獄の残骸だってあるし、今じゃあデートスポットとして有名」
「地獄がデートスポットに!? 血の池地獄でアヒルのボートに乗り、針山地獄で二人
「んなわけあるかいな。血の池地獄は血を流す人がいなくて枯れちゃったし、針山地獄は危ないという理由で伐採されたし、舌抜き地獄は道具がまだ使えるからって歯科クリニックが出来たし」
「ツッコミどころが多くて無視した方がテンポが良いとは分かっていながら敢えてツッコミを入れるぜ、丁寧にな! 第一に血の池地獄は枯れるものなのか! 第二に地獄でありながら危ないという理由で伐採された針山地獄が可哀想過ぎる! 第三に舌抜き用の道具を使いまわす歯科クリニックになんか行きたくねぇ、ってかそもそもシニガミに虫歯が出来るのか!? そして最後に、俺のボケに対してボケで返すとは何事だぁ!」
よーし、長々とツッコミを入れたらすっきりしたぞ。
やっと調子が出てきたようだ。調子が出てきて――そしてやることがある。
俺は小さく息を吸い、一気に吐いた。
こんな呑気に雑談をしている場合じゃあないくらい、流石に俺でも分かる。
「なぁ、シニガミ?」
「何かな、あなた?」
「俺が三途の川にいるってことは――死んだってことだよな」
半袖半ズボンの青年にゴルフバットで殴り飛ばされ、最後は白いアンデットに踏み潰された。それはどうでもいい話だ。
問題は――狗尾が連れ去られたことにある。
狗尾が連れ去られたことに比べれば――俺が死んだことは大した問題ではなくなる。俺がもうじき死ぬことくらい知っていた。だがどうして、よりにもよって――
「よりにもよって――どうしてこのタイミングで」
「さぁ――私に聞かれてもねぇ?」
「シニガミ、狗尾は無事なのか?」
「どうでしょうかね~、何事もなく無事だといいね~」
「ふざけていないで、真面目に答えてくれ。俺は真剣に訊いているんだ」
「私は真面目だし真剣だよ。これまでも、そしてこれからもね」
「話にならねぇ……」
あの白いアンデットには「相手の話を最後まで聞け」とか偉そうに言ったが、しかし、こういう風に話が通じない相手はどうしようもない。
「えー、もう諦めちゃうん?」
枝にぶら下がっていたシニガミはそう言うと、身体を揺らし勢いを付け、半回転するように枝から飛び降りた。
そして真下にいる俺に向かって落下した。シニガミの右足が俺の左側に、シニガミの左足が俺の右側に着地する。その際、大きな水しぶきが生まれ、俺を左右から襲う。ついでにシニガミの服が大きくめくれ上がり、その中身が露わになる。
ノーパンだった。
つるつるだった。
「うわあああああああ、びっくらこいたぁああ!」
「おお、危なかったね」
「でめぇ、絶対わざとだろ!? 真下にいると分かったうえで飛び降りたな!?」
「肝試しにちょうどいいかなって」
「いやそれ、失敗したら死ぬの俺じゃあねーか! 肝試しで他人の命賭けんじゃねぇ!」
「死んどるからちょうどいいかなって」
「確かにそうだけども! 死んでいるけれども!」
「ってゆうか、ノーパンに対しては触れへんの?」
「触れないようにしてやってんだよ! こちとら一生懸命スルーしてたんだぞ! なんだ触れて欲しいのか!?」
「せっかく脱毛してきたのに」
「これ以上話を広げようとするなぁー!」
とは言いつつ、頭上のノーパンから目を逸らせずにいる俺であった。
ガン見してしまう。ガン見せざるを得ない。
すげー、マジでつるつるだ!
「これはむしろ、凝視しないと失礼というものだ!」
「あなた、心の声が漏れちゃってる」
「うるせぇそんなこと関係ねぇ、もっとよく見せろ!!」
「ひゃうん!?」
身の危険を察したシニガミは飛び跳ね、俺から距離を取った。
さて、話を戻そう。
こんな茶番を繰り広げている場合ではないのだ。
「シニガミ、俺は――戻れるのか?」
そう、俺は戻らなければならない。
俺の飼い主である女子高生、
だから決して、賽の河原で石を積んで遊んでいる場合ではないし、水色のシニガミと昔話に花を咲かせている場合ではないのである。もちろん、ノーパンを鑑賞している場合でもない。
「シニガミ、どうなんだ?」
シニガミからの返答がないため、俺はもう一度尋ねた。
しかし、シニガミは答えない。足元の石を適当に転がしたかと思うと、その石を拾い上げては誰もいない白い水平線に向かって投げた。石は水面で跳ねて、跳ねて、跳ねて――そして転がり落ちた。
「……おい、シニガミ。遊んでいないで答えてくれよ。俺はだな――」
「――ねえ、あなた」
投げた石の行く末を見守ったシニガミは、振り返って、俺の言葉を遮った。
そして青い桜の花弁が舞い散る中、こう続ける。
「来世が楽しみだね」
そんなことを――口にする。
なぜそんなことを、口にするんだ。
「来世って……まだ早えよ」
俺から視線を外すように、シニガミは再び背を向ける。
俺の言葉を遮るように、掻き消すかのように、シニガミは声をはりきって言う。
「次はどんな人生になるのかなあ――もっと都合の良い環境だと、嬉しいよねえ」
「おい、聞いているのか?」
「次はどんな生命に生まれ変わるのかなあ――もっとまともな身体だったら、良いよねえ」
「俺はまだ……」
「次はどんな生物と巡り合えるのかなあ――もっとお友達が出来たら、楽しいよねえ」
「俺には、まだ……」
「次はどうやって死ぬのかなあ――もっと優しい死に方だったら、いいのにな」
「なあ――シニガミ!」
「ねえ――さとる」
青色の花弁が風で舞い散る中、シニガミは黒いワンピースをはためかせながら振り向いた。
そして、静かな声で言う。
「してくれたよね――私を、拒絶しないって。そういう約束」
振り向いたその顔は、悲しげで、寂しげで――。
なんで、どうしてお前が――そんな顔をするんだ。どうして声を、震わせているんだ。
白い世界を吹き抜ける風はより一層強まり、青色の桜の花を撒き散らす。
風に乗って散らかされた花弁が俺の視界を遮り、シニガミの姿を隠した――次の瞬間!
刺すように投げられた鎌は勢いを保ったまま突進し、俺の腹にめり込んだ。内臓がひしゃげる音が聞こえる。
「グッハァ――!?」
俺の身体は宙を舞い、浅い川底を一回転しては二回転して、水しぶきを発生させる。
なんだ、いったい何が起きた?
俺は腹を抑えながらシニガミを探す。
シニガミは空中を舞う鎌を水面に落ちるよりも先に拾い上げ、俺に向かって突進してくるところだった。蹴られた川底が大きな水しぶきを噴き上げる。
「おい待て、シニガミ――!」
シニガミは俺の言葉に耳を貸すこともなく、鎌を水平に振り抜くようにして切りかかって来た。
俺は間一髪で後ろに跳ぶ――しかし、シニガミは切った勢いのまま一回転して二発目をお見舞いする。その二発目は見事に俺の右横腹を殴り飛ばした。
「ゴッフゥ!?」
今度は水面をえぐるように飛ばされ、俺の身体は青い枝垂桜の太い根本に叩きつけられる。
俺はどうにかして酸素を吸いこもうとし、その結果激しく咳き込んだ。
自分の腹の状態を確認する。どうやら今までの二発とも峰打ちだったようで、血を吹き出している様子はない……しかし、何故か俺の手には血が付いていた。口の中の鉄分の味に気付き、理解する。どうやら吐血したらしい。
俺は顔を上げ、こちらへと落ち着いた歩調で近づいて来る彼女を見た。その顔には影が差し込んでおり、表情は読めない。しかし、先ほどの悲しげな表情が消え去っていることだけは確かだった。
この時、俺は初めて認識する。
――『死神』だ。
――『死神』に、殺される。
この少女は、間違いなく、本物の『
転生すべき魂を、無作為に転生させる。
死神の――絶対の使命。
記憶を消して、無作為に、転生。
しかし、今だけは――狗尾を助けるまでは、寿命を迎えることはできない。
俺が助けるんだ。
俺が助けなくちゃ、誰が助けるというんだ。
狗尾のためならば、運命だって拒絶しよう。
狗尾のためならば、死さえ拒絶しよう。
狗尾のためならば、死神であろうと――
死神、だろうと――
“してくれたよね――私を、拒絶しないって。そういう約束”
「クソ……クソ、クソ、クソッ。クソがぁあ――!」
自然と無意識に独り言ちる。悪態が口を突いてやまない。
約束したじゃないか。約束したじゃないか。約束したじゃないか――!
俺は死神の追撃から逃れようと川底を蹴り上げた。
蹴り上げた……はずだったが。
ガクンと身体が傾く。
身体が傾き――そのまま水面に倒れ込んだ。右半身が川に沈む。
何だ、何が、何をされた?
立ち上がろうと手を、厳密には前脚を突く。しかしまたもやバランスを崩して前方に倒れた。階段を踏み外した感覚に近い。何かが決定的におかしい。何かが明らかに足りない。
困惑する中で、目の前に青色の花弁が舞い降りてくる。
暖かい風に踊りながら舞い落ちる花弁に紛れ――『それ』はボトッと落ちてきた。
『それ』は猫の肉球だった。
猫の小さな肉球が――猫の手が水面に落ちる。
「…………んあ?」
なんだ、これは。
誰かが落としたストラップか?
ほら、よく……あるだろ。ラバー質感の……猫の手を模した、アクセサリー。
視線を、落ちた猫の手から、自分の脚へと移す。
足下には、三本の脚があった。三本の――三本の脚しか付いていなかった。
脚が一本……足りねぇ。
「う――うわああああああああああああああ!!!!」
この猫の手は、俺の手だ――!
俺の前脚、右側の前脚だ――!!
気付いた途端、切り離された右肩から血が噴き出し水面に模様を描く。骨が折れたときとは比較にならない激痛が襲い掛かる。
「わあああ、あ、ああ、ああああああああああ!!」
俺の姿はいつのまにか、生前の姿へと、人の形へと変わっていた。
水面に落ちていたのは猫の手ではなく、人の腕だった。
素っ裸だったはずの俺の身体は、真っ黒な学ランに包まれていた。だがしかし、今はそんなことに構っている場合ではない。とにかく、とにかく血を止めねえと――!
右肩を掴んで出血を止めようと試みる。
しかし、猫の手では肩を掴むことすらままならない。猫の手――いや違う、人の手だ。成人男性の左手だ。それでもなお、右肩から吹き出る血を受け止めることはままならなかった。
「『
川底で転げ回る俺を足で受け止め、死神は言う。
いてぇよ。普通に痛いから叫んで転げ回ってんだよ!
死神は俺の腹に、鎌の刃を添える。
その鎌はシンプル極まりない忘却体質『
刃ですら金属体に挟まれており、まともに切れるのかすら怪しい。
「大丈夫だよ――上手に切るから」
死神の鎌が、無数の複雑機構がシャカシャカシャカと歯ぎしりを立てる。細いバネが跳ね返りターンターンターンと甲高い音色を鳴らす。
「死神の技法『
声を上げる暇もなく、
「共感体質『
機械仕掛けの刃によって、腹を切り刻まれた。
■ ■ ■
目が覚めると、俺は学校の空き教室にいた。
追記――俺は部室に存在していた。
追記――パイプ椅子の上で眠り込んでいた。
追記――折りたたみの長机に伏せていた。
顔を上げてみると、見覚えのある部屋が広がっていた。木造の壁に引き詰められたアルミの棚。薄い磨りガラスがはめ込まれた頼りない横開き扉。ニスが所々剥がれている木目の床……。
そして、白い蛍光灯。
「う、わ、あああああああああああああああ!!」
いつのまにか着ていた夏の白いシャツをめくり上げ、さらに真っ白な肌着をまくり上げて自分の腹を確認する。そこには……すべすべの綺麗な腹筋があった。
おかしい。
どう見てもおかしい。
どうして無傷なんだ。それに何だ。この、すべすべの、ツルツルした肌は。いつもの毛並みは?
なんで腹筋まであるんだ。
六つに割れてやがる。八つじゃあねーのが無駄にリアルだ。
しかも俺、服をまくり上げなかったか?
これじゃあまるで、俺が人間みてーじゃあねぇか。
「そりゃあ、そうやわ~。だって人間だも~ん」
――すぐ隣の頭上から、やけに懐かしい声がした。
――関西人特有のイントネーション。
――空気へと化しそうな透き通った声色。
この声は。この、声は……!
「そうだよぉ、うちだよ~。久しぶりやねぇ――“さっちん”」
“さっちん”
俺をそう呼ぶのは、君しか、いないじゃないか。
心臓が高鳴り、悲鳴を上げている。頭から血の気が引いていく。
声の主の元へと、のろまに顔を向ける。
「実に――高校以来やねぇ」
長机の上に腰掛けた、冬のセーラー服。
左右に結ばれた、黒いツインテール。
四本の腕を持て余したかのように、手遊びをする女子高生。
見上げると、そこにいたのは。
そこにいたのは、世界評論部のメンバーであり、中学からの幼馴染でもある――
「さぁて。『
――冬の日に、少年院で首を吊って亡くなったはずの、
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